詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

茨木のり子を読む

2011-09-28 23:59:59 | 現代詩講座
茨木のり子を読む(「現代詩講座」2011年09月26日)

 茨木のり子の『倚りかからず』(筑摩書房、1999年10月07日発行)を読みます。朝日新聞の「天声人語」が取り上げて有名になりました。私がつかっているテキストは2011年04月10日発行のもので、第20刷です。ベストセラーであり、ロングセラーでもあるんですね。私は、実は、今回はじめて読みました。
 
倚(よ)りかからず

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ


 いつものように、同じことを聞きます。
質問 読んで知らないことば、わからないことばがありますか?

全員「ありません」

 知らないことば、わからないことばがないということがわかったので、次に進みます。 きょうは、私の方がみなさんから教えてもらいたいことが多いので、たくさん質問します。質問、質問、質問というか形で、少しずつ読んでいきたいと思います。
 
 まず、田村隆一の詩と比べて、どちらが簡単だったか聞かせてください。簡単か、むずかしいか、まず、それだけ言ってください。そのあとで、具体的な感想を聞きます。

全員「茨木のり子の方が簡単」

 次に、この詩を読んで、この詩を要約し、どう感じたかを聞かせてください。

「私は私。できあいの思想に翻弄されずに生きている。男たちを駆り立てた思想をおんなは信じない。おんなは自分の意思で立って生きる。そうしたいし、そうできる」
「既製のものによりかからずに自分で生きる。その生き方に共感する」
「しがらみにまきこまれても、自分がしっかりしていればいい。自分の意思を確立していればいい」
「茨木には『私がいちばん美しかったころ』という詩があるが、そのいちばん美しかったときに戦争があった。時代の思想に翻弄されて生きてきた。そういう時代を経て、たよれるのは自分の思想だけである--という気持ちを確立した女性が茨木。いろんな知識を身につけ、自分のなかに思想が確立している。共感する」
「こんなふうになればいいなあ、と思う。自分の思想ができるまでには時間がかかるのがよくわかる」

 あ、みなさん、とっても丁寧に読むんですねえ。
 私は、みなさんほど、丁寧には読みませんでした。
 「何にも倚りかからずに生きていきたい」と茨木は言っている。それ以上は考えずに読みました。
 みなさんがしっかりこの詩を読んだということは、それだけ茨木の考え方に共感した、ということだと思います。ここに書かれていることは間違っているというような感じでは受け取らなかった。ここに書かれているのは、その通りだ、という感じで受け止めたということだと思います。

 で、これから少しずつ意地悪な質問になるかもしれませんが、その最初の意地悪。
質問 みなさんは、田村隆一の詩に比べて茨木のり子の詩が簡単といったのだけれど、その「簡単」というのは、別なことばでいうと、どうなりますか?

「比喩をつかっていない」
「やさしい」
「単刀直入」
「ストレートに言っている」
「表現が直接的」

 あ、「比喩をつかっていない」というのはおもしろいですねえ。「表現が直接的」というのと似ているかな?
 田村隆一の詩と比べると、たしかに比喩も逆説もない、ストレートな感じですね。
 私は「簡単」をちょっと違ったふうに考えています。
 私は、さっき、みなさんから感想を聞き出す前に、「詩を要約し」それから感想を言ってくださいと言いました。
 要約ができる、短いことばで言いなおすことができるとき、「簡単」ということになるのかもしれませんね。
 「何にも倚りかからずに生きていきたい」と茨木は考えている。そんなふうに、この詩を「要約」できると思います。その要約にたどりつくまでに、あれこれ、これはどういう意味だろうと悩まなかった。田村隆一のときは悩んだと思います。それに比べると、意味を考えて悩むことはなかった。だから、簡単--そう感じるのだと思います。
 このとき「要約」したものは、たぶん茨木のいいたいことになると思います。茨木のいいたいことを、自分のことばで短く言いなおすことができる--だから、簡単だと感じる。
 ところで、その「言いたいこと」というのは、茨木の詩のなかにあることばで「要約」すると何になります? 自分の言いたいこと、を「言いたいこと」といわずに表現している単語はどれになりますか?
 ちょっと学校の国語の試験みたいだけれど、考えてみてください。

 「思想」ですね。「言いたいこと」(考えていること)は、短いことばで言うと「思想」になると思います。
 まず、最初に、茨木は「結論」から書いている。「できあいの思想に倚りかかりたくない」。
 そして、同じようなことばを繰り返していますね。
 「思想」「宗教」「学問」「権威」とことばをかえながら、同じようなことを繰り返している。

質問 これはなぜですか?

「ことばをたたみかけている。できあいの思想に手痛い仕打ちを受けたので、それを一気に批判している」
「戦後、思想、宗教、学問が揺らいだ。現代も間違っていることが氾濫している。自分を確立していくことが大切だとはっきり言いたいから。茨木のり子は批判精神が強いひとだと思う」
「強調したいのだと思う。絶対的に正しいものはない。ひとつの思想に傾倒することは危険だと警鐘を鳴らしている」
「正解がないということを強調している」
「茨木の思想からみると、世の中がすべて気に入らない。全否定。、もはや、ということばがそれを強調している」

 あ、みなさん、ちょっと先へ進みすぎる。
 真剣にこの詩を読み、共感しているからそうなるのだと思います。
 もうちょっとゆっくり読みましょう。

 くりかえしたことについて、いろいろな考え方ができると思います。
 私は何度かこの講座で話したことだけれど、ひとは大事なこと、言いたいことは何度もくりかえす、と考えています。言いたいことがある。けれど、ひとことではいえない。だから、ことばをかえて言いなおす。そうすると思っています。
 茨木が言いたいこと、それはたしにかに「できあいの思想に倚りかからずに生きたい」ということになると思います。けれど、では「できあいの思想」って何? それがよくわからない。茨木自身も「できあいの思想」だけでは言いたいことが言い尽くせていないと思って、別のことばで言いなおしたのだと思います。
 そうだとすると、「思想」「宗教」「学問」「権威」というのは、どこかで共通点があるというか、似たものであるということになりますね。まったく違うものだとすれば、おなじように「倚りかかりたくない」とはいえなくなる。
 前回、田村隆一の「帰途」を読んだとき、同じ「述語」でことばを受けるならば、その「主語」が違っていても同じようなものを指しているということを指摘しました。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

 この2連から「言葉のない世界」「意味が意味にならない世界」が同じようなもの。「あなたが美しい言葉に復讐され」ることと、「きみが静かな意味に血を流」すことが同じようなものだと指摘しました。
 「思想」「宗教」「学問」「権威」も似たようなものでないと、論理的につじつまがあわない。

質問 では、「思想」「宗教」「学問」「権威」のどこが似ていて、どこが違うのだろう。

「思想、宗教というものは人間を成り立たせている根源的なもの」
「権威は、人間を格付けする」
「権威主義は生きていく上で必要ではない」
「すべてが権威だと思う」

 むずかしいですね。
 こういうとき、どうするか。これは、あくまで私の方法です。わからないことにぶつかったとき、どうするか。
 何か「わかる」ことがそのまわりに書かれていないかなあと思ってさがします。そうすると「できあいの」ということばが繰り返されていますね。
 「できあいの思想」「できあいの宗教」「できあいの学問」。茨木のよりかかりたくないものは、「できあいの何か」ということになると思います。
 「思想・宗教・学問」よりも、「できあい」を強調したかったのかもしれない、「できあい」に共通する何かを言いたかったのかもしれない、と私は考えます。
 「できあいの」というのは、どういう意味ですか?
 「すでにあるもの」ということかな?
 既製品という言い方があるけれど、その「既製」、すでにつくられたもの、すでにつくられて、いま、ここにあるということになりますね。
 この「できあいの」ということばと反対のことばが、この詩のなかにあると思います。

質問 それはなんですか?

「じぶんの、かな」

 私も「じぶんの」になると思います。
 「じぶんの耳目」「じぶんの二本の足」これは、だれかがつくったもの、できあいのものではありませんね。「既製のものではない」「既製品ではない」というのが「じぶんの」ということになります。「できあいの」「既製の」というのは「じぶんの」ということばと比べてみると、他人がつくったものということになると思います。

 そうすると、いままで読んできた部分は、「他人がつくった思想」「他人がつくった宗教」「他人がつくった学問」ということになると思います。

 で、私は、これまで、あえて

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 の「権威」について触れてこなかったのだけれど。
 この2行だけ、他の行と違ったところがありますね。「できあいの」といわずに「いかなる」と言っている。
 変でしょ?
 でも、私の読み方では、これは変ではありません。
 この2行は、実は、

もはや
いかなる「できあいの」権威にも倚りかかりたくはない

 という行なのです。
 「できあいの」が省略されているのです。
 なぜ省略されたのでしょう。これが、おそらくいちばん意地悪な質問だと思うのですが、なぜ、省略されたのでしょう。

「思想・宗教・学問に対して、権威はそれに順位をつけるものだから」
「権威は、思想・宗教・学問と違って、ひとを統率する力だから」
「でも、思想にも権威はある」

 私は「いかなる」ということばを茨木は書きたかったからだと思いました。
 「できあい」のものは、「思想」「宗教」「学問」だけではありません。いろいろあります。その「いろいろ」を「いかなる」と茨木は言い換えているのです。
 そして、「思想」「宗教」「権威」を、「権威」とも言い換えているのです。
 「権威」というのはなんでしょうか。
 いま、みなさんの答えのなかに、ひとを統率する力とか、順位をつけるという考えがあったけれど……。私も、似たものを感じます。
 広辞苑には「他人を強制し服従させる威力。人から承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力」と書いてありました。
 何のことか、わからないというか、ややこしいですね。でも、まあ「他人を強制し」というのがひとつの理解の手がかりになると思う。
 「じぶんから」ではなく「他人から」働きかけてくる力ですね。それもたぶん、このときの「他人」というのは「上から」という印象があると思う。「上から目線」という言い方があるけれど。
 このとき、その「上から」というのは「既製のものはできあい、できあがっている」から「上」にある。「じぶんのもの」というのはまだ未完成。なかなか自分は完成していると主張できるひとはいないですね。で、完成と未完成を比べると、どうしても「完成」の方が「上」、未完成の方が「下」ということになる。
 たとえば、自分の「思想」と、できあがっている(できあいの?)カントの思想、マルクスの思想と比較して、自分の方が上といえる人います?
 キリスト教と比べて、自分がみんなに広めようとしている「宗教」の方が上といえる人います?
 こんな例はよくないのだけれど、たとえば自分が出た大学で学んだ学問の方が、東大、ハーバードで教えている学問より上って、いえる人います?

 ここで、また、意地悪な質問です。
質問 茨木は「倚りかからず」「倚りかかりたくない」と繰り返しているのですが、この「倚りかかる」というのは、どういう意味だろう。
 最初の方で、みなさんは「知らないことば、わからないことばはない」と言っていたのだけれど、これはどういう「意味」だろう。
 この詩のなかでは、それを別のことばで言いなおしているけれど、それと結びつけるとどうなるだろう。
 
「自分で立つというのが、よりかかるとは反対のこと」
「よりかかるというのは、だれかにもたれること」
「傾倒すること」
「頼ること」

 「じぶんの二本足のみで立って」いる、自分だけで立っている--私も、これが「倚りかからず」ということになると思う。
 でも、これは、とっても変ですねえ。
 私には、とっても変に思える。

 できあいの思想に倚りかかっている人います? 宗教に倚りかかっている人います? 学問に倚りかかっている人います? 権威に倚りかかっている人います? 倚りかかったことがありますか?

受講生「茨木は、いままで生きてきて、いろいろなものを批判できるようになっている。その基礎的なものが確立されている。だから、倚りかからずに言える」

 そうなのかもしれません。
 でも、どうも、ここに書いてあることが私には納得ができない。
 「倚りかからる」というのは「もたれる」「頼りにする」というのとは違う意味ではないかなあ、と私は思う。
 では、どういう意味?

 ちょっと残り時間があと30分ほどなので、このままだと終わらない。ここからは質問を減らして、私の考えていることを中心に喋っていきますね。

 「倚りかからず」とは、どういう意味だろう。

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 この2行を手がかりに考えてみたいと思います。
 さっき「権威」を「できあいの思想」「できあいの宗教」「できあいの学問」を言い換えたものと言いましたね。そして、「権威」というのは「他人を強制すること・動かすこと」と言いました。
 その「他人を強制する・他人を動かす」ということばを、「思想」「宗教」「学問」「権威」の「動詞・述語」してつかってみると、どうなるか。

できあいの思想を利用して他人を強制することはしたくない

できあいの宗教を利用して他人を強制することはしたくない

できあいの学問を利用して他人を強制することはしたくない

できあいの権威を利用して他人を強制することはしたくない

 これも、実は変です。
 そういうことをしたことがある人、いますか?

 いま、私は、「講師」という立場(これも、権威の一種かもしれないから)、私はそれを利用してみなさんに質問し、答えを要求するということをしている。みなさんを、強制的に動かしている--といえるのかもしれないけれど、まあ、それはちょっとわきにおいておいてくださいね。
 きっと、ないと思います。
 茨木はどうだろう。
 あるのかな? ないのかな?
 「もはや」ということばを手がかりにすると、そうしたことがあったと考えることもできます。とくに最後の「権威」ということばにこだわれば、茨木は「現代詩の権威」ですね。そのことを利用して、何か他人に要求するようなことがあったかもしれない。たとえば、私がみなさんに質問するというようなことが。
 でも、まあ、なんとなく、そうではないだろうなあ、と思う。
 もし、そのことを反省しているのだったら、もっと反省のことばがあるはずですから。
 そうすると、ここでは何が書かれているか。
 「じぶん(茨木は)あらゆる権威に倚りかかりたくない」、権威を利用して他人に何かを強制したくない--そう反省しているというよりも、そうではなくて、権威を利用して他人に何かを強制しているひと(つまり、権威に無意識によりかかっているひと)を批判していることになる。
 茨木は自分の生き方を書いているのではなく、まあ、書いているのではないというと言い過ぎだけれど、自分の生き方を書くというより、他人を批判している。世間の多くのひとを批判している。
 茨木はとても批判精神の強い人だと思います。

 この詩は、とても変な構造をしている。
 見かけは、「なに不都合のことやある」までが1連目。そして最後の3行が2連目になる。けれど、読んでいると「いかなる権威にも倚りかかりたはくない」と「ながく生きて」のあいだにも、不思議な間合いがある。
 他人を批判してきて、突然「じぶん」の生き方を書いている。

ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい

 という2行。ここには、やはり変なところがある。わかりにくいところがある。

受講生「心底、ということばが大事だと思う。ただ学んだではなく、茨木は心底と言っている」

 あ、むずかしい問題だなあ。
 私は、そのことを考えませんでした。
 私は別なことを考えました。
 「学んだ」と茨木は書いているけれど、誰からだろう。誰が教えてくれたのだろう。だれも教えてくれていないと思う。
 だから、ここに書いてあるのは一種の反語、逆説ですね。教えられて学んだのではなく、自分で、他人を批判することで身につけた、体でおぼえたことなんですね。
 「心底」は、もしかすると、そういう意味かもしれません。

 「体でおぼえる、肉体でおぼえる」というのは前回、田村隆一のとき触れたことなのだけれど、茨木は「心」で学ぶのかもしれない。「心の底」で学ぶのかもしれない。
 でも、茨木も「心」だけではなく体でも学んでいると思う。体で学んだことだからこそ、次に、自然に「耳目」「二本足」という肉体をさすことばも出てくる。

じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

 「じぶん」というのは「耳目」「日本足」のように、まあ、「肉体」をもっているものだね。

 で、この3行のうちの「なに不都合のことやある」というのはなんだろう。

質問 「なに不都合のことやある」を、ふつうに話していることばで言いなおしてみてください。

「何か不都合なことがあるだろうか」

 そうですね。そして、「何か不都合なことがあるだろうか」というのは、「いや、そんなことはありはしない」ということばを誘い出していますね。否定されるのをまっていることばです。
 「反語」ですね。田村を読んだとき「逆説」という感想がたくさんでたけれど、これも逆説の一種。
 「や」は文法的にいうと「係助詞」になるのかな? 私は文法は苦手で、適当なことを言ってしまうけれど、間違っていたらごめんなさい。
 「なに不都合なことはあるだろうか、ありはしない」という具合に、疑問形で問いかけ、否定のことばを導き出すという働きをしています。
 この凝ったというか、気取った部分--ここに、私は詩を感じます。かっこいいですね。このことばのつかい方。突然、文語になる。

 で、ここで、詩が終わるのかなあ、と実は私は思いました。読者から「いや、そんなことはない」ということばを引き出しておしまい。
 詩集では、ここまでが48-49ページの見開きです。だから、なおのこと、ここで終わったのだと思っていました。
 ところがページをめくると、次の3行がありました。

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

 私はとてもびっくりしました。
 何なのだろう、この3行は、なぜ書いたんだろう。

質問 なぜ、書いたんだと思いますか?

「年をとっているから。若いときは書かない。自分の考えがしっかり確立しているから書いた」
「強い自分の意思をあらわしている」
「でも、茨木のり子はとてもやさしい人ですよ。批判精神が強く他人に頼らない。その一方で、他人を招き入れる包容力の強いひと」
「他人に頼らず、自分の生を終えるということを書きたかった。実際、茨木は夫が死んだあと誰にも頼らずに生きているし、子どもたちがいっしょに住もうとさそってくれたのも断っている」
「強いわよねえ。私だったら、すぐ子どものことろへ行ってしまう」

 あ、みなさん、茨木のことをいろいろ知っているんですね。私は実は茨木のり子のことはまったく知りません。
 だから、ただ、ことばだけを読みました。そして考えました。
 みなさんの感じていることとはちょっと違うかもしれないけれど……。
 視点を変えてみてみます。
 この3行より前の部分は「批判」であるというふうにして読みましたね。そしてそこに書かれているのは、茨木のことのように見えたけれど、実は他人のこと。他人の姿を描写し、それを批判していた。批判のことばで他人を描写していた。主語は「他人」ですね。
 ところが、この3行には「他人」は書かれていません。自分のことだけです。
 他人は権威によりかかり、ひとを動かす、ひとに強制する。そういうことを自分は学んだ。
 でも、自分は、そういうことはしない。「倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」である。
 そこまではわかっても、どうにも納得がいかないことがある。
 なぜ、ここで「椅子」が出てきたのか。
 その前には、「じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある」と「立つ」という動詞がつかわれている。けれど、ここには「椅子」が登場している。書かれてはいなけれど、これは「座っている」ですね。
 なぜ、ここで「すわる」を暗示させる「椅子」が出てくるのか。

「座っているのではないのじゃないのかなあ。立ったまま、椅子の背もたれに手をおいている。姿勢を支えている」

 ええっ、そうなんですか?
 私はそんなふうにはまったく考えたことがなかった。
 どうしようかなあ。
 時間がないので、とりあえず、私の感想をつづけさせてくださいね。

 なぜ、「すわる」という印象が強い椅子がここに出てくるのか。「立っている」を強調するなら、

倚りかかるとすれば
それは
家の柱だけ

倚りかかるとすれば
それは
ふるさとのなつかしい一本の木だけ

 でもいいのでは?
 もっと適切な何かがあるのでは?
 家の柱は大黒柱=権威、ふるさとの木は大木=よらば大樹の影=権威という具合に連想されててしまうから、いちばん権威から遠いものを選んだのかな?
 けれど椅子にもいろいろ種類がある。
「英国王のスピーチ」には、吃音をなおす「教授」が王の椅子に座ると、王が「それはおれの椅子だ」と怒るシーンがある。椅子だって権威をあらわすことがある。
 なぜ、ここで「椅子」なのか。
 ここが、この詩のいちばんむずかしいところだと思います。

 もしかすると、この「椅子」は「立っている」に対して「座っている」ということをあらわすための「椅子」ではないのではないだろうか。
 これは、私の立てた仮説です。
 で、これから、その仮説が正しいかどうか、点検して行きます。

 前半の「倚りかかりたくない」を私たちはどんなふうに読み直したか、思い出してみたいと思います。

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 これを「いかなるできあいの権威をも他人を動かすことに利用したくはない。権威を利用して他人を動かしたくはない」という具合に読みましたね。
 「倚りかかる」を「じぶんで立っている」という意味ではなく、「何かを利用して他人を動かす」という意味に読み直しました。
 ところが、そういうことを書いたあとで、自分のことを書こうとしたら「二本足のみで立っていて」と「立つ」という動詞がでてきてしまった。
 他人を「動かす」--この「動かす」という動詞と「立つ」という動詞の関係はあいまいですね。うまく関係を結ぶことができないですね。

 「立つ」とはどういうことなのか?
 「立つ」ということばで言いたかったことは何なのか。
 茨木は言いなおそうとしているのだと思います。
 何度も言いますが、ひとは大事なこと、言い足りなかったことを必ず言いなおす、だから、その言いなおした部分を手がかりに見ていくと、そのひとの書こうとしていること、言おうとしていることに近づける--つまり、わかる、というのが私の、ことばの読み方の基本です。
 「立つ」で何を言おうとしたのか。
 それは「立つ」と「すわる」、「椅子にすわる」ということばのなかにある共通点を探せばいいのだと思います。
 「立つ」と「すわる」には、どういう共通点がありますか? 似ていることろはなんですか?
 私は「動かない」だと思います。
 「おまえ、そこに立っていろ」というのは、「おまえは、そこから動くな」という意味ですね。「すわっていろ」も「すわったまま、そこから動くな」という意味になると思います。
 「動かない」というのは、自分自身の体を動かさない、という意味でもありますね。
 「権威を借りて他人を動かす」というとき、そのひとは必ずしもあっちこっち動き回って他人を動かすのではなく、机にすわったまま指示をだすということもあるかもしれないけれど、それは「見かけ」の動きですね。そこにいるけれど、指示を出して動かす、何かを言って動かす。
 それに対して「椅子に座っている」と「すわる」に重きをおいてそのことばをつかうとき、そこには「指示をだす」という要素は入っていないと思います。「すわる」は「動かない」、そしてその「動かない」は他人になんらかの働きかけをしない、ということです。「じぶんの二本足のみで立って」いるというのも、他人に何かを強制するようなことはない、という意味になると思います。
 ひとを動かすようなことはしない。
 それを強調するために、椅子に座っている、と言おうとしているのだと思います。
 そして、「椅子の背もたれに倚りかかる」というのは、単にすわるというよりも、楽な姿勢でいるということですね。ここにも、「すわって指示をだす、指示をだして他人を動かすのではない」という意味が感じ取れます。ゆったりしている。休んでいる。そのためになら、椅子の背もたれくらいによりかかってもいい--これは、批判のまま詩を閉じると、批判が強くなりすぎる、意味になりすぎるので、それを避けたのだと思います。

 意味が伝わればいいというのではなく、意味以外のものがあってこそ、詩になるのだと思います。ここで「椅子にもたれてすわっている」というのが「意味以外のもの」なるかどうから、ちょっとあやしい問題ですが……。

 この詩のもうひとつの不思議。
 「倚りかからず」の「倚る」という漢字。
 この漢字をつかったことがあるひと、いますか? 知っていましたか? 辞書で調べたひと、いますか?
 少し調べてきました。大修館書店の「新漢語林」。「(1)よる。(ア)もたれる。よりかかる。(イ)たのむ。たよる。すがる。寄せる。(ウ)原因する。(エ)調子をあわせる。(ノ)かたよる。偏する。(2)立てる。(3)まかせる。
 「たのむ」という「意味」を手がかりにすると、「権威をたのむ」は「権威を利用する」「権威の力にまかせる」という「意味」がなんとなく思い出されますね。

質問 そういう「意味」とは別に、何か「倚る」から思うことはありませんか?

「倚るは人ヘンだけれど、椅子は木ヘン。ヘンをかえると倚は椅になる」

 そうですね、「椅子の、椅、の字」にとても似ている。一方は人偏、一方は木偏。
 「奇」という文字は「めずらしい。あやしい。ひとつ、対の片方。二で割り切れない数。あまり、はした。ふしあわせ」というような意味がある。(漢和辞典)
 「ひとつ、対の片方」という意味の「奇」と人偏、木偏が結びついて、「倚る」という漢字、「椅子」という漢字ができたのかな? ちょっとわかりません。
 でも、一方の人偏、木偏の「人」「木」については、いろいろなことを感じます。
 「人」は動きますね。一方「木」はそこにあるだけで自分では動かない。

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 を、いかなる権威をも利用してひとを動かすようなことはしたくないという意味に読みました。
 そのときの「人が人を動かす」という意識が、ここに反映しているかもしれない。
 人を動かすのではなく、動かないもので「倚る」という文字に近いものはないかなあ。そう思ったとき、そこに「椅子」がふっと思い浮かんだのかもしれない。
 人と奇が合わされば「倚る」という、人を動かすことばを生み出してしまう。
 けれど人と木が合わされば「椅子」。それは人を動かさない。ひとはそこに「すわる」ではなく、「動かずにいる」。
 動かない、ということをあらわしたくて、「椅子」ということばを選んだ--と私は考えました。

 で、一応、詩を読み終わって、最後の質問。
 「椅子のうえで動かない」というところまで私たちは考えてきたけれど、何か変な感じがしませんか? そのまま、納得できますか?

 タイトルの「倚りかからず」ということばだけを取り出して見たとき、どんなことを思いますか? 詩を読んだあとで、その詩のことを忘れて考えるというのはむずかしいことだけれど、もし「倚りかからず」ということばだけがあるとする。そして、それを読んだとしたら、どんなことを思いますか?
 私は「そんなところによりかかっていないで、さっさと仕事をしろ」「動け」というようなことばを思い出してしまう。
 「倚りかからず」というのは、動きなさい。自分の体をつかいなさい、という「意味」をもっている。
 そうすると、最後に私たちがたどりついた「結論」といっていいのかな、茨木はこの詩では「動かない」ことを言っているというのは、間違っていることになる。矛盾してしまいますね。
 最初に「倚りかからず」に動けというようなことを連想させながら、最後には「動くな」という。「動け」「動くな」--どっちが言いたいのだろう。

 「動け」「動くな」--これは、矛盾なのだけれど、こういう矛盾のなかに、そのひとのほんとうに言いたいことがある。思想がある、というのが私の基本的な考えです。
 「矛盾」してしまうのは、ようするに「できあい」のことばで茨木が語っていないからです。「できあい」のことばというのは、その「意味」が固定されています。誰もがつかっている「流通言語」です。そういう「流通言語」をつかわずに、じぶんのことばで書いてみる。だれもつかっていない「意味」をこめてことばをつかってみる。そうすると、どうしてもうまくいかない。どこかで、何か変なことがおきる。つまずいてしまう。この詩のように、「倚りかからずに動きなさい」ということからはじまりながら、「動かずに椅子に座っていなさい」という結論にたどりついてしまう。この「結論」を間違い(矛盾)から救いだすにはどうすればいいか。
 どうして、そういう結論になったか、それをもう一度みつめないといけない。
 タイトルの「倚りかからず」と本文でつかわれている「倚りかかりたくない」を結びつけて、もう一度詩を読み直してみる。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない

 これは、ていねいに読むと、「できあいの思想には倚りかからず、じぶんの思想で動きなさい」という意味になる。さらにていねいにいうと、「できあいの思想に倚りかかって、じぶんの思想(ことば)を動かさないでいるのではなく、じぶん自身の思想、じぶんのことばで語りなさい」ということになる。「できあいの思想に倚りかかるというとこは、じぶんの思想を動かさないこと、じぶんで思想をつくらないことになる。そういうことはやめて、じぶんの思想をつくりなさい。じぶんをつくりなさい」ということになる。
 じぶんの思想をつくる、じぶんをつくる。そのためには、「じぶんの耳目」を働かせる。じぶんの「二本足」のみで動く。そうしなさい。疲れたら、まあ、休みなさい。ただし、勝手に動いていく「できあいの思想」や何かではなく、ぜったいに動かない「椅子」にすわるようにして、その背もたれに身をあずけるようにして休みなさい。
 「できあいの思想」「宗教」「学問」「権威」というものは、かってに動いていく。私たちが直接関係しないところで、動いて変化していく。そういうものに、たよらず、ただ自分をつくりなさい--そういうことを言っているのかなあ、と思います。

 前回、「茨木のり子」をいっしょに読んでほしいという声が出たとき、私はちょっと変なことを言ったと思います。
 茨木のり子の詩は簡単だと思われている。けれど、簡単に見えるものはとってもむずかしい。むずかしく見えるもの(たとえば田村隆一の詩)は意外と簡単で、茨木の詩はむずかしい。茨木の詩がどんなにむずかしいか、ということを話してみましょうか、と言ったと思います。
 なぜ、むずかしい。
 私は、ひとの思想は「矛盾」のなかにあらわれると考えています。言いたいことをじぶん自身のことばでいおうとすると、どうしても世間一般で言われていることとかみ合わなくなる。じぶん自身でも、何かさっき言ったこととちがったところにたどりついてしまったなあ、うまくいえないなあ、というところにたどりついて、もう、やめた、というようなことがおきる。
 これは、ちょっと逆な言い方をすれば、そのひとの「矛盾点」が見えれば、その人がわかる、ということでもある。
 田村の詩の場合、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という逆説からはじまっている。わざと逆のことをいっている。ことばをおぼえたから、いろいろなことを書くことができる。伝えることができる。それなのに、そんなことをおぼえるんじゃなかった、おぼえなければよかったというのは、だれがみても変、何か矛盾している。そういう「矛盾」がとてもわかりやすく書かれている。だから、それをときほぐしていけばいい。どういうことかな、と考えていけば、田村に近づいて行ける。
 けれど、茨木の詩の場合、どこが矛盾しているかわからない。
 矛盾がわからないから、そのまま「そのとおり」と思ってしまう。私も茨木のり子と同じように考える。「権威なんかによりかかってはだめ」と思う、とすぐ納得してしまう。わかったつもりになってしまって、考えない。
 でも。
 でも、ですよ。
 茨木のり子は、まず最初に、それを「だめ」と言っているんです。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない

 私たちと茨木の詩の関係を考えてみる。
 茨木の詩は、「できあいの思想」です。すでに、天声人語で称賛され、みんながそのことば、その詩がいいと言っている。その詩はひとつの「権威」にもなっている。
 それをそのまま、借りてきて、私もできあいの思想には倚りかかりたくないといってしまうとき、そこには私たちのことばはいっさい含まれません。そこにあることば、思想は、茨木の思想に「倚りかかった」状態です。
 茨木の詩に感動しながら、茨木がしてはいけないといっていることをしてしまっている。矛盾に陥っている。

 さて、どうしましょう。

 とてもむずかしいですね。わかればわかるほど、むずかしくなりますね。
 で、そのむずかしくなったところで、今回はやめます。
 茨木のいっていることはとてもむずかしい。
 ふつうの人にはできないことを書いています。茨木は、たぶん、とっても強い人です。批判力が強く、自分自身というものをしっかりもっている。そして、自分を動かすようにことばを動かしている。簡単に言うと、とっても「立派」な詩人です。
 立派すぎて、私にはちょっととっつきにくい。

 私はまた「倚りかからる」こと「頼る」ことが、そんなに悪いこととは思ってもいない、からかもしれません。
 石垣りんの作品に、銭湯に入っていたら若い女性が近づいてきた。襟足を剃ってほしいと剃刀を渡されたというエッセイがあります。若い女性はあした結婚する。だから、襟足を剃ってほしいというのです。それを聞いて、石垣は襟足を剃ってやる。頼ってきた若い女性、もたれてきた若い女性をそっと支える。そのとき、石垣のなかで、不思議な力が生まれる。他人をささえる力。もたれるということは、そういう他人の力を引き出すということもある。石垣はもたれられながら、若い女性の幸せを祈る--そのなかで育っていく人間の力。これは、私は、何度思い出しても涙が出てしまう。美しいなあ、と思う。
 茨木の作品を読んだあとで、こんなことを言ってしまうのはよくないのかもしれないけれど、私は茨木の作品よりも石垣の詩の方が好きです。



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倚りかからず
茨木 のり子
筑摩書房
コメント (1)
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古崎未央「椀の中」

2011-09-28 08:43:09 | 詩(雑誌・同人誌)
古崎未央「椀の中」(「臍帯血withペンタゴンず」(1、2011年09月10日発行)

 「臍帯血withペンタゴンず」は、名前からして凝っているが、そこに集う詩人たちもそれぞれにことばに対しての「凝りよう」があるようだ。
 古崎未央「椀の中」の出だし。

後ろから浸り、百日紅に槍、吾の坊の棒もしなり、左、見遣り依頼、落雷の方に猿とモヒカンが卑猥に絡まりY・Y・Yの字、袋小路に去り、然りとて頭髪を剥ぎ、貼り、裸足から抜いてもぎもがき、解ぎ、炎の仄かの放り解ぎ、紛れもあり塗れ、揉まれ鹿尻、つるてんとした尻々。

 最初は不思議な尻取り。脚韻(?)といった方がいいのかな?
 ひた「り」、さるすべ「り」、や「り」、しな「り」、ひだ「り」、みや「り」、からま「り」、さ「り」、しか「り」、は「り」……という具合。
 「意味」は、まあ、だいたいのところを感じればいい--なんて、いいかげんかもしれない。「だいたい」の意味もなんにもないなあ。ただ、音があるだけである。
 「いらい」「らくらい」とか、「ひわい」「わい」「わい」「わい」。
 「猿とモヒカン」が出てくるが、まあ、その猿とモヒカンが「卑猥に絡まり」、セックスしている--と思いたければ思えばいい。「猿」は単にあとで出てくる「去り」の呼び水に過ぎないし、「モヒカン」も「頭髪を剥ぎ」の「頭髪」を呼び込むためのことばだろう。--いや、これは正しい順序ではないな。「猿」と書いたから「去り」が呼び出され、「モヒカン」と書いたから「頭髪」が出てきたのだろう。「去る」や「頭髪」を予定していて、「猿とモヒカン」を書いたのだとしたら窮屈でおもしろくない。
 で、思うのだが、古崎は、ことばを「音」を頼りに動かしていくとき、それはどこまでイメージをひろげられるかということを調べ、古崎の肉体でおぼえようとしているのだと思う。つまり、肉体でおぼえることで、肉体をつかうようにことばをつかえるようになる。そういう力を拡大するために、ことばを動かしていると思う。そして、そう思ったとき、この「猿」から「去る」、「モヒカン」から「頭髪」へのことばの連絡はちょっとおもしろくない。
 「卑猥にからまり」「Y・Y・Y」もあまりおもしろいものとはいえない。古崎の世代はどうかはしらないが、私の世代では「Y」はおんなのからだをあらわすときの暗号で「WXY」と上からおっぱい、へそ、股という意味で、これではセックスとあまりにも安直に結びついて、詩を読んでいる感じがしない。
 詩は、読者の知らないことが書いてあってこそ詩なのだ。

 「解ぎ」を古崎はなんと読ませるつもりで書いているのかわからない。「ほぐす」から派生した「ほぐ」? それとも「もぎもがき」お音を頼りに読むなら「がぎ」、あるいは「かぎ」?
 まあ、そういうことは、私はいいかげんなままにしておいても平気なので、そのままにしておく。
 最初、「尻取り(脚韻?)」でことばを追っていた古崎だが、「頭髪を剥ぎ」くらいから、頭韻(?)がまじる。
 「は」ぎ、「は」り、「は」だし。
 そのあと、「もぎもがき」--あるいは「ぬいても/ぎもがぎ」? あ、「ぬいても/ぎもがき」の「ぎもがき」と、いい音だなあ。非常に「肉体」がくすぐられる。私の場合は。そのあと、読み方のわからない「解ぎ」があって--まるで、「万葉集」の「わがいもがいたたせりけむいつかしがもと」(正しい?)みたいな、わけのわからない部分をはさんで。
 「ほ」のお、「ほ」のか、「ほ」おり「●」ぎ、「ま」ぎれ、「ま」みれ、「も」まれ。あれっ、「ま」じゃなくて「も」。途中飛び越して「も」ぎ「も」がきとつながりながら、全体としては「ま行」のゆらぎになる。「ま・み」れ、「も・ま」れ--とか。
 そのあと、また、これはいったい何? 「鹿尻」。
 どうでもいい。わからないままでいい。わからないものをはさんで、ことばというか、音はまた再出発するというのが、古崎の「流儀」のようだ。

その尻皮を剥ぎ、皮を浸した真水が真緑。紛れもなく真緑。迸り網走、筋の張った尻が走り今治、非理と非理が虚空を有して吾の嬢の黒髪真緑に。

 「ま」みず、「ま」みどり。「ま」ぎれもなく。
 これ、何かなあ。
 その前には、紛れも「あり」。いまは、紛れも「なく」。「あり」「なし」。ことばが逆戻りしていくね。何を書いているのかわからないが、そのことばの運動は、まっすぐにどこかへ進んでいるというよりは、あっちこっちうろついて、もどったりもする。そういう世界のようだ。
 「ほとばしり」「あばしり」「いまばり」というのもおもしろいなあ。あいだには、「はしり」もなあるなあ。
 網走なら、やくざ。やくざなら、「筋」をとおすかどうかが問題だ--はちょっと脇においておいて。刑務所なら、男色。「尻」--も脇においておいて。
 ほとば「尻」、あば「尻」が、ほら、鹿「尻」にもどっていくでしょ? 「尻」に重点がうつっていくと、いま「ばり」の「ばり」は「ゆばり」。「尿」。だんだん、汚物に塗れてくるねえ。(塗れ、というのは、最初に見た部分にあったなあ。)「ひり」は「屁をひる」の「ひり」。「糞をひる」の「ひり」。

 私の書いている感想は、論理的ではない? 道理にあわない?
 だから「しり」ではなく「ひり=非理」なのか。
 あらら。
 でも、おもしろいなあ。こんなふうに、でたらめに(ごめんね)、ことばを動かして、そのことばが動いている瞬間瞬間に、書かれていることとはまったく関係ないことをかってに考えるというのは。「音」と「音」、「声」と「声」がかって呼びあって、ああでもない、こうでもないというよりも--無意味な笑いになっていくのは。

 だから(?)。
 最後に苦情(?)。批判、かなあ。
 「黒髪真緑に」。これは、つまらないなあ。「緑の黒髪」という常套句にもどってしまうじゃないか。
 この「常套句癖(?)」は、詩の最後で「忘れたことさえ忘れる」という、とてもつまらないものをも呼び寄せてしまう。
 「音」だけで突っ走りはじめたら、最後まで「音」そのものであってほしかった。
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