詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新延拳『背後の時計』(2)

2011-09-30 23:59:59 | 詩集
新延拳『背後の時計』(2)(書肆山田、2011年09月10日発行)

 きょうは、少し脱線。

 詩集には「栞」がついている。解説がついていることがある。私は、この類をほとんど読んだことがない。詩集が、どうにもつまらなかったとき、これはどんなふうに読めばいいのだろうと思って10冊に1回くらい読む程度である。
 今回も読むつもりはなかった。
 けれど、あ、岡井隆が書いている。読むつもりはなかったのだけれど、大好きな岡井隆が書いているか。どんなふうに書いているんだろう、と読みはじめた。

 ある日、キリスト教の本郷弓町教会の牧師のSさんからお手紙をいただいたのです。

 と、新延拳『背後の時計』を読むことになった経緯、栞を書くことになった理由から書きはじめている。
 あ、そうか、新延はキリスト教と関係があるのか。きのう読んだ詩に「十字架」とか「罪」とかでてきたが、新延にとっては、それは身についたことばだったのか……と思いながら、1ページ目を読み終え、2ページ目に進み、

ぎゃっ、

 私は声を上げてしまった。岡井は「神話の切れ端」について書きはじめている。きのう、私が感想を書いた作品である。そこに書いてあることが、そして書き方そのものが、私が書いたこととまるっきり同じなのだ。
 1連目を、まず最初の3行だけ引用し、感想を書く--というスタイルからしてそっくりなのである。
 わっ、これでは、私が岡井の文章をそのまま引き写していることになる。いわゆる「盗作」「剽窃」というやつだなあ。
 あ、困った。もうブログにアップしてしまった。私のブログの読者はとても少ないけれど、きっと「盗作」と思っただろうなあ。あまりにも似すぎている。

 言葉が清潔にそして正確に、或る種の抒情味をもつて使はれてゐるのに(当然とはいへ)共感しながら読みます。ところで、作中主体の「少年」は、誰でせう。ぼくは、なんとなく作者の少年期を重ねて読み出しました。(ちがつてゐれば、あとで訂正すればいいのです。)

 これは、最初の3行に対する岡井の感想。
 私は、書かなかったけれど、「ちがつてゐれば、あとで訂正すればいいのです。」という読み方、その態度(開き直り)--これがまず、私の考えそのもの。岡井の書いている感想よりも、まず、そこにびっくりした。私が詩の(あるいは、他の小説や映画でもそうだけれど)感想を書くときは、見境もなしに書きはじめる。間違っていれば、途中でなおす。それでいいと思って書いている。書いている途中で、最初に思ったこととはまったく違ったことを書くことも或る。「傑作」と書こうとしていて、「つまらない」と書いてしまうこともあれば、「つまらない」「大嫌い」と書こうとしたのに、「うーん、傑作だ」と書いてしまうこともある。ことばは、動かしてみないと、どこへゆくかわからない。きっと、最初に思っていたことよりも、ことばを動かしているとき、誘い出されてくるものの方が正しい--私は、そう思っている。
 あ、でも……。
 これは、私が岡井が好きで、そのことばを読んでいるうちに、無意識に取り込んでしまったことかもしれない。私は岡井のことばに影響され、その影響の下でことばを動かしている。自分で感想を書いているつもりでも、知らず知らずに、岡井をコピーしていることかもしれない、と思った。

 岡井は、その後「川」が「沼」にかわっていること、「少年」が「君」にかわっていることに触れている。「十字架」と「罪」といことばに目を止めたことを書いている。「神話」と「物語」についても触れている。「整える」ということばについても触れている。まるで、そっくりそのままである。
 あえて岡井と私の書いていることの違いを探せば、

「草矢で」落とされる夕日と、夕映えの中を落ちてくる鳥。かうひふところは、わたしのよく知る短詩型の描写力と親近性があります。
          (谷内注 落とされる、落ちてくる、には傍点がついている)

 というところである。
 私は、それにはまったく気がつかなかった。「対句風の技法」ということも気がつかなかった。これは、私が俳句や短歌を書かないから、気づきようがないことなのかもしれない。指摘されて、あ、そうなのだ、と思った。
 しかし、私が書いていないことを書いているから、私が岡井の「盗作」をしなかった--という証拠にはならないなあ。私が馬鹿だから、岡井の指摘していることがらの重要性に気づかなかったという証拠にしかならない。

 とういうことよりも。

 そしてさらに、「テクストクリティークまがいの解読」、「構造主義のはやつた八〇年代」に触れている。
 まいったねえ。あ、そうか、私のやっていることは、八〇年代の構造主義的解読なのか--と、そんなことまで、ここで教えられもするのだ。見透かされてしまうのだ。私は構造主義も、テクストクリティークも勉強はしたことがないが、そういえば八〇年代は、そういう「声」がまわりで聴こえていた。私は、自分の聞いたことを、耳で聞いて、無意識にコピーする癖があるのかもしれないなあ。
 ちょっと、どう書きつづけていいのか、わからなくなった。
 でも、がんばって、少し書いてみよう。
 岡井は、栞の最後に「悲しみの賞味期限」という作品の一部(アフォリズムめいた詩行--岡井のことば)を引用している。そして、

そのどこからでも、「本当の物語」を想像することができるやうに思はれます。

 と書いている。
 だから、私は、その岡井の引用していることばを避けて、少し感想を書いてみたい。そうすれば、そこは「盗作・剽窃」とは言われないだろうから……。



 「悲しみの賞味期限」を読んでみる。

潮が引くとき砂とともに足裏を削ってゆく感触を
何にたとえたらよいのだろう
夏の夕暮れ
悲喜は交互に調べをなすようにおとずれる
記憶しているのは些細なことばかりだけれど
われわれは「どこか」へ向かうのか
それとも
「いつか」へ向かっていくのだろうか

 1行目が、繊細で美しい。「足裏」ということばが「肉体」を刺激し、海辺を歩いたときのことを思い出させる。砂が流れていく(砂が奪われていく)ではなく「足裏を削ってゆく」がとても繊細だ。「肉体」の「足裏」は実際には削られたりしない。「感触」が、そう錯覚するのである。
 「現実」と「感触」のあいだには「ずれ」がある。その「ずれ」を書いていくとき、そこに「物語」があらわれる。
 「現実」と「私」を和解させる--そのために「物語」が必要ということだろう。
 「神話」は「私」が「現実」と和解するための「ことば」ではない。それは「現実」を超越するための「ことば」であり、「神話」のなかで「私」の「感情(感触)」は燃焼に輝く「美」になる。
 「物語」にも感情の燃焼はあるかもしれないが、それは完全燃焼ではない。何かが、残る。それは、

何にたとえたらよいのだろう

 という二行目のことばがあらわしているように、よくわからないものである。燃焼しきれない何か、ことばをもとめている何か。ことばになろうとする何か。
 この「何か」は、不思議なことに、必ずしも「同義反復」ではない。「同じことば」を行き来するわけではない。

われわれは「どこか」へ向かうのか
それとも
「いつか」へ向かっていくのだろうか

 「われわれはどこへ向かうのか/ここか/あそこか/それともそこか」と「場」をあらわすという意味での「同義反復」なら、にく経験することである。けれど、新延は、ここでは、

どこか(場)
いつか(時間)

 を同じものとしてというか、比較の対象として書いている。
 「場(空間)」と「時間」は比較の対象にはならない。--はずであるけれど、それを比較してしまう。そのとき、その「比較」を成立させているものは何か。
 「肉体」である。「足裏」に象徴される「肉体」である。
 「空間」と「時間」を「いま/ここ」に結びつけるものとして、「私」がいて、「私の肉体」がある。
 そして、そのとき、もし「私」と「あなた」がいるとすれば、「私」が動くとき「いま(時間)/ここ(場所)」が動き、また「あなた」が動くとき、あなたの「いま(時間)/ここ(場所)」が動くということでもある。ふたつの「いま(時間)/ここ(場所)」は、そのときどうなるか。
 ずれる、離れる--と私は思う。

すぐ手垢にまみれてしまう形容詞の哀れ
恋心が脱臼するように
日焼けのあとが消えてゆくのに合わせて思い出も薄れてゆく

 ここには、「私」と「あなた」の、どうすることもできない「ずれ」がある。
 「恋心」の「脱臼」は、痛いけれど、おかしい。そういう「ずれ」もあるけれど、私が触れたいのは、次の部分。
 「日焼けのあとが消えてゆくのに合わせて思い出も薄れてゆく」--この「合わせて」は「ずれ」を強調する「合わせて」である。「どこか」と「いつか」が重なり合いながら別なことばであり、別なことばであるということで「離れている」ように「離れている」。だから、それはどんなに「合わせて」動いているようにみえても決して重ならない。どうすることもできない「ずれ」がある。

もらうたびに手紙の文字がだんだん細くなってゆくのはなぜ

 「なぜ」の「理由」を「私」が知らないはずがない。知っているからこそ「なぜ」と問う。それは質問ではなく、実は、より強く胸に刻み込むためである。知っているのに聞くという「ずれ」。知らずにすむなら知りたくないのに、胸に深く刻んでしまうという「ずれ」。--そこに、「神話」ではなく、「人間」の「物語」がある。
 矛盾のなかで動くものが「物語」である。そして、思想である。

たぶんあなたの人生の中で
私は単なるエキストラのようなものだろうけれど
マラソンのリレーゾーンを伴走しているつもりだった
いまや伴走のあと離れてゆく電車
いや崇拝のあとの迷走
二つのぶらんこの揺れが合わない
いつまでも
言葉があふれそうだが無言のまま

 「伴走」したいのに「離れてゆく」。その「ずれ」。「合わない」。
 そして、「言葉があふれそうだが無言のまま」。あ、これは、言えないのか。言いたいけれど、こらえているのか。
 ひとは、いつでも矛盾を生きるのだ。矛盾の中にある、「ずれ」「分離」と、だからこそ「合わさる」ことを求めるもの、結晶として新しい形になりたいものがある。「物語」がある。
 このときの、うごめき--それを私は、詩だと思う。

 この「物語」の「結末」は、私はあえて引用しない。「結末」があると、「物語」は実は「物語」ではなくなる--私は、そう思っているからである。

雲を飼う
新延 拳
思潮社
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夏目美知子「小窓」

2011-09-30 12:45:47 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「小窓」(「乾河」62、2011年10月01日発行)

 「乾河」につどっている詩人たちは、ことばがとても静かである。その静かさに惹かれるが、静かというだけではその魅力を伝えることができない。でも、どう書けばいいのだろうか……。
 たとえば夏目美知子「小窓」。

玄関脇に小窓がある。そこから隣家の庭が見える。隣家は
長い間、空き家になっていて、壁も屋根も全体の雰囲気も、
次第に生気がなくなっていくが、端からはどうしようもな
い。窓は明かり取りほどの大きさなので、斜め上から見え
るのは腕で囲ったくらいの僅かな空間である。ブロック塀
の下の黒ずんだ部分や、縁が欠けた煉瓦の階段。そして、
半ば草に覆われた地面。草は枯れたり繁ったり新しい種類
が混じったり、多少の変化がある。
        (谷内注・「端」には「はた」、「縁」には「ふち」のルビがある)

 小窓から見えた風景を淡々とスケッチしているだけなのかもしれない。
 そのことばのなかで、私は「端からはどうしようもない。」という部分に、強く惹かれた。「端から」ということばのつかい方に、何か不思議なものを感じたのだ。いま、私は「端から」ということばをつかわない--つかわないと思う。かつてつかったかどうか、よくわからない。いわば、あまりなじみのないことばである。しかし、意味がわからないわけではない。逆に、うまくことばでは説明できないが、あ、そうか「端から」というのはこういうことか、と「肉体」の深いところで納得させられる「響き」がある。
 「読んだ」というよりも「聞いた」記憶がある。その「聞いた」ときの「響き」が私の「肉体」のなかに残っている。「端から」というとき、そこにあらわれる「距離」のあり方が、ふと「肉体」のなかにもどってくる。
 「端」というのは不思議な距離である。中心からは離れている。まさに「端(はし)」なのだ。しかし、それが「端」であるということは、「中心」がどこかにあり、それとはつながってもいる。
 それなのに「どうしようもない」。
 あ、私は、「端」ではなく「どうしようもない」に誘い込まれたのかな?
 そうではなく、「端」と「どうしようもない」ということばの「距離感」に惹かれたのかもしれない。
 「中心」とつながっている。けれども「端からはどうしようもない」ということがある。力が及ばない。--あるいは、それは力を及ぼしてはいけないということかもしれない。その「距離」のあり方が、ふいに「そこから隣家の庭が見える」の「見える」につながっていく。
 「見る」ではなく「見える」。「見える」だけではなく、夏目は「見ている」(見る)のだが、「見える」と書く。その「見える」に隠れている「肉体」と「意識」の関係が、まさに「端から」なのだ。離れている。そして、離れていながら「見る」という「肉体」でつながっている。しかし、「見る」という風に自分の「肉体」を駆り立てていくわけではない。
 自分の「肉体」が何かに関係する、そのときの動きを最小限におさえている。
 ここに夏目の「静かさ」の理由がある。
 そこにあるものを「受け止める」けれど、それに対して積極的にかかわるわけではない。「肉体」は、対象の「端」にあるだけで、「中心」へは向かって行かない。「中心」に対して働きかけない。

急に空が暗くなったと思うと雨が降ってくる。窓枠の向こ
うで、石蕗の葉が雨粒を受け、上下に揺れ始める。小石も
破けた金網も地面も次々に濡れていく。ただ黙って強い雨
に打たれている。

 こう書くとき、夏目は「石蕗の葉」になっている。石蕗の葉とは離れた場所にあって、しかし、ことばで「石蕗の葉」になる。そして、上下に揺れ始める。
 「雨粒を受け」ということばのなかに「受け」があるが、ことばで何かを書くことは、その対象になることで、対象になることは、その存在が「受け止めている」ものを「受け止める」ことである。「受け止める」という運動の中で、「私(夏目)」と「対象」が一体化する。けれど、その「一体化」はあくまで「ことば」のなかだけで起きることであり、「私の肉体」と「対象」は離れている。「私の肉体」は「対象」の「端」にある。「対象」の中心と「私の肉体=端」をつなぐのは、「ことば」だけである。
 「ことば」は「端」と「中心」をつなぐが、その連絡はただ「受け止める」ことである。

        情景は誰かの横顔のようでもある。私は
それを見ている。降りしきる音が辺りを包み込み、そのた
めに反って静けさがある。すぐ傍なのに、どこか遠いとこ
ろのように思える。

 「情景は誰かの横顔」ではなく、「夏目の横顔」である。夏目は情景をことばにして受け止めることで情景になる。そして、ことばにすることで「それを見ている」。ことばにするということは、「私」を「端」に置くことでもあるのだ。
 書くことは対象に接近することだが、同時に、対象から離れることでもある。そして、その離れ方のなかに「客観性」というものがあるのだが。あるいは、その離れ方の「距離」が一定であるとき、そこに「文体の安定」というものが生まれてくるのだが、まあ、これはちょっと脇においておいて……。
 「降りしきる音が辺りを包み込み、そのために反って静けさがある」ということばのなかの「反って」。ここに夏目の「思想」がある。ここでは、夏目は雨音と静けさの「矛盾」のようなものを書いている。芭蕉の「しずけさや岩にしみ入る蝉の声」のような「矛盾」を書いている。その「矛盾」を「反って」ということばで、はっきりとらえている。そこが芭蕉の句とは違うところだ。
 何かを書く、ことばで何か「真実」を書く、ことばでしかとらえられない「真実」を書くとき、そこには「反って」ということばに代表される「矛盾」が入り込む。そして、その「矛盾」が「矛盾」として成立するためには、「端」と「中心」という構造が必要であり、「端」と「中心」のあいだに広がる「間」が必要なのだ。「間」のひろがりのなかで、「矛盾」は運動する。

すぐ傍なのに、どこか遠いところのように思える。

 「すぐ傍」と「どこか遠いところ」には、実は、計測できる「間」(ひろがり)はない。計測しようとすると、それは逆に(夏目なら「反って」と書くだろう)ぴったり重なる。
 この「矛盾」は「どうしようもない」。解消しようがない。

 「端(はた)」ということばに誘われて、私は、そんなことを考えた。



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私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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