詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岳こう『マグニチュード9・0』(3)

2011-09-17 23:59:59 | 詩集
清岳こう『マグニチュード9・0』(3)(思潮社、2011年08月25日発行)

 大きな衝撃の後で、私たちはことばを失う。その失ったことばを、もう一度、どうやって取り戻すか。
 「潮の遠鳴り数へては」は与謝野晶子の「海恋し潮の遠鳴り数へては少女となりし父母の家」という短歌を授業で取り上げたときのことを思い出しながら書かれたものである。

教室の一番前の席
深くうなずいていたショートカット
私の家も波のほとり と

乙女とならぬまま海に抱きとめられてしまって

 与謝野晶子の歌は、ちょっと複雑な歌である。「海恋し」だから、思い出しているのだろう。「父母の家(生まれ、育った家)」では海の音が聞こえた。その音を聞きながら、晶子は、幼い子供から「少女」になった。思春期になって、海の潮の遠鳴りを数えることをおぼえた、ということかもしれない。あるいは、おとなになって、「父母の家」にもどると、その瞬間から晶子は「少女」にもどって潮の遠鳴りを数えるということかもしれない。--私は、国語の教師でも、与謝野晶子の研究家でもないので、こういうことはいいかげんにしたまま歌を読むのだが、それでも、そのとき少女の「肉体」と海の遠鳴りが呼応しているのを感じる。
 清岳の教え子(生徒)は、どう感じたのだろう。ほんとうに感じたことはことばにはならない。いや、ことばになるまでには時間がかかる。「肉体」をとおってくるので、どうしてもことばは遅れてしまう。
 まず、うなずく--という「肉体」の反応がある。自然に動いてしまうのだ。それから「私の家も波のほとり」とぽつりと声がもれる。この「声」は「感想」にはなっていない。「批評」にはなっていない--とは、言えない。この「声」は「感想」であり、いちばんすぐれた「批評」なのである。晶子の歌に反応して、しっかりと「海」を思い出している。「家」を思い出している。自分が潮の遠鳴りを聞いたことを「肉体」で思い出している。「少女」であることを思い出している。「うなずき」を、ことばが追いかけて、そして口からもれた。その「正直」な動きがここにある。
 そのことを、清岳は思い出した。清岳の「肉体」がおぼえているのだ。そのとき、生徒は生徒であって、また与謝野晶子であって、同時に清岳でもある。
 詩からは、その少女が、津波にさらわれたことが感じられる。
 その少女を思うとき、清岳は、清岳自身の「肉体」もまた、津波にさらわれたと感じている。どこかで少女の肉体と清岳の肉体が重なっている。そう感じる。
 ひとの命を奪う津波と、晶子の書いている潮の遠鳴りはいっしょのものではない。いっしょのものではないからこそ、清岳は、少女に「潮の遠鳴り」をおぼえておいてほしいと祈っているのかもしれない。憎い「津波」なのだが、海を愛したこと、海を愛し、海に愛され、いっしょに生きたことを清岳は少女におぼえておいてほしいと祈っている。
 それは、清岳自身の、絶対的な「祈り」かもしれない。
 いまは、美しい潮の遠鳴りなどを思い出す「とき」ではないのかもしれないが、そういう「現実」をくぐりぬけて、潮の遠鳴りにも生き続けてほしいと思う。潮の遠鳴りとともにある「生き方」も生き抜いてほしいと祈っている。
 なにかしら、深い「愛」がある。

乙女とならぬまま海に抱きとめられてしまって

 この1行の「とられてしまって」には清岳の無念さがあらわれているけれど、「抱き」には違う思いがある。そこに「愛」がある。「奪い取られてしまって」と書くことも可能だけれど、清岳はそういうことばを選ばなかった。あくまで「抱く」ということばを書く。そこに「かなしさ」がある。
 この「かなしさ」は与謝野晶子が歌にこめた「かなしさ」かもしれない。
 「かなしい」は「悲しい」とも書くが「哀しい」とも「愛しい」とも書く。ひとことでは定義できないものを含んでいる。その「かなしい」という「ことばの肉体」と、清岳自身の「肉体」を重ねる。そのなかで、晶子の歌が動き、少女の「うなづく」肉体が動く。
 ことば--「文学」の時を超えることばが、清岳の「肉体」をはげまし、そこから、ことばが動きはじめる。ことばが動いて、少女が動きはじめる。
 「美しい」といってはいけないのかもしれないが、美しい詩である。

 「行列」は、スーパーで買い物をするときのことを書いている。品物が足りず、何時間も並んで、限られたものを買う。限られたものを買うために並ぶしかなかったときのことを書いている。その「事実」の最後。最終連。

なんでもいい
とにかく並ぶことが大事
放射線を浴びながらでも
並べば何かが手に入る
並ばなければ何も始まらない

風にふかれ
雪にふられ
雨になぶられ
どうでもよくなる

戦線離脱
ぼたん雪っていいなあと歩きはじめる

 「ぼたん雪っていいなあ」などと、のんびりしたことを言っている場合ではないかもしれない。けれど、そう思ってしまう。そう思える「こころ」がどこか遠くからやってくる。それは潮の遠鳴りのように、清岳の肉体の遠くから聴こえてくる清岳の「いのち」の声かもしれない。
 どんなときにも、「肉体」には、「いま/ここ」を超えてしまう力がある。それが「自然」と結びつき、その「世界」を呼吸する。不思議なことに、そういうときに「いま/ここ」に生きているということを、意識しないまま、感じる。--その感じが、清岳のことばから、とても静かな形であふれてくる。

 「夕焼け」も不思議な詩である。

こんな日でも
律儀にロマンチックに
みず色にあかね色のぼかし

空がひろげてくれた
テーブルクロスの前にすわり
カップラーメン
炊きだしのおにぎり
それぞれの幸運をかみしめる

 「律儀」ということば、それをおぼえている「肉体」、そしてそのことばを「いま/ここ」に呼び出す「肉体」。同じことが、「ロマンチック」にも「みず色」にも「あかね色」にも「ぼかし」にも言える。
 なぜ、「いま/ここ」でこのことばなのか。
 「肉体」が求めているのだ。
 「肉体」が、そのことばを手放したくないのだ。
 手放したくないものが、遅れてやってくる。ことばは、いつでも遅れてやってくる。

 季村敏夫は阪神大震災のあと、『日々の、すみか』(書肆山田)という詩集を出している。そのなかに「出来事は遅れてあらわれた。」と書いている。
 「出来事」は「出来事」であって、「出来事」ではない。
 ことばだ。
 何かを語ることば。そのことばを頼りに「出来事」がやってくる。その出来事を受け止めるためには、いくつものことばが必要だ。
 「律儀」「みず色」「あかね色」「ぼかし(す)」ということばは、「いま/ここ」に起きた「大震災」を語るためには不必要に見えるかもしれない。けれど、その「大きな出来事」を語るとき、その「大きなことを語ることば」のまわりに、無数のことばが必要なのだ。すそ野のように広がりつづけていることばがあって、そのなかで「出来事を語ることば」も動けるのだ。
 
 どんなことばも、「いま/ここ」から逃げていかないように、ふいにあらわれた遠いことばをしっかりと「肉体」につなぎとめるために、清岳は詩を書いている。ことばを書くたびに、「肉体」が復活してくるのだ。力を取り戻すのだ。
 --変なたとえになるが、この「夕焼け」を書いたとき、もう清岳は「おしっこ」をもらしつづける「肉体」を乗り越えている。そういう「肉体」のたしかさを、私は感じる。




マグニチュード9.0
清岳 こう
思潮社
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