詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新延拳『背後の時計』

2011-09-29 23:59:59 | 詩集
新延拳『背後の時計』(書肆山田、2011年09月10日発行)

 新延拳『背後の時計』の巻頭の「神話の切れ端」の書き出しの3行がとても美しい。

沼にさざ波の立つ夏の終わり
変声期をむかえた少年は葦の影から光を惜しむように
スケッチをしている

 この美しさは、なつかしさでもある。そしてそれは私自身が見た風景の美しさというよりも、「読んだことがある」美しさである。これは、新延のことばが「盗作・剽窃」という意味ではない。どんな風景(現実)でも、ことばによってととのえられる部分がある。風景・現実は、それ自体で美しいときもあるが、それがことばでととのえられるといっそう美しくなる。ことばを風景が模倣するのである。
 そういう時代の--というのは、かなり説明が必要なことなのかもしれないが、「現代」、つまり2011年ではなく、かつてそういう時代があったのだ。ことばが現実をととのえる、ことばが風景をととのえる、という時代が。私はあまり丁寧に読んだことはないのだが、たとえば「四季」の時代とか……。

 新延は、ことばによって風景・現実をととのえる「方法」を完全に知っているのだ。そして、それが無理なく動いている。
 たとえば1行目。沼に立つのは「さざ波」でないといけない。荒い波では激しすぎる。そして、季節は「夏の終わり」。ここで重要なのは「終わり」である。「終わり」ということばのなかにははかなさと、変化がある。はかなさは「さざ波」の「小ささ」と呼応して、私たちの(私の、といった方が正しいのだろうけれど)意識を、拡散ではなく、集約させる。集中させる。小さな変化に意識が集中する--そこからはじめて見えてくる風景というものがある。
 2行目。「変声期をむかえた少年」。ここには「夏の終わり」と重複するものがある。精通を知らない少年の純粋な(?)季節は「終わり」、これから変化していくのである。「光を惜しむように」は、そのまま「終わりを惜しむように」にもなる。過ぎ去るもの、変化して消えていくものを「惜しむように」である。「少年」と「葦」はかよわいもの(パンセ、だね)として通い合い、「影」と「光」は切断(分離)しながら連続(影響)するものを浮かび上がらせる。
 季節(夏)が終わり、何かが変わっていく。そして、少年が声が、透明な声から太くたくましい変わる。その変化のなかにある、小さな何か。その変化のなかで消えていく何か。それを新延はことばでととのえることで詩にする。
 この、ことばで風景・現実をととのえることを、新延は「スケッチ」と言い換えている。「スケッチ」にはもちろんことばのスケッチもあるのだが、このスケッチを「ことばのスケッチ」としてしまうと、あまりにも「詩」と重なりすぎる。画帳をもって(あるいは画板をもって)、ことばではなく、絵としてスケッチしている。

 繊細な変化--その変化をととのえることばの運動は、さらにつづいてゆく。

雲が流れてゆく
綾取りのように形を変えながら
そこにあるのはまぎれもなく疵のない青空
近くには総身で泣いている女の子がいる
白いブラウスからそよ風が生まれる

 「雲が流れてゆく」。その変化を見つめる視線。「綾取り」という比喩と「形を変え」るものを見つめる視線。そして、その変化を見つめながらも、なお新延がこだわっているのは「疵のない青空」。それは、「変声期」の「少年」の、声変わり前の透明な声と重なり合う。ちょっとナルシスティックすぎるけれど、そうか、変声期前の声は疵のない声なのか……と私は妙に納得してしまう。新延は(あるいはスケッチをする少年は)、それを消えていく「光」のように「惜しんでいる」。
 こういう風景には、母とか、年増のおんなではなく、「女の子」が必要である。「少年」と「女の子」がいて、成立する風景。ととのえられる風景である。その「女の子」がほんとうに泣いていたか、ほんとうに白いブラウスを着ていたかは、どうでもいい。ことばは、そうしたことばを呼び寄せることで風景をととのえる。そばに笑い転げている女の子、黒いTシャツを着た女の子がいたのでは、「夏の終わり」「変声期」とかみあわない。消えていくもののはかなさを「惜しむ」気持ちと重ならない。

 状況を美しく設定し、ととのえてから、新延の書いている「少年」は動きはじめる。

夕方になり
君は立ち上がって川のほとりまで歩いてゆく
いつも風が生まれているむこうの丘の上の大きな欅の樹
君は草矢で夕日を落とす
薄紅色を溶かした空から鳥も次々と落ちてくる
川を流れてくる木の枝が重なって十字架の形となり
目に見えない罪を背負って行く
君の瞳はそれらをしっかり映しているか
天地の呼吸に合わせて
神話の切れ端が吐き出される
言葉に影を認めたらそこに深い穴を掘ろう
きっと新しい神話が見つかるよ

 「君」は「少年」である。「少年」という書き方も「私」という書き方かと比べると「客観的」だが、どこかロマンチック(ナルシスティック)な響きもある。「君」と、新延は、もっと客観的に、「私ではない」という形で「過去」を冷静に見つめようとしているのかもしれない。
 これもまた、しかし、「現実」をととのえる方法ではある。
 「少年」は「君」になり、(「沼」も「川」にかわり、この「変化」に同調?している)、そう変化することで、少しおとなになったのかどうかわからないが、「少年」にはできなかったこと(スケッチ以外の、もっと「男」っぽいこと)をする。--この「男」っぽいことが、(草)矢で太陽を落とす、さらに鳥を落とすというのは、すこし「定型化」しすぎているかもしれないが、そうした定型化があらわれるのは、新延がたくさんのことばのととのえ方を読んできている証拠である。無意識に定型化したことばの運動の方に動いてしまうくらい、新延は、これまでの「文学」に慣れ親しんでいる。その蓄積が、新延のことばを安定させている。
 その何かを矢で落とす(殺す)という「青年」の夢(少なくとも「変声期以後の少年」の夢)--無意識に対して「十字架」が登場するところが、うーん、ちょっと「嫌味」ったらしく私は感じてしまう。「十字架」「罪」--うーん、キリスト教徒? まあ、そうなら、そういことばが自然に出てくるのかもしれないが。
 そういう夢--無意識を、きちんと意識化したか、と「青年」は自問する。(君の瞳はそれらをしっかり映しているか)。そして、ことばを「風景」ではなく、自分自身の「意識」に向ける。そこから「神話」が吐き出される。
 「神話」とは、新延「青年」にとっては、自分の意識・行動を、純粋化された「物語(青年が太陽を射落とす、鳥を射落とす)」のなかで反芻し、鍛えるための方法なのだ。その「物語」のことばに、何か「影」がしのびこんできたら(純粋に対して、不純、無疵に対して、疵、光に対して、影、という構造である)、そのことばを掘り下げ、別なことばにたどりつくまで考え直してみる。ことばを動かしつづけてみる。そこからまた「新しい神話」が生まれる。

 3連目。ここでは、ことばが、かなりかわった感じで動く。

君が撃ち落とした夕日が黄金色の畑を海原に整える
君には見えるだろうか
イルカとぶジェノバの海の夕焼けが
海の遊園地ではイルカが木馬のかわりなのだ
油のように広がってゆく夕焼け
視野が望遠と広角の間を移動しているうちに
いつのまにか少女を見失ってしまった
風が吹いて夕菅の光が乱れる

 1連目(変声期の少年)、2連目(変声期後の青年)と動いてきて、いま、その青年から、1連目・2連目の「変化」を見つめなおしている。
 そこに突然、イルカ、ジェノバ、海が登場する。
 詩集では1、2連目は8、9ページ。3連目から10ページになっている。一瞬、「乱丁」かな、と思わせる変化である。1、2連目も「異国」の風景だったのだろうか。最初から、この詩の登場人物は「異国」にいたのだろうか。
 よくわからないが、2連目の「十字架」を手がかりに考えるならば、新延(青年)は、日本に古くから根付いているものではなく、あとから知ったもので世界をととのえなおそうとしているのかもしれない。(海原に整える、と「整える」ということばが、3連目の1行目にある。)
 そうした独自の(?)世界のととのえ方--その視界から「少女」は消えている。新延(青年)は少女を見失った。
 これは1連目から、すでにわかっていた初恋の「終わり」である。「少年」よりも先に「少女」はそれに気づき、泣いていたのかもしれない。おんなの涙には、どんな男もどうしていいかわからないものだが、少年なら、なおさらわからないだろう。
 少年は、自分の肉体のなかからあふれてくる力にしたがって、スケッチを捨て、草矢を振り絞り、太陽を、鳥を射落とす(3連目では、撃ち落とす、と銃がつかわれているような感じになっているが……)。
 そうした力の暴走--罪を、「異国」の「ことば(十字架といっしょにある宗教)」で整理しなおす。いま生きている「風景」を「異国」の「風景」で洗い直す--そういう「不思議な神話」を3連目は通過しているのかもしれない。

 そして4連目。

夕闇が少しずつ濃くなってゆき
大観覧車が花火のように浮かんでいる
空の反対側には大きな月がぽっかりと
尻のポケットには小型のナイフ
さあ本当の物語が始まるのはこれからだ

 ここで、ことばは大きく変わっている。「尻のポケットには小型のナイフ」は、かろうじて「少年・変声期・青年」の雰囲気をもっているが、「スケッチ」をする少年にナイフは似合わないし、太陽を矢で射落とす青年にも似合わない。
 何かが完全に、かわってしまった。
 「神話」が、最後に「物語」にかわった。(最終行では「物語」ということばがつかわれている。)
 ここでは、ことばは「風景・現実」をととのえようとはしていない。ここでは「文学」の蓄積が働いていない。(尻の小型ナイフは、まあ、文学というよりは「歌謡曲」のようなものである。)
 「神話」と「物語」--どこが違うか。
 私なりに考えていることがないわけではないが、新延がどう考えているかは、ここからだけではわからない。これ以後の詩に書かれるのが「物語」、つまり「神話」ではないということだけはいえるかもしれない。
 あすは、そういうことを考えながら、つづきを読むことにしよう。






雲を飼う
新延 拳
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稲垣瑞雄「襤褸の僧」

2011-09-29 10:40:14 | 詩(雑誌・同人誌)
稲垣瑞雄「襤褸の僧」(「双鷲」76、2011年10月05日発行)

 稲垣瑞雄は散文(短編小説)も書いている。「襤褸の僧」は「螺旋の声」という「小詩集(?)」のうちの冒頭の一篇である。詩の形式(?)で書かれているが、短編小説のようなところがある。

田舎寺の山門に
ランのる僧は
しっかりとくくりつけられていた
キリストの真似か
それともただのお仕置か
眼に涙を溜めながらも
僧は毒づいていた
よくもこお俺さまを
コキュにしてくれたな
往生際の悪い坊主だ
妻の手を曳いて
駆け抜けてゆく男の声が
椎の樹々に囲まれた境内の
あちこちに谺する
涙も枯渇する頃
僧はようやく気がついた
自らを雁字搦めにして
この寺に閉じこめたのは
妻でも男でもなく
この俺自身ではなかったか
全身からこぼれ出る汗が
錐揉み状に
手脚を縛り上げていく
こうやって俺はまた
ぬるま湯につかっていくのだな
声が消えぬうちに
僧はぼろぼろになって
溶けはじめた

 「キリスト」と「コキュ」が「僧」にはなじまないが、なじまないがゆえに(?)、ストーリーをくっきりと浮き彫りにする。ほかのことばだったら、もっとどろどろした人間関係、しがらみがあふれてきそうだが、そういうものを「キリスト」という異質な存在、「コキュ」というスノッブ(?)なことばが、寺とか僧とかがもっているめんどうくさいものを洗い流していく。寺が舞台、登場人物が僧なのだけれど、ちょっと、そういうものを忘れさせてくれる。
 それがいいことかどうかというと、また別の問題になるかもしれないけれど……。
 まあ、おおげさというか、芝居染みているというか。わざわざ、寝盗られ男になってしまった僧を、いくら田舎寺とは言え、山門に縛りつけることはないなあ。そんなところに縛りつけたら目立ってしまう。せいぜい、本堂の柱にしなさい--というような忠告は、でも採用してもらえないだろうなあ。
 詩、なのだから。
 現実ではないのだから。

 と、書きながら。一か所、うーん、とうなってしまった。
 突然あらわれる「現実」に、びっくりしてしまった。

こうやって俺はまた
ぬるま湯につかっていくのだな

 この、「こうやって」をどう読むか。
 私は「自らを雁字搦めにして/この寺に閉じこめたのは/妻でも男でもなく/この俺自身ではなかったか」という自問のことだと思った。
 妻が悪いのではない。妻を寝盗った男が悪いのでもない。俺自身が悪いのだ。俺自身に原因があるのだ。
 --こういう自己否定、あるいは自己批判をどうとらえるか。
 ふつうは厳しい反省と思うかもしれない。ふつうは、あの男が悪い、おんなも悪い、俺は悪くはない。俺は憐れな人間だ。同情されていい人間だ、と思うかもしれない。
 けれど、稲垣の書いている僧は「自己批判」している。
 そして、そのこと、自己批判することを「ぬるま湯につかっていく」と、もう一度自己批判する。
 「自分が悪いのだ」というような「自己批判」は「自己批判」ではない。あまやかしである。そんなふうにして「自己批判」してみせれば、同情が集まる。
 山門に、みせしめのようにしてくくりつけられている姿も同情を呼ぶ。着ているものが涙でよごれてどろどろになっていれば、なおのこと同情を呼ぶ。
 見せかけの「自己批判」は、同情という「ぬるま湯」にどっぷりつかることなのである。
 同情だけではないかもしれない。
 「俺が悪いんだ」と自己批判してしまえば、もう、それから先、ことばは動いてはいかない。僧のなかで、ことばはとまってしまう。
 ふいにやってくる怒り、哀しみの衝動に突き動かされることもなくなる。
 自分の感情からも甘やかされてしまうのだ。
 これは短編小説の「ストーリー」のようであって、実は長篇小説の「テーマ」である。人間は、自分をどうとらえるのか。「自己批判」は自己に厳しい態度にみえるが、そうではなく、実は自分自身を甘やかすことにならないか。他人を批判するとき、そこから「戦い」が始まるが、「自己批判」にとじこもっていれば「戦い」はない。つまり、それは他者との接触がないということでもある。

 稲垣は、ここでは「哲学」のありかを、ただ暗示している。
 そうか、その暗示こそが、詩なのか、と思ったのだった。



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