江夏名枝『海は近い』(7)(思潮社、2011年08月31日発行)
「海は近い」の「8」の部分。
「年月を守り」の「守る」は「擦り減った」の「複製」である。「擦り減った」の「減る」は「守る」とは「矛盾」する。この「矛盾」と、どうすれば(?)「矛盾」でなくなるか。
「2」を私は思い出す。
その言い方をまねてみるならば(複製しなお染みるならば)、
という具合になるかもしれない。
「いま/ここ」にあるのは、「擦り減った」石の階段そのものなのか。それとも石の階段が「擦り減った」と「複製」してしまう「言葉」なのか。--それは、別の存在ではなく、いつでも「対」になった存在なのである。
「もの(存在)」と「言葉」は「対」になる。「対」になることで、「複製」が存在する。一般的に考えるならば、「もの(存在)」を「言葉」が「複製」する。だが、いったん「言葉」が動きはじめると、「言葉」を「もの(存在)」が「複製」するということも起きるのである。
「言葉」にあわせて、「もの(存在)」がととのえられ、さらに「言葉」になる。
そのとき、「言葉」は変化するのである。
が、
にかわる。「守る」とは「蓄積している」である。ただし、その「蓄積している」を認識できるのは「階段」ではなく、「言葉」である。「言葉」が「階段」のありようを定義していく。ととのえていく。
そのとき、「主語」もととのえられるて(?)、変化してしまう。「蓄積している」というとき「主語」は「長い年月」だが、「階段」を「主語」にすると「蓄積している」では文章にならなくなる。「蓄積している」を述語にするには、「階段には」と、「階段」は「主語」の位置からずれてしまう。「階段は」「階段が」という「格助詞」を含んだ「主語」を「主語」として有効にするためには「蓄積している」ではなく「守る」に「述語」がかわらないといけない。
江夏は、こういう「主語」「述語」の交代を、すばやく、しかもスムーズにやってしまう。
「複製」(反復)は、互いに影響しながら、変わっていくのである。この「変化」に江夏の詩のおもしろさがある。
「主語」が「述語」を変化させると同時に、「述語」が「主語」を変化させるという、一種の「鏡像」のような「ずれ(?)」が、ことば全体を動かしていく。
「もの(存在)」が「言葉」を見つめなおし、「言葉」が「もの(存在)」を見つめなおすという「複製(反復)」の、果てしない繰り返しが、ここからはじまる。
こういう「繰り返し」は「頭」でおこなっているかぎりは、「ずれ」や「間違い」をおこさないが、「心」がそれをおこなうときは、どうしても揺らいでしまう。だから、おもしろいのだ。
「記憶のかけら」は「心のかけら」であり、それは「風景のかけら」の「複製」であり、「反復」する「心」である。それは「鏡像」のように、正確であればあるほど間違っているものとなる。鏡のなかで対になっているものは、左右が違うように、どこかしら間違っているからこそ「正しく」見えるものなのである。
この「雨の街路、」ではじまる文は、以前も書いたことだが、読点「、」のつかい方が独特である。「雨の街路、」の「、」は何か。そこに何が省略されている。
雨の街路「にいると」。
「、」は「ここ」であり、「いま」である。
「1」に書かれていた、
という文のなかにつかわれていたことばをつかって言いなおせば、
となる。
「、」は「ここ」であり、「いま」であるだけではなく、「現れる」という動詞をともなった「現象」の「場」なのだ。「現象」そのものなのだ。
次の、またまた独特の文がある。
「誰かが」と書かれた「主語」に、「述語」はない。「誰かが」のあとの読点「、」はほんとうは消えなければならない。
と、「、」のない形のとき「主語」「述語」は成り立つ。その「主語」「述語」の「あいだ」に、「いま/ここ」が挿入された瞬間に、「誰か」に向き合うべきもの、鏡像としての「何か」が「余白」という「言葉」で「複製」され、そのあたらしい「主語」によって「めくれる」という「述語」が生み出される。
それもこれも、すべて「心の複製」である。
「心の複製」であるからこそ、「主語」も「述語」もなめらかにかわっていく。「心」のなかでは、あらゆるものは「心」でしかない。それは「ひとつ」の複数なのだ。心はどんなに千々に砕けても「ひとつ」以上ではありえない。どんなに小さなものに「複製」されても消えることはない。「千々に砕けた心」(つまり、無数に複製された心)とまた別の「千々に砕けた心」との「あいだ」に隔たりはない。千々に砕けながら連続している。そのために、いつでも「主語」「述語」がかわってしまうのである。
「海は近い」の「8」の部分。
踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段は長い年月を守り、海からの風に晒されていた。
「年月を守り」の「守る」は「擦り減った」の「複製」である。「擦り減った」の「減る」は「守る」とは「矛盾」する。この「矛盾」と、どうすれば(?)「矛盾」でなくなるか。
「2」を私は思い出す。
誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。
その言い方をまねてみるならば(複製しなお染みるならば)、
石の階段は長い年月によって擦り減った。その擦り減った石の階段の、擦り減って、いまはここにない石段の記憶のなかに年月が守られている。その年月と向き合う石段の記憶が、擦り減った石段のなかに蓄積している。(守られている。)
という具合になるかもしれない。
「いま/ここ」にあるのは、「擦り減った」石の階段そのものなのか。それとも石の階段が「擦り減った」と「複製」してしまう「言葉」なのか。--それは、別の存在ではなく、いつでも「対」になった存在なのである。
「もの(存在)」と「言葉」は「対」になる。「対」になることで、「複製」が存在する。一般的に考えるならば、「もの(存在)」を「言葉」が「複製」する。だが、いったん「言葉」が動きはじめると、「言葉」を「もの(存在)」が「複製」するということも起きるのである。
「言葉」にあわせて、「もの(存在)」がととのえられ、さらに「言葉」になる。
そのとき、「言葉」は変化するのである。
踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段のなかに長い年月が蓄積しており、
が、
踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段は長い年月を守り、
にかわる。「守る」とは「蓄積している」である。ただし、その「蓄積している」を認識できるのは「階段」ではなく、「言葉」である。「言葉」が「階段」のありようを定義していく。ととのえていく。
そのとき、「主語」もととのえられるて(?)、変化してしまう。「蓄積している」というとき「主語」は「長い年月」だが、「階段」を「主語」にすると「蓄積している」では文章にならなくなる。「蓄積している」を述語にするには、「階段には」と、「階段」は「主語」の位置からずれてしまう。「階段は」「階段が」という「格助詞」を含んだ「主語」を「主語」として有効にするためには「蓄積している」ではなく「守る」に「述語」がかわらないといけない。
江夏は、こういう「主語」「述語」の交代を、すばやく、しかもスムーズにやってしまう。
「複製」(反復)は、互いに影響しながら、変わっていくのである。この「変化」に江夏の詩のおもしろさがある。
「主語」が「述語」を変化させると同時に、「述語」が「主語」を変化させるという、一種の「鏡像」のような「ずれ(?)」が、ことば全体を動かしていく。
「もの(存在)」が「言葉」を見つめなおし、「言葉」が「もの(存在)」を見つめなおすという「複製(反復)」の、果てしない繰り返しが、ここからはじまる。
こういう「繰り返し」は「頭」でおこなっているかぎりは、「ずれ」や「間違い」をおこさないが、「心」がそれをおこなうときは、どうしても揺らいでしまう。だから、おもしろいのだ。
雨の街路、思い見る記憶のかけらは少しずつ輪郭を変え、男たちの肌をくすませる。
「記憶のかけら」は「心のかけら」であり、それは「風景のかけら」の「複製」であり、「反復」する「心」である。それは「鏡像」のように、正確であればあるほど間違っているものとなる。鏡のなかで対になっているものは、左右が違うように、どこかしら間違っているからこそ「正しく」見えるものなのである。
この「雨の街路、」ではじまる文は、以前も書いたことだが、読点「、」のつかい方が独特である。「雨の街路、」の「、」は何か。そこに何が省略されている。
雨の街路「にいると」。
「、」は「ここ」であり、「いま」である。
「1」に書かれていた、
波打ち際に辿りついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。
という文のなかにつかわれていたことばをつかって言いなおせば、
雨の街路、ここに現れるのは、心の複製のかけらであるから、それは少しずつ輪郭を変え、男たちの肌をくすませる。
となる。
「、」は「ここ」であり、「いま」であるだけではなく、「現れる」という動詞をともなった「現象」の「場」なのだ。「現象」そのものなのだ。
次の、またまた独特の文がある。
誰かが、青色の涙を落とすことを許された余白がめくれる。
「誰かが」と書かれた「主語」に、「述語」はない。「誰かが」のあとの読点「、」はほんとうは消えなければならない。
誰かが青色の涙を落とす
と、「、」のない形のとき「主語」「述語」は成り立つ。その「主語」「述語」の「あいだ」に、「いま/ここ」が挿入された瞬間に、「誰か」に向き合うべきもの、鏡像としての「何か」が「余白」という「言葉」で「複製」され、そのあたらしい「主語」によって「めくれる」という「述語」が生み出される。
それもこれも、すべて「心の複製」である。
「心の複製」であるからこそ、「主語」も「述語」もなめらかにかわっていく。「心」のなかでは、あらゆるものは「心」でしかない。それは「ひとつ」の複数なのだ。心はどんなに千々に砕けても「ひとつ」以上ではありえない。どんなに小さなものに「複製」されても消えることはない。「千々に砕けた心」(つまり、無数に複製された心)とまた別の「千々に砕けた心」との「あいだ」に隔たりはない。千々に砕けながら連続している。そのために、いつでも「主語」「述語」がかわってしまうのである。
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