詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江夏名枝『海は近い』(7)

2011-09-26 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(7)(思潮社、2011年08月31日発行) 

 「海は近い」の「8」の部分。

 踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段は長い年月を守り、海からの風に晒されていた。

 「年月を守り」の「守る」は「擦り減った」の「複製」である。「擦り減った」の「減る」は「守る」とは「矛盾」する。この「矛盾」と、どうすれば(?)「矛盾」でなくなるか。
 「2」を私は思い出す。

誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。

 その言い方をまねてみるならば(複製しなお染みるならば)、

 石の階段は長い年月によって擦り減った。その擦り減った石の階段の、擦り減って、いまはここにない石段の記憶のなかに年月が守られている。その年月と向き合う石段の記憶が、擦り減った石段のなかに蓄積している。(守られている。)

 という具合になるかもしれない。
 「いま/ここ」にあるのは、「擦り減った」石の階段そのものなのか。それとも石の階段が「擦り減った」と「複製」してしまう「言葉」なのか。--それは、別の存在ではなく、いつでも「対」になった存在なのである。
 「もの(存在)」と「言葉」は「対」になる。「対」になることで、「複製」が存在する。一般的に考えるならば、「もの(存在)」を「言葉」が「複製」する。だが、いったん「言葉」が動きはじめると、「言葉」を「もの(存在)」が「複製」するということも起きるのである。
 「言葉」にあわせて、「もの(存在)」がととのえられ、さらに「言葉」になる。
 そのとき、「言葉」は変化するのである。

踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段のなかに長い年月が蓄積しており、

が、

踏みしめられて擦り減った急な石造りの階段は長い年月を守り、

にかわる。「守る」とは「蓄積している」である。ただし、その「蓄積している」を認識できるのは「階段」ではなく、「言葉」である。「言葉」が「階段」のありようを定義していく。ととのえていく。
 そのとき、「主語」もととのえられるて(?)、変化してしまう。「蓄積している」というとき「主語」は「長い年月」だが、「階段」を「主語」にすると「蓄積している」では文章にならなくなる。「蓄積している」を述語にするには、「階段には」と、「階段」は「主語」の位置からずれてしまう。「階段は」「階段が」という「格助詞」を含んだ「主語」を「主語」として有効にするためには「蓄積している」ではなく「守る」に「述語」がかわらないといけない。
 江夏は、こういう「主語」「述語」の交代を、すばやく、しかもスムーズにやってしまう。
 「複製」(反復)は、互いに影響しながら、変わっていくのである。この「変化」に江夏の詩のおもしろさがある。
 「主語」が「述語」を変化させると同時に、「述語」が「主語」を変化させるという、一種の「鏡像」のような「ずれ(?)」が、ことば全体を動かしていく。
 「もの(存在)」が「言葉」を見つめなおし、「言葉」が「もの(存在)」を見つめなおすという「複製(反復)」の、果てしない繰り返しが、ここからはじまる。
 こういう「繰り返し」は「頭」でおこなっているかぎりは、「ずれ」や「間違い」をおこさないが、「心」がそれをおこなうときは、どうしても揺らいでしまう。だから、おもしろいのだ。

 雨の街路、思い見る記憶のかけらは少しずつ輪郭を変え、男たちの肌をくすませる。

 「記憶のかけら」は「心のかけら」であり、それは「風景のかけら」の「複製」であり、「反復」する「心」である。それは「鏡像」のように、正確であればあるほど間違っているものとなる。鏡のなかで対になっているものは、左右が違うように、どこかしら間違っているからこそ「正しく」見えるものなのである。
 この「雨の街路、」ではじまる文は、以前も書いたことだが、読点「、」のつかい方が独特である。「雨の街路、」の「、」は何か。そこに何が省略されている。
 雨の街路「にいると」。
 「、」は「ここ」であり、「いま」である。
 「1」に書かれていた、

波打ち際に辿りついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 という文のなかにつかわれていたことばをつかって言いなおせば、

 雨の街路、ここに現れるのは、心の複製のかけらであるから、それは少しずつ輪郭を変え、男たちの肌をくすませる。

 となる。
 「、」は「ここ」であり、「いま」であるだけではなく、「現れる」という動詞をともなった「現象」の「場」なのだ。「現象」そのものなのだ。

 次の、またまた独特の文がある。

誰かが、青色の涙を落とすことを許された余白がめくれる。

 「誰かが」と書かれた「主語」に、「述語」はない。「誰かが」のあとの読点「、」はほんとうは消えなければならない。

誰かが青色の涙を落とす

 と、「、」のない形のとき「主語」「述語」は成り立つ。その「主語」「述語」の「あいだ」に、「いま/ここ」が挿入された瞬間に、「誰か」に向き合うべきもの、鏡像としての「何か」が「余白」という「言葉」で「複製」され、そのあたらしい「主語」によって「めくれる」という「述語」が生み出される。
 それもこれも、すべて「心の複製」である。
 「心の複製」であるからこそ、「主語」も「述語」もなめらかにかわっていく。「心」のなかでは、あらゆるものは「心」でしかない。それは「ひとつ」の複数なのだ。心はどんなに千々に砕けても「ひとつ」以上ではありえない。どんなに小さなものに「複製」されても消えることはない。「千々に砕けた心」(つまり、無数に複製された心)とまた別の「千々に砕けた心」との「あいだ」に隔たりはない。千々に砕けながら連続している。そのために、いつでも「主語」「述語」がかわってしまうのである。



海は近い
江夏 名枝
思潮社
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榎本櫻湖「幕間/林檎の川を剥く妊婦」

2011-09-26 08:50:50 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻湖「幕間/林檎の川を剥く妊婦」(「臍帯血withペンタゴンず」(1、2011年09月10日発行)

 詩には「意味」がわかっていて書くものと、意味がわからないから意味を探して書くものがある。そして、後者の場合、探している意味も実際のところは知らないものである。知らないけれど探すというのは矛盾しているようだが、そうではないかも知れない。知らないけれど「予感」があるのだ。そして、その「予感」というのは、ことばに触れた瞬間に「肉体」が感じてしまうものなのだ。誰かに会った瞬間「あ、このひとが好き。このひとが運命のひと」と感じるようなものだ。そんな「運命」などほんとうはなくて、あとから、ひとが勝手に「理屈」をつけていくものだと思うけれど。つまり、なんとなくだんだん好きになっていくだけなのだと思うけれど。
 榎本櫻湖の詩を読んでいて感じるのは、それに似たことがらだ。
 書こうとしていること、その「意味」など、あとからやってくる。ただ、こういうことばを書いてみたい。書けば、その先に何か新しく動くことばが出てくるはずだ--という予感、「肉体」が感じる予感で書いているように思う。榎本の「肉体」が、ことば自身の「肉体」をどこかに感じて、それに「ちょっかい」を出し、反応を見ながら書いている、という感じである。
 「ことば」を信じすぎている--といえるかもしれない。つまり、ことばに肉体があり、ことばに肉体かあるかぎりは、ことば自身で動いていくということに期待しすぎているといえるかもしれない。
 でも、(でも、でいいのかな?)
 私は、実は作者が自分自身を信じて書く詩よりも、自分自身のことなどどうでもよくてことばの方が信じられると思って書いている詩が好きなのである。ことばが勝手に自己増殖というか、勝手に広がっていく詩が好きである。
 たとえば、「幕間/林檎の川を剥く妊婦」の書き出し。

……湖底に、ひっそりとおかれた疚しさの林檎の皮を、丁寧に剥くきらびやかなナイフ、蛇の這った痕に残る砂の畝、波形を辿る指先から滴る血は蛇の喉を潤し、優しい牙をそっと喉元へあてる所作を、それは睾丸ではなく、隠蔽された前立腺の、恙ない悦び、失われた恥部へ赴き、叢る狂おしい二十日鼠の穢れを啜る、艶やかな黒髪の娘、剃刀のつけた筋は次第にみだれ、刃をつたう汁は、匂いたち、たなびく、

 榎本が書こうとしていることは、榎本がまだ知らないことである。そして、その知らないことは、けれど榎本の知っている「林檎」と「蛇」ということばといっしょに動いているということを榎本の肉体は知っていて(おぼえていて?)、その記憶を頼りにことばを動かすのである。そうすると、「林檎」「蛇」に反応して「疚しい」だの「睾丸」だの「前立腺」だの「悦び」(つつがないよろこび--というのは、私には想像がつかない。悦びに憂いなどあるはずがない、と私は思う)だの、「恥部」だの「穢れ」だの「娘」だのといったことばが群がってくる。「指先」「血」「滴る」「潤す」「優しい」「牙」「艶やか」ということばも群がってくる。「啜る」「乱れる」「汁」「匂い(匂う)」も群がってくる。それやこれの、セックスを描くときのことばが群がってくる。
 榎本は、そのことばを「整理しない」。この「整理しない」というのは、天才の仕事である。
 群がってくることばを整理せず、そのかわりに、強引に「連結」させてしまう。ほぐすことはしない。こんがらがったときは、そのこんがらがりを利用して、いっそう強靱な結び目をつくってしまう。
 なかには、「蛇の這った痕に残る砂の畝」というような、ちょっと違和感があることばも強引に連結される。この畝自体は林檎を剥いたナイフに残る汁の痕、その盛り上がりから呼び寄せられたものだろうけれど、そういう湿ったよごれの盛り上がりと「砂(砂漠、乾燥)」は、私には不自然に思える。想像でいうのだが、榎本は林檎の皮を剥いたときに汁がナイフの刃先に残るということは肉体で知っているだろうけれど、畝というものをつくった経験がないのだろう。鍬で土を掬い取りもりあげるというようなことを「肉体」でおぼえてはいないのだと思う。
 まあ、いいけれど。
 で、この「連結」によって、榎本は「世界」をいくつにも重なり合った「層」にして見せる。重なり合いながら、ずれる。その瞬間に、何かが見えたような気がするのである。いま書いた「畝」にもどると、榎本の書いている「砂の畝」というのは、この書き出しのなかでは「異質」なものなのだが、その異質によって、榎本にとらえられていない「蛇」そのものの「肉体」が見えてくるのである。「林檎・蛇・セックス」と連結されてしまうだけではない何か、蛇にしかできない何かがふっと蛇そのものとなってあらわれてくるのである。
 ここから蛇がほんとうに動いていけばもっとおもいしろいのだけれど、まあ、セックスへもどってくる。一生懸命、もどろうとする。そのときの、むちゃくちゃ(?)がいい。強引さがいい。これだけことばが引き寄せ、群がらせ、そのままにしておけば、きっといつかは醗酵して毒になる。あるいは強い酒になる。(毒も、酒も、比喩ですよ。)楽しみである。

 あ、私の書いている感想は「正しい感想」ではないかもしれない。ましてや、「正しい批評」ではありえないのだが、こんな具合にしか書けないこともある。
 どこかへことばが広がっていく--その広がっていく力をただ感じてみるだけのことである。
 そのことばが、いつか私のなかで動きだすかどうかもわからないけれど、動きだすまで待っていられたらいいだろうなあ、と思うのである。
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