清岳こう『マグニチュード9・0』(4)(思潮社、2011年08月25日発行)
「女たち」という詩は、この詩集に収録されていなかったとしたら(別の場所で読んだとしたら)、読み落としたかもしれない。
男女差に目が届き、ことばがそれをきちんと動くようになったのだ。
ここまでことばが動くようになるのに、どれくらいの時間がかかったのか、日付がないのでわからないが、ともかくここまで来たのだ。
「わずかの湯をわけあって」。おなじように、わずかな「ことば」をわけあって、--ことばは「わけあって」も減らない。逆に「わけあう」ことで増えていく。
いま、ことばをわけあい、増やすときに来たのだ。
「女たちの体にぴったりはりつき片時も離れない子どももいる」ように、女たちは「ことば」を「わけあい」、そうすることで「体」をぴったりはりつかせあわせている。
「お化粧」という作品も、何気ない(といっていいかどうかわからないけれど--大震災から遠く離れている私には、何気ないということばしか浮かばない)ところに、強さがある。
大震災のあとでなくても、つまり大震災がなくても、女たちは同じように生きているかもしれない。「会う人がいない」。でも、「くっきりと目ばりをいれ/きりりと眉をかき」、化粧を仕上げる。「くっきり」「きりり」という常套句は、生活をととのえる方法なのである。常套句(誰のものでもあることば)によって、いくつもの「女のいのち」とつながる。そのとき、「女」は「たったひとりの女」になるために化粧をするのだろうけれど、その「たったひとりの女になる」ということも、また、女たちに「共有」されている生き方かもしれない。
女ではないので、私にはほんとうのところはわからない。
けれど、「自分で自分をはげますように/口紅を濃く濃くひく人」と書くとき、清岳は誰のことを書いているのか。目にした女のことか。あるいは自分のことか。誰でもなく、すべての女のことを書いているのだと私は感じるのだ。
「自分で自分をはげますように」他人をはげましている。自分をはげますことで、他人とはげましあっている。
「化粧」という「時間」を共有している。わけあっている。その「化粧の時間」というのは、さっきわけあったわずかな湯のようなものである。つながっている、というか、「ひとつ」のところにある。それを「わけあう」のだ。「わけあう」ことで、ここでも、清岳は増やしている。
「生き方」を。「生きる」という力を。ふつうに生きるということを。
「いきる」。そのことを「わけあう」ことを繰り返して、清岳は「お月さま」の世界にたどりつく。
月の光、その金色の輝きを「たおやかな体」と呼んでいる。清岳はいつでも「体」を見ている。それも「たおやか」という修飾語があらわしているように「女」の体である。「女」のいのちである。
「たおやかさ」だけでは解決しない。けれど「たおやかさ」で、「わけあう」何かがあるのだ。「たおやかさ」とともに「届ける」ものがあるのだ。届けなければならないものがあるのだ。
そういうものをしっかりみつめ、ことばにしている。そのことを感じ、なにかしら、こころが震えるのだ。
大震災の被災者が「ありがとう」ということばを言ったのを聞いたときのように。
詩集の最後の作品「揺れる」は、とても静かだ。
この詩でも「雪」が大切である。「雪」がなかったら、この詩は成立しない。--と、書いても、誰につたわるのかわからない。
「雪」と「美しいもの/美しさ」を清岳は「わけあっている」。「とまる」「まう」「ふく」「まう」と、清岳はひらがなでことばをつないでいる。
「漢字」で書かれるものを(表現されるものを)、ゆるりと解き放し、ほどかれたいのちそのものを「わけあう」感じがする。その「ほどかれた」ものが、「いま/ここ」で揺れている優しさを生きている。
「女たち」という詩は、この詩集に収録されていなかったとしたら(別の場所で読んだとしたら)、読み落としたかもしれない。
男湯はまず五十名
女湯はまず三十名
男たちはつぎつぎと上気した頬で
さっぱりした顔でタオルなんぞ首に巻いて
女たちはずいぶんたって
赤ん坊を抱いたりよちよち歩きの手をひいたりして出てくる
女たちの体にぴったりはりつき片時も離れない子どももいる
男湯は広々として露天風呂にもたっぷりの湯
女湯は内風呂にわずかの湯をわけあって
温泉無料開放とはいえ
女性解放とはいかなくて
男女差に目が届き、ことばがそれをきちんと動くようになったのだ。
ここまでことばが動くようになるのに、どれくらいの時間がかかったのか、日付がないのでわからないが、ともかくここまで来たのだ。
「わずかの湯をわけあって」。おなじように、わずかな「ことば」をわけあって、--ことばは「わけあって」も減らない。逆に「わけあう」ことで増えていく。
いま、ことばをわけあい、増やすときに来たのだ。
「女たちの体にぴったりはりつき片時も離れない子どももいる」ように、女たちは「ことば」を「わけあい」、そうすることで「体」をぴったりはりつかせあわせている。
「お化粧」という作品も、何気ない(といっていいかどうかわからないけれど--大震災から遠く離れている私には、何気ないということばしか浮かばない)ところに、強さがある。
風呂からあがり
ていねいに下地クリームをぬり
くっきりと目ばりをいれ
きりりと眉をかき
今から誰に会うのか
どこへ出かけるのか
会うひとはいないのかもしれない
停電の自宅にもどるだけかもしれない
自分で自分をはげますように
口紅を濃く濃くひく人
大震災のあとでなくても、つまり大震災がなくても、女たちは同じように生きているかもしれない。「会う人がいない」。でも、「くっきりと目ばりをいれ/きりりと眉をかき」、化粧を仕上げる。「くっきり」「きりり」という常套句は、生活をととのえる方法なのである。常套句(誰のものでもあることば)によって、いくつもの「女のいのち」とつながる。そのとき、「女」は「たったひとりの女」になるために化粧をするのだろうけれど、その「たったひとりの女になる」ということも、また、女たちに「共有」されている生き方かもしれない。
女ではないので、私にはほんとうのところはわからない。
けれど、「自分で自分をはげますように/口紅を濃く濃くひく人」と書くとき、清岳は誰のことを書いているのか。目にした女のことか。あるいは自分のことか。誰でもなく、すべての女のことを書いているのだと私は感じるのだ。
「自分で自分をはげますように」他人をはげましている。自分をはげますことで、他人とはげましあっている。
「化粧」という「時間」を共有している。わけあっている。その「化粧の時間」というのは、さっきわけあったわずかな湯のようなものである。つながっている、というか、「ひとつ」のところにある。それを「わけあう」のだ。「わけあう」ことで、ここでも、清岳は増やしている。
「生き方」を。「生きる」という力を。ふつうに生きるということを。
「いきる」。そのことを「わけあう」ことを繰り返して、清岳は「お月さま」の世界にたどりつく。
今夜 一艘の小舟のお月さま
その たおやかな体で
しっかりと運んでください
二度とくりかえされない
朝夕の母と娘のあいさつ
今夜 一艘の小舟のお月さま
その 金のくっきりとした光で
こちらからあちらへと届けてください
しぶきをたて空から落ちてきた波に
根こそぎえぐられ引きたおされた
子供会のお花見
町内会の芋煮会
月の光、その金色の輝きを「たおやかな体」と呼んでいる。清岳はいつでも「体」を見ている。それも「たおやか」という修飾語があらわしているように「女」の体である。「女」のいのちである。
「たおやかさ」だけでは解決しない。けれど「たおやかさ」で、「わけあう」何かがあるのだ。「たおやかさ」とともに「届ける」ものがあるのだ。届けなければならないものがあるのだ。
そういうものをしっかりみつめ、ことばにしている。そのことを感じ、なにかしら、こころが震えるのだ。
大震災の被災者が「ありがとう」ということばを言ったのを聞いたときのように。
詩集の最後の作品「揺れる」は、とても静かだ。
雀がとまり
小枝から雪がまう
風がふき
電線から雪がまう
こんな優しい揺れ方もあって
この詩でも「雪」が大切である。「雪」がなかったら、この詩は成立しない。--と、書いても、誰につたわるのかわからない。
「雪」と「美しいもの/美しさ」を清岳は「わけあっている」。「とまる」「まう」「ふく」「まう」と、清岳はひらがなでことばをつないでいる。
「漢字」で書かれるものを(表現されるものを)、ゆるりと解き放し、ほどかれたいのちそのものを「わけあう」感じがする。その「ほどかれた」ものが、「いま/ここ」で揺れている優しさを生きている。
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