三宅節子『砦にて』(2)(思潮社、2011年07月31日発行)
三宅節子のことばはとても強い。強い--というのは、ちょっと他に説明のしようがないのだけれど。
たとえば「風を待って」。
「砦」には三宅独自の思いがこもっている。詩集の巻頭の「砦にて」には、
「砦」とは「三宅」の「比喩」なのである。「海から長い坂道を登りつめた丘の上」の砦、「海から登ってくる坂道の上に」建てた砦--これは、詩は違うが同じ「砦」である。「私=三宅」の同義である。
「砦」として、「時」をみはりながら生きている。それが「三宅」なのだが、「砦」というものは動かないものである。その動かない「砦」が「風」にのって旅をする。
そのとき「風」とは何か。
「想像力」と言ってしまうのは簡単である。「詩のインスピレーション」と言ってしまうのも簡単である。
でも、そういうことばをつかってしまえば、どんな詩でも「説明」できる。そして、どんな詩でも「インスピレーション」によって動いているという「括弧」のなかに閉じ込めてしまうことになる。
それでは、おもしろくない。
そこにどんなことばがつかわれているか--いま、書かれているのは「風」なのだが、その風はどんなことばととも動いているか、それが「砦」にどう影響しているかを、「インスピレーション」ということばをつかわずに追ってみたい。
私が最初に驚くのは、
である。「風」は「群れ」を作るのか。「群れ」というのは、「個」があって「群れ」になる。「個」が集合して「群れ」になる。
私は「風」、つまりその素材(?)である「空気」を「個」として感じたことはない。どこまでもつながっている。切れ目がない。区別がつかない。
しかし、三宅は、「空気」を「個」の集合としてとらえている。
何によって? 眼(視覚)? 肌(触覚)? 耳(聴覚)? 鼻(嗅覚)? 舌(味覚)? --どれも違うようである。
「足もとの土をえぐり」とある。風は、まるで「手」のように動くのである。
さらに「根こそぎ空中へ投げ飛ばした」というのだから「手」だけではなく、もっと大きい「肉体」全体をもっている。
風は、まるで人間のように「肉体」をもっている。そして、それは「群れ」となるとき、「集合」ではない。「群れ」は「集合」をあらわすことばだけれど、「群れ」という「ひとつ」のことばであるように、「群れた」瞬間、「ひとつ」の巨大な「肉体」になる。「個」は「個」であって、「個」ではなくなり、「個」でなくなるときに、また「個(ひとつ)」になる。
そういう運動を三宅は、どこでつかみとるのかわからないが、はっきりと感じる。その「はっきり」と感じ取るときの「はっきり」が強烈にことばのなかに残っている。
「個」は「個」であって、「個」ではなくなり、「個」でなくなるときに、また「個(ひとつ)」になる--という「風(空気)」の運動は、その運動をつかみ取った瞬間、三宅自身にも影響してくる。つまり「砦」にも影響してくる。「砦」は風の運動を知ったために「砦」ではなくなる。
「砦」に「翼が生え」る。翼が生え、風に乗るとき、「砦」と「砦」ではなく「鳥」である。三宅の「肉体」そものが、変わってしまうのである。
--このことを、私は、ちょっと言い換えてみたい。ことばを変えることで考え直してみたい。
この詩は(あるいは、他の三宅の詩は)、「私」を「砦」と呼ぶことからはじまる。「私」は「砦」ではないが、ことばで「砦」にしてしまう。ことばの方へ「肉体」を突き動かしていく。ことばで「肉体」を「砦」にしてしまう。
そうすると、そのとき見えてくる「世界」は人間がふつうの「肉体」をいてきているときのものとは違ってくる。
たとえば、風は「群れ」をつくりうる「個」として見えてくる。そして「風」を「群れ」と呼ぶことばの力は、「肉体」に作用して、あるはずのない「翼が生えて」きて、砦は投げ飛ばされたことを利用して、飛んで行くのである。
この変化を三宅は「あたりまえ」のような感じで書いている。何の迷いもなく、強いことばで書いている。そのことばのなかでも、特に強いのが「生えて」である。
「生える」。
そこにないものが「生まれてくる」。
それは「肉体」のなから、新しいものが「異形」として誕生し、生きていくことでもある。
ことばを語ること--それは、三宅にとっては、新しい「いのち」を生きることなのである。
そういう「決意」が三宅にはあって、その決意がことばを強靱にしているのだと思う。「肉体」をも「強靱」に変形させるのだと思う。
「風を待って」の2連目。
「全身全霊」。あ、私は、こういう「精神的なことば」が苦手なのだけれど、そうなのだ、三宅はことばに全身全霊をこめているのだと思う。
「全身」とは「肉体」のすべてであろう。「全霊」とは「精神(こころ)」のすべてだろう。三宅は、その「肉体(身)」と「精神(霊)」をひとつのことばに硬く結びつけている。「ふたつ」のものを「ひとつ」にしてしまっている。
「肉体」は「精神」であり、「精神」は「肉体」である。「肉体」は「ことば」であり、「ことば」は「肉体」である。
この区別のなさが、三宅のことばの「強さ」の源であると思った。
三宅節子のことばはとても強い。強い--というのは、ちょっと他に説明のしようがないのだけれど。
たとえば「風を待って」。
海から長い坂道を登りつめた丘の上で
砦は息をひそめて風の行くえをさぐっている
かつて風の群れがやって来て足もとの土をえぐり
砦を根こそぎ空中へ投げ飛ばしたことがあった
あの時は石の壁から翼が生えて大風に乗り
海を越えてナスカの地上絵を見に行った
こんど風がやってくるのは いつなのか
このあたりでは風の動きはことさら気まぐれで
砂地にしみこむように姿を消したが最後
どんなに呼んでも そよとの微風も立ちはしない
「砦」には三宅独自の思いがこもっている。詩集の巻頭の「砦にて」には、
海から登ってくる坂道の上に
私は時の見張りの小さな砦を建てた
その中に棲みつくようになってから
どれほどの季節が過ぎたろう
「砦」とは「三宅」の「比喩」なのである。「海から長い坂道を登りつめた丘の上」の砦、「海から登ってくる坂道の上に」建てた砦--これは、詩は違うが同じ「砦」である。「私=三宅」の同義である。
「砦」として、「時」をみはりながら生きている。それが「三宅」なのだが、「砦」というものは動かないものである。その動かない「砦」が「風」にのって旅をする。
そのとき「風」とは何か。
「想像力」と言ってしまうのは簡単である。「詩のインスピレーション」と言ってしまうのも簡単である。
でも、そういうことばをつかってしまえば、どんな詩でも「説明」できる。そして、どんな詩でも「インスピレーション」によって動いているという「括弧」のなかに閉じ込めてしまうことになる。
それでは、おもしろくない。
そこにどんなことばがつかわれているか--いま、書かれているのは「風」なのだが、その風はどんなことばととも動いているか、それが「砦」にどう影響しているかを、「インスピレーション」ということばをつかわずに追ってみたい。
私が最初に驚くのは、
風の群れがやって来て
である。「風」は「群れ」を作るのか。「群れ」というのは、「個」があって「群れ」になる。「個」が集合して「群れ」になる。
私は「風」、つまりその素材(?)である「空気」を「個」として感じたことはない。どこまでもつながっている。切れ目がない。区別がつかない。
しかし、三宅は、「空気」を「個」の集合としてとらえている。
何によって? 眼(視覚)? 肌(触覚)? 耳(聴覚)? 鼻(嗅覚)? 舌(味覚)? --どれも違うようである。
「足もとの土をえぐり」とある。風は、まるで「手」のように動くのである。
さらに「根こそぎ空中へ投げ飛ばした」というのだから「手」だけではなく、もっと大きい「肉体」全体をもっている。
風は、まるで人間のように「肉体」をもっている。そして、それは「群れ」となるとき、「集合」ではない。「群れ」は「集合」をあらわすことばだけれど、「群れ」という「ひとつ」のことばであるように、「群れた」瞬間、「ひとつ」の巨大な「肉体」になる。「個」は「個」であって、「個」ではなくなり、「個」でなくなるときに、また「個(ひとつ)」になる。
そういう運動を三宅は、どこでつかみとるのかわからないが、はっきりと感じる。その「はっきり」と感じ取るときの「はっきり」が強烈にことばのなかに残っている。
「個」は「個」であって、「個」ではなくなり、「個」でなくなるときに、また「個(ひとつ)」になる--という「風(空気)」の運動は、その運動をつかみ取った瞬間、三宅自身にも影響してくる。つまり「砦」にも影響してくる。「砦」は風の運動を知ったために「砦」ではなくなる。
あの時は石の壁から翼が生えて大風に乗り
「砦」に「翼が生え」る。翼が生え、風に乗るとき、「砦」と「砦」ではなく「鳥」である。三宅の「肉体」そものが、変わってしまうのである。
--このことを、私は、ちょっと言い換えてみたい。ことばを変えることで考え直してみたい。
この詩は(あるいは、他の三宅の詩は)、「私」を「砦」と呼ぶことからはじまる。「私」は「砦」ではないが、ことばで「砦」にしてしまう。ことばの方へ「肉体」を突き動かしていく。ことばで「肉体」を「砦」にしてしまう。
そうすると、そのとき見えてくる「世界」は人間がふつうの「肉体」をいてきているときのものとは違ってくる。
たとえば、風は「群れ」をつくりうる「個」として見えてくる。そして「風」を「群れ」と呼ぶことばの力は、「肉体」に作用して、あるはずのない「翼が生えて」きて、砦は投げ飛ばされたことを利用して、飛んで行くのである。
この変化を三宅は「あたりまえ」のような感じで書いている。何の迷いもなく、強いことばで書いている。そのことばのなかでも、特に強いのが「生えて」である。
「生える」。
そこにないものが「生まれてくる」。
それは「肉体」のなから、新しいものが「異形」として誕生し、生きていくことでもある。
ことばを語ること--それは、三宅にとっては、新しい「いのち」を生きることなのである。
そういう「決意」が三宅にはあって、その決意がことばを強靱にしているのだと思う。「肉体」をも「強靱」に変形させるのだと思う。
「風を待って」の2連目。
だから風を呼ぶためには 全身全霊をこめて
時をはかり風の心を読みとらなければならない
「全身全霊」。あ、私は、こういう「精神的なことば」が苦手なのだけれど、そうなのだ、三宅はことばに全身全霊をこめているのだと思う。
「全身」とは「肉体」のすべてであろう。「全霊」とは「精神(こころ)」のすべてだろう。三宅は、その「肉体(身)」と「精神(霊)」をひとつのことばに硬く結びつけている。「ふたつ」のものを「ひとつ」にしてしまっている。
「肉体」は「精神」であり、「精神」は「肉体」である。「肉体」は「ことば」であり、「ことば」は「肉体」である。
この区別のなさが、三宅のことばの「強さ」の源であると思った。
神々の戦略―三宅節子詩集 (1979年) | |
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