三宅節子『砦にて』(思潮社、2011年07月31日発行)
三宅節子『砦にて』は独自のことばで動いている。そのために、ぐい、と引き込まれる瞬間がある。
「過去への旅」のなかほど。
「過去は過去で独自に進化していたことがわかった」に私は引き込まれた。
ふるさとを出てから何年にもなるのだろう。もどってみると、「私(三宅)」が変わったようにふるさとも変わっていた。その「ふるさと」を「ふるさと」という「場」を指すことばではなく「過去」という時間をあらわすことばで指し示しているところに三宅の「哲学(思想、肉体)」が出ている。
どのような「場」も「場」だけがあるのではない。そこには「時間」もある。「場」と「時間」がからみあって「ふるさと」がある。「かわった」のは「場」ではなく、「時間」である。いや、その「場」を構成するものがかわったのだけれど、その変化は「時間」がもたらしたものである。コスモスの平原から銀行や商店のビルへの変化は、「時間」がもたらしたものである。
このことを、三宅は「わかった」と書いている。そして、この「わかった」こそ、三宅の「哲学」の核心であると思った。
「知った」と比較してみるとわかりやすくなるかもしれない。
ふるさとが変化している(進化している)。それは、たとえば誰かから聞いて「知る」ということがある。また写真を見て「知る」ということもある。三宅は、そういうふうに「知った」のではない。「他人」を媒介にして、情報を得ることで「知った」のではない。直接、そこへ行って、自分の目で見て「進化」を「知った」。そして、それが直接三宅の「肉体」を通っているから、それは「知った」ではなく「わかった」なのである。
「知った」と「わかった」の違いは--「知った」こと(他人から情報を得たことがら)は、それを「繰り返す」ことで誰か別のひとに伝えることができるが、そのときの「情報」はあくまで「繰り返し」である。「情報」に「変化」を加えてはいけない。加えると間違える」可能性があるだ。
「わかった」は違う。三宅自身で「自在」につくりかえることができる。加工することができる。たとえば、銀行や商店がビルになっている。ビルがたくさん立っている。そのことを、
と書く。私はこのことばをはじめて知ったが(辞書をひいて調べた)、「はりねずみの毛のように、多く集まるのをいう」(「漢語林」大修館書店)。あ、はりねずみって、日本にもいた?(中国にもいる?) と、一瞬驚くのだが、三宅はそのことばを知っている。わかっている。だから、だれもつかわないような(つかっているひとがいるかもしれないが、少ないだろう)ことばで、ビルの立っている様子を描写できる。
さらに、その「はりねずみ」から、
が力強く動いている。「蝟集」→はりねずみ→獣→「獰猛」→獣→息づかい(野生、荒々しさ)→うずくまる→はりねずみが毛を逆立てて丸くなっている→「蝟集」、というような、ことばの動きが感じ取れる。ことばが、緊密に呼応しているのが感じられる。
さらには、そのことばの奥には「進化(論)」が隠れている。動物から人間へ、野生から文明へ。そういうことを「進化」と呼びがちだが、そういう運動とは別のものもあるかもしれない。「過去」へ旅するように、文明を破壊し野蛮へもどるという運動もあるかもしれない。
そういうことも三宅は考えているかもしれない。
三宅のことばには、つまり、いろいろなものがつまっている。そのいろいろなものを、関連させる形で、宮家流に動かしている。つかいこなしている。
こんなふうにことばを動かすことができるのは、三宅が、「ふるさと」を、その「時間」の進化を三宅自身の「肉体」で見ているからである。そこに「肉体」が参加しているからである。「肉体」が、現実を、そしてことばをわかっているからである。
「蝟集」も「獰猛」も、三宅は「知っている」のではなく、「わかっている」。だから、そのことばにあわせて「濁流」とか「増殖」というような「漢語」を同時に制御できる(つかいこなせる)のだ。
三宅の「肉体」をさらに感じさせるのは、
である。
ふるさとにある木々。その木々が呼吸している。その呼吸と「同じリズム」で三宅も呼吸する(息をする)。息をするリズム--これは「肉体」そのもののリズムである。「頭」で考えるのではなく、「肉体」が「ふるさと」と反応し、呼応している。
「肉体」でつかみ取ったものを「肉体」をとおしてはきだす--息を声にし、声をことばにする。その強さが「わかった」ということである。
この「わかった」は「知」ではない。「知る」とは無関係のものである。つまり、「間違っている」可能性がある。「流通言語」として「世間」には「流通」しえないものを含んでいるかもしれない。だが、だからこそ、「わかった」なのである。
「知っている」ではなく「わかっている」。「知っている」ことは「知ったことそのまま」に繰り返すしかないが、「わかっていること」は何度でもことばを変えながら、声にだしつづけることができる。
三宅は、この詩集では「知っていること」ではなく、「わかっていること」を繰り返し繰り返し、ことばをかえて語る。ことばを、そんなふうにつかいこなしている。
言い換えると、何度も何度も三宅の「肉体」の中へ中へと「旅」して、彼女自身の「肉体」の奥から「息」をはき出し、声にしている。「息」はこのとき「生き(る)」であるかもしれない。
これは、「精神(頭)」が見た「まぼろし」ではない。三宅の「肉体」の力が、その呼吸が、まわりにあるものを変身させるのである。
「過去への旅」では木々に呼吸をあわせたのは三宅だったが、「海辺の街」では古木が三宅の呼吸にあわせて「同じリズム」を生きる。そのとき「洋館」というもの、いきものではないものさえ、動きはじめるのである。
三宅節子『砦にて』は独自のことばで動いている。そのために、ぐい、と引き込まれる瞬間がある。
「過去への旅」のなかほど。
夜行列車の車窓をよぎるどの面影も
記憶の中のもっとも優しげな笑顔を見せ
早く昔の川をさがしに行こうと誘いかけてくる
ふるさとの駅に降り立つと
過去は過去で独自に進化していたことがわかった
コスモスがゆれていた風の平原には
銀行や商店のビルがびっしりと蝟集して
獰猛な息づかいでうずくまっていた
川は未来へ向かって荒れ狂う濁流だった
山裾の墓地はあちこちの山へ増殖をはじめ
濡れた樹々が必要以上にゆっくりと
息を吸ったり吐いたりしていた
気がつくと私もまた
同じリズムで息をしているのだった
「過去は過去で独自に進化していたことがわかった」に私は引き込まれた。
ふるさとを出てから何年にもなるのだろう。もどってみると、「私(三宅)」が変わったようにふるさとも変わっていた。その「ふるさと」を「ふるさと」という「場」を指すことばではなく「過去」という時間をあらわすことばで指し示しているところに三宅の「哲学(思想、肉体)」が出ている。
どのような「場」も「場」だけがあるのではない。そこには「時間」もある。「場」と「時間」がからみあって「ふるさと」がある。「かわった」のは「場」ではなく、「時間」である。いや、その「場」を構成するものがかわったのだけれど、その変化は「時間」がもたらしたものである。コスモスの平原から銀行や商店のビルへの変化は、「時間」がもたらしたものである。
このことを、三宅は「わかった」と書いている。そして、この「わかった」こそ、三宅の「哲学」の核心であると思った。
「知った」と比較してみるとわかりやすくなるかもしれない。
ふるさとが変化している(進化している)。それは、たとえば誰かから聞いて「知る」ということがある。また写真を見て「知る」ということもある。三宅は、そういうふうに「知った」のではない。「他人」を媒介にして、情報を得ることで「知った」のではない。直接、そこへ行って、自分の目で見て「進化」を「知った」。そして、それが直接三宅の「肉体」を通っているから、それは「知った」ではなく「わかった」なのである。
「知った」と「わかった」の違いは--「知った」こと(他人から情報を得たことがら)は、それを「繰り返す」ことで誰か別のひとに伝えることができるが、そのときの「情報」はあくまで「繰り返し」である。「情報」に「変化」を加えてはいけない。加えると間違える」可能性があるだ。
「わかった」は違う。三宅自身で「自在」につくりかえることができる。加工することができる。たとえば、銀行や商店がビルになっている。ビルがたくさん立っている。そのことを、
蝟集して
と書く。私はこのことばをはじめて知ったが(辞書をひいて調べた)、「はりねずみの毛のように、多く集まるのをいう」(「漢語林」大修館書店)。あ、はりねずみって、日本にもいた?(中国にもいる?) と、一瞬驚くのだが、三宅はそのことばを知っている。わかっている。だから、だれもつかわないような(つかっているひとがいるかもしれないが、少ないだろう)ことばで、ビルの立っている様子を描写できる。
さらに、その「はりねずみ」から、
獰猛な息づかいでうずくまっていた
が力強く動いている。「蝟集」→はりねずみ→獣→「獰猛」→獣→息づかい(野生、荒々しさ)→うずくまる→はりねずみが毛を逆立てて丸くなっている→「蝟集」、というような、ことばの動きが感じ取れる。ことばが、緊密に呼応しているのが感じられる。
さらには、そのことばの奥には「進化(論)」が隠れている。動物から人間へ、野生から文明へ。そういうことを「進化」と呼びがちだが、そういう運動とは別のものもあるかもしれない。「過去」へ旅するように、文明を破壊し野蛮へもどるという運動もあるかもしれない。
そういうことも三宅は考えているかもしれない。
三宅のことばには、つまり、いろいろなものがつまっている。そのいろいろなものを、関連させる形で、宮家流に動かしている。つかいこなしている。
こんなふうにことばを動かすことができるのは、三宅が、「ふるさと」を、その「時間」の進化を三宅自身の「肉体」で見ているからである。そこに「肉体」が参加しているからである。「肉体」が、現実を、そしてことばをわかっているからである。
「蝟集」も「獰猛」も、三宅は「知っている」のではなく、「わかっている」。だから、そのことばにあわせて「濁流」とか「増殖」というような「漢語」を同時に制御できる(つかいこなせる)のだ。
三宅の「肉体」をさらに感じさせるのは、
気がつくと私もまた
同じリズムで息をしているのだった
である。
ふるさとにある木々。その木々が呼吸している。その呼吸と「同じリズム」で三宅も呼吸する(息をする)。息をするリズム--これは「肉体」そのもののリズムである。「頭」で考えるのではなく、「肉体」が「ふるさと」と反応し、呼応している。
「肉体」でつかみ取ったものを「肉体」をとおしてはきだす--息を声にし、声をことばにする。その強さが「わかった」ということである。
この「わかった」は「知」ではない。「知る」とは無関係のものである。つまり、「間違っている」可能性がある。「流通言語」として「世間」には「流通」しえないものを含んでいるかもしれない。だが、だからこそ、「わかった」なのである。
「知っている」ではなく「わかっている」。「知っている」ことは「知ったことそのまま」に繰り返すしかないが、「わかっていること」は何度でもことばを変えながら、声にだしつづけることができる。
三宅は、この詩集では「知っていること」ではなく、「わかっていること」を繰り返し繰り返し、ことばをかえて語る。ことばを、そんなふうにつかいこなしている。
言い換えると、何度も何度も三宅の「肉体」の中へ中へと「旅」して、彼女自身の「肉体」の奥から「息」をはき出し、声にしている。「息」はこのとき「生き(る)」であるかもしれない。
シャワールームの鏡を通り抜けると
海辺の街は不思議な変身をとげていた
鱗のある太古の木が遊歩道を歩きまわり
瀟洒な洋館がゆらゆらと漂っていた
(「海辺の街」)
これは、「精神(頭)」が見た「まぼろし」ではない。三宅の「肉体」の力が、その呼吸が、まわりにあるものを変身させるのである。
「過去への旅」では木々に呼吸をあわせたのは三宅だったが、「海辺の街」では古木が三宅の呼吸にあわせて「同じリズム」を生きる。そのとき「洋館」というもの、いきものではないものさえ、動きはじめるのである。
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