詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岳こう『マグニチュード9・0』

2011-09-15 23:59:59 | 詩集
清岳こう『マグニチュード9・0』(思潮社、2011年08月25日発行)

 清岳こう『マグニチュード9・0』は 3月11日の東日本大震災を題材にしている。ことばは、なかなかことばにならない。書きたいことがまとまらない。短いことばにすがるようにして生きている。
 冒頭の詩は「雪がふる」

しずまれ
しずまれ
しずまれ
しずまれ

静まれ
静まれ
鎮まれ
鎮まれ



 地震に対して「しずまれ」と言っている。いいながらも、最初は何を言っているのかわからないのだと思う。だれに対して言っているのかもわからないのだと思う。いま、こうやってこの詩を読むと、清岳は地震に対して「鎮まれ」と言っていることがわかるが、最初からそのことばにたどりついたわけではない。「しずまれ」とともかく言ってみる。それは、清岳自身に対して「しずまれ(おちつけ)」と言い聞かせているように聞こえる。まず、自分に言い聞かせる。それから地震に対して「静まれ」と言ってみる。まだ、この段階では清岳地震に言い聞かせていることばがまじっているかもしれない。「冷静になれ、落ち着け」と言い聞かせているのだと思う。それから、やっと「鎮まれ(鎮静化せよ)」と自分ではないもの、「地震(で、いいのかどうか、はっきりしない)」に対して言っている。「鎮まれ」というのは「地震」に対して言うのだろうか、それとも「大地」に対して言うのだろうか。
 よくわからない。よくわからないけれど、ようやく自分自身に対して「しずまれ(静まれ、冷静になれ)」と言い聞かせ終わったとき、ほんとうに呼びかけるべき相手がいることに気がつく。でも、その「相手」はやはりわからない。
 わからないまま、「鎮まれ」と言ってみるとき、その声が清岳以外のものの「声」として聞こえる。
 雪が言っている。雪が、「しずまれ」と言っている。清岳に、そして、いま起きている「地震」に対して、あるいは「大地」に対して。空が、この地球に、そう呼びかけている。地球に呼びかけるようにして、清岳にも言っている。
 このとき、清岳と雪は「一体」である。また「地震」というか、まだそれが何であるかわからない「ことがら」と「一体」である。いま起きたことが「大地震」であったことがわかるのは、まだ先の話だ。
 たしかに揺れは体験した。でも、それが「大地震」(大震災)であると「わかる」までには時間がかかる。いま、清岳に「見える」もの、「聞こえる」ものは、自分のまわりにあるものだけである。
 ほんとうに「見える」もの、「聞こえる」ものは「雪」である。「雪」が見え、「雪」の声が聞こえる。清岳にとって、「現実」は、この瞬間「雪」だけである。

 この感覚--「わかる」というと、言い過ぎになるかもしれないが、とても納得がゆく。雪といっしょに育ったことがある人間に共通する感覚かもしれないが、雪なら信じることができるのだ。長い冬のあいだ、雪といっしょにいる。そうすると、人間は雪になるのだ。雪は「同胞」になるのだ。ほかのことはわからないが、雪の言っていることはわかる。雪は雪でありつづけ、人間を裏切らない。雪に閉じ込められるのは楽しいことではないが、雪に閉じ込められ、ただじっとしているしかない日々--そのなかで雪と交わすことばがあるのだ。
 雪は、雪とともに育った人間には「友達」なのだ。
 海とともに育った人間にとって、何がおきようと海が「ふるさと」であるように。

 雪の声を聞くとき、清岳は清岳ではなく、雪そのものである。
 その雪になって、大地に降ることができたなら、空と大地と人間をそうやって結びつけることができたらどんなにいいだろう。
 --と清岳が書いているわけではないが、そう書いているように感じるのだ。その声が聞こえるのだ。

 詩集の最初の方の作品には、清岳の声はない。いや、それは清岳の声には違いないが、そこには清岳以外の声が、まるで清岳にすがるように集まってきているのがわかる。感じる。清岳とともに、いま「ある」ものが、「できごと」を語るために、清岳の声を利用しているのだ。清岳をのっとっているのだ。
 憑依。
 あらゆるものが、清岳の肉体ををとおって、声を上げている。

にれの樹
ねむの樹
大木たちは全身でふるえた
脚と脚をからませ大地にふんばり

電柱
街灯
暮らしの柱たちも根元からゆれた
腕と腕をつなぎ空につかまり

私たちも
壁をつたい
フェンスにしがみつき
手と手をとりあい
                                (「その時」)

 「その時」、にれもねむも電柱も街灯も私たち(人間)も区別はない。することは同じである。
 「空につかまり」が痛切である。
 手を差し伸べてくれたのは「空」なのだ。そのつかんでもつかみきれないものをつかんで、ひとは立つのだ。

 「津波が来ます!」(タイトルの「!」は2本あるのだけれど、私のワープロはそれを表記できない)も、とても好きな詩である。
 大災害のことを書いている詩に対して「好き」ということばが適当であるかどうかわからないが、そこにある声の美しさに、なんといえばいいのだろう。生きているたしかさがある。

見あげれば
白鳥たち

リーダーに連れられ
サブリーダーに後方を守られ
美しいかぎ型で

すきとおった声で
たがいに鳴きかわし

暗い空を
山の方へ
沼の方へ

 こういうときにも、「美しい」のが存在するのだ。白鳥の隊列。それは懸命に生きる白鳥の姿なのだが、懸命に生きるとき、それは「美しい」ものになる。
 清岳は、そこに、清岳自身の、人間の生き方をみている。人間だけではなく、先の詩にでてきた、にれやねむや、電柱や街灯の「生き方」も見ている。
 どんなときも「存在(いのちあるもの)」は美しくなれるのだ。美しいのだ。
 「連れられ」「守られ」「すきとおった声」「たがい」「かわす」。
 「美しいもの」よりも、もっとしなければならないことがあるかもしれない。けれど、「美しい」と感じることも、「いま」必要なのだ。

見あげれば
白鳥たち

リーダーに連れられ
サブリーダーに後方を守られ
美しいかぎ型で

 この1連目から2連目への1行空きの、「呼吸」がいい。
 「白鳥たち」から、何を「見る」ことができるか。そこから、どんな「声」を聞き出すことができるか。
 2連目以降は、別の形のことばもありえる。
 けれど、清岳が見たもの、聞いたものは「美しい」つながりである。
 「美しいもの」へつながっていこうとする清岳が、自然に呼び寄せたものである。
 いや、「白鳥」が清岳の肉体をとおって、いま、美しいものとなって、まるで初めてのように、「世界」のなかで生まれているのだ。



マグニチュード9.0
清岳 こう
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする