山本博道『光塔の下で』を読みながら、困ってしまった。巻頭に「ベナレス」という作品がある。その最終連。
何が書いてあるのか、さっぱりわからないのである。「意味」だけなら、きのう読んだ北川透の詩よりは、他人に伝達できる。つまり、山本が書いているのは、こういうことだと間違いなく伝えることができると思う。
山本は雨に降られてホテルに帰って来て、朝食を食べた。オムレツとパンと鶏のから揚げ。食べながら(食べたあと?)、山本が見たものよりも「写真で見たベレナスの方が/ずっと厳かだ」と思った--と他人が思ったことなのに、「正確」に伝えることができる。「現実」は厳かではなかったのだ。
ふーん。
でも、「写真の厳か」と「現実の厳かではない」の違いって、どこにある? あ、これは変か。「写真の厳か」と「現実の(そこにあった)厳か」って、どこが違う、というべきなのかな? 「写真の厳か」と「現実にある厳か」の違いを山本は識別し、「写真」の方が「厳か度(?)」においてすぐれていたと判断したのだが、その「厳か度」って、なに?
それがぜんぜん、わからない。
まるで、「正九千九百九十九角形」と「正一万角形」とでは「辺の数が一本違う」と言われたときのように、たしかに「違う」のだろうけれど、それって、どういう「意味」? そんなものが違っていたからといって何か関係ある?
「正九千九百九十九角形」と「正一万角形」なんて、「頭」のなかでは「正確」に違いを言えるけれど、現実にそれがあったとして、区別できる? 目で見てわかる? 手で触って(指でたどって)わかる?
わからないよねえ。
職人の世界では、たとえば「旋盤」で仕事をしているひとの世界では、〇・〇一ミリ違っても指で触ってわかるということがあるみたいだけれど、それはプロの世界。一般にはわからない。デジタル計測器ならきちんと数字が出てくるからわかるかもしれないけれど、アナログ計測器では「測り間違い(誤差)」ですらないよねえ。
これは、ようするに「プロ」にしかわからない「違い」。「誤差」。
「プロ」以外の人間には、その違いを「わかる」ためには「頭」のなかだけにことばをとどめおかなければならない。
これでは、詩は、おもしろくない。
詩は、そこに書かれていることばを、作者の書いた「意味」とは無関係に、自分に「流用」して(自分の気持ちのために、かっぱらって、剽窃して、強盗して)、「よし、わかった」と勘違いするためのものなのだ。
あ、これこそが私のいいたかったこと、と勘違いすることなのだ。
勘違いして、そこから自分のことばを動かしていくことなのだ。
山本の今回の詩を読んでいると、そういうことは起きない。山本の書いていることばのをただ反復して、正確に反復できたから「わかった」と思うことしかできない。
ことばが広がっていかない。
「海外旅行記」は読めども読めども、どこにも迷い込んでしまわない。活字が動いていかない。あ、その曲がり角を曲がって、その路地へ入っていってみて、というような感じで、その世界へ入っていけない。世界が山本のことばで封印されてしまっている感じがする。
認知症の「母(だろう)」のことを書いた詩も同じである。どこにも、肉体をぐいと引き込むことばがない。山本は介護で苦労しているのだろうけれど、生きていることの不思議さ、理不尽さ、逸脱がない。山本に言わせれば、認知症のひとといっしょに暮らすことが理不尽である、逸脱であるというかもしれないけれど……。
私は何かの「写真」を見たいのではない。つまり、山本の「こころ」を写した「写真」(正確な再現)ではなく、「手書き」の不正確さ、不正確でしかつかみとれない「欲望」(本能、肉体)を読みたい。
濡れたままホテルに帰り
チーズとトマトとオニオンで
オムレツを作ってもらう
あとはパン、鶏のから揚げ
コーヒーとフルーツの朝食
写真で見たベナレスの方が
ずっと厳かだったと思いながら
雨には勝てないのかとそれが不思議で
もう一杯コーヒー、プリーズ
雨はホテルの窓を濡らし
菩提樹を濡らしユーカリを濡らし
アグラへと向かう夜汽車の中まで
音もなく降り続いていた
何が書いてあるのか、さっぱりわからないのである。「意味」だけなら、きのう読んだ北川透の詩よりは、他人に伝達できる。つまり、山本が書いているのは、こういうことだと間違いなく伝えることができると思う。
山本は雨に降られてホテルに帰って来て、朝食を食べた。オムレツとパンと鶏のから揚げ。食べながら(食べたあと?)、山本が見たものよりも「写真で見たベレナスの方が/ずっと厳かだ」と思った--と他人が思ったことなのに、「正確」に伝えることができる。「現実」は厳かではなかったのだ。
ふーん。
でも、「写真の厳か」と「現実の厳かではない」の違いって、どこにある? あ、これは変か。「写真の厳か」と「現実の(そこにあった)厳か」って、どこが違う、というべきなのかな? 「写真の厳か」と「現実にある厳か」の違いを山本は識別し、「写真」の方が「厳か度(?)」においてすぐれていたと判断したのだが、その「厳か度」って、なに?
それがぜんぜん、わからない。
まるで、「正九千九百九十九角形」と「正一万角形」とでは「辺の数が一本違う」と言われたときのように、たしかに「違う」のだろうけれど、それって、どういう「意味」? そんなものが違っていたからといって何か関係ある?
「正九千九百九十九角形」と「正一万角形」なんて、「頭」のなかでは「正確」に違いを言えるけれど、現実にそれがあったとして、区別できる? 目で見てわかる? 手で触って(指でたどって)わかる?
わからないよねえ。
職人の世界では、たとえば「旋盤」で仕事をしているひとの世界では、〇・〇一ミリ違っても指で触ってわかるということがあるみたいだけれど、それはプロの世界。一般にはわからない。デジタル計測器ならきちんと数字が出てくるからわかるかもしれないけれど、アナログ計測器では「測り間違い(誤差)」ですらないよねえ。
写真で見たベナレスの方が
ずっと厳かだったと思いながら
これは、ようするに「プロ」にしかわからない「違い」。「誤差」。
「プロ」以外の人間には、その違いを「わかる」ためには「頭」のなかだけにことばをとどめおかなければならない。
これでは、詩は、おもしろくない。
詩は、そこに書かれていることばを、作者の書いた「意味」とは無関係に、自分に「流用」して(自分の気持ちのために、かっぱらって、剽窃して、強盗して)、「よし、わかった」と勘違いするためのものなのだ。
あ、これこそが私のいいたかったこと、と勘違いすることなのだ。
勘違いして、そこから自分のことばを動かしていくことなのだ。
山本の今回の詩を読んでいると、そういうことは起きない。山本の書いていることばのをただ反復して、正確に反復できたから「わかった」と思うことしかできない。
ことばが広がっていかない。
「海外旅行記」は読めども読めども、どこにも迷い込んでしまわない。活字が動いていかない。あ、その曲がり角を曲がって、その路地へ入っていってみて、というような感じで、その世界へ入っていけない。世界が山本のことばで封印されてしまっている感じがする。
認知症の「母(だろう)」のことを書いた詩も同じである。どこにも、肉体をぐいと引き込むことばがない。山本は介護で苦労しているのだろうけれど、生きていることの不思議さ、理不尽さ、逸脱がない。山本に言わせれば、認知症のひとといっしょに暮らすことが理不尽である、逸脱であるというかもしれないけれど……。
私は何かの「写真」を見たいのではない。つまり、山本の「こころ」を写した「写真」(正確な再現)ではなく、「手書き」の不正確さ、不正確でしかつかみとれない「欲望」(本能、肉体)を読みたい。
光塔(マナーラ)の下で | |
山本 博道 | |
思潮社 |