詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本博道『光塔の下で』

2011-09-08 23:59:59 | 詩集
 山本博道『光塔の下で』を読みながら、困ってしまった。巻頭に「ベナレス」という作品がある。その最終連。

濡れたままホテルに帰り
チーズとトマトとオニオンで
オムレツを作ってもらう
あとはパン、鶏のから揚げ
コーヒーとフルーツの朝食
写真で見たベナレスの方が
ずっと厳かだったと思いながら
雨には勝てないのかとそれが不思議で
もう一杯コーヒー、プリーズ
雨はホテルの窓を濡らし
菩提樹を濡らしユーカリを濡らし
アグラへと向かう夜汽車の中まで
音もなく降り続いていた

 何が書いてあるのか、さっぱりわからないのである。「意味」だけなら、きのう読んだ北川透の詩よりは、他人に伝達できる。つまり、山本が書いているのは、こういうことだと間違いなく伝えることができると思う。
 山本は雨に降られてホテルに帰って来て、朝食を食べた。オムレツとパンと鶏のから揚げ。食べながら(食べたあと?)、山本が見たものよりも「写真で見たベレナスの方が/ずっと厳かだ」と思った--と他人が思ったことなのに、「正確」に伝えることができる。「現実」は厳かではなかったのだ。
 ふーん。
 でも、「写真の厳か」と「現実の厳かではない」の違いって、どこにある? あ、これは変か。「写真の厳か」と「現実の(そこにあった)厳か」って、どこが違う、というべきなのかな? 「写真の厳か」と「現実にある厳か」の違いを山本は識別し、「写真」の方が「厳か度(?)」においてすぐれていたと判断したのだが、その「厳か度」って、なに?
 それがぜんぜん、わからない。
 まるで、「正九千九百九十九角形」と「正一万角形」とでは「辺の数が一本違う」と言われたときのように、たしかに「違う」のだろうけれど、それって、どういう「意味」? そんなものが違っていたからといって何か関係ある?
 「正九千九百九十九角形」と「正一万角形」なんて、「頭」のなかでは「正確」に違いを言えるけれど、現実にそれがあったとして、区別できる? 目で見てわかる? 手で触って(指でたどって)わかる?
 わからないよねえ。
 職人の世界では、たとえば「旋盤」で仕事をしているひとの世界では、〇・〇一ミリ違っても指で触ってわかるということがあるみたいだけれど、それはプロの世界。一般にはわからない。デジタル計測器ならきちんと数字が出てくるからわかるかもしれないけれど、アナログ計測器では「測り間違い(誤差)」ですらないよねえ。

写真で見たベナレスの方が
ずっと厳かだったと思いながら

 これは、ようするに「プロ」にしかわからない「違い」。「誤差」。
 「プロ」以外の人間には、その違いを「わかる」ためには「頭」のなかだけにことばをとどめおかなければならない。
 これでは、詩は、おもしろくない。

 詩は、そこに書かれていることばを、作者の書いた「意味」とは無関係に、自分に「流用」して(自分の気持ちのために、かっぱらって、剽窃して、強盗して)、「よし、わかった」と勘違いするためのものなのだ。
 あ、これこそが私のいいたかったこと、と勘違いすることなのだ。
 勘違いして、そこから自分のことばを動かしていくことなのだ。

 山本の今回の詩を読んでいると、そういうことは起きない。山本の書いていることばのをただ反復して、正確に反復できたから「わかった」と思うことしかできない。
 ことばが広がっていかない。
 「海外旅行記」は読めども読めども、どこにも迷い込んでしまわない。活字が動いていかない。あ、その曲がり角を曲がって、その路地へ入っていってみて、というような感じで、その世界へ入っていけない。世界が山本のことばで封印されてしまっている感じがする。
 認知症の「母(だろう)」のことを書いた詩も同じである。どこにも、肉体をぐいと引き込むことばがない。山本は介護で苦労しているのだろうけれど、生きていることの不思議さ、理不尽さ、逸脱がない。山本に言わせれば、認知症のひとといっしょに暮らすことが理不尽である、逸脱であるというかもしれないけれど……。

 私は何かの「写真」を見たいのではない。つまり、山本の「こころ」を写した「写真」(正確な再現)ではなく、「手書き」の不正確さ、不正確でしかつかみとれない「欲望」(本能、肉体)を読みたい。





光塔(マナーラ)の下で
山本 博道
思潮社
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ジョー・ライト監督「ハンナ」(★★★)

2011-09-08 12:08:04 | 映画
監督 ジョー・ライト 出演 シアーシャ・ローナン、ケイト・ブランシェット、エリック・バナ

 シアーシャ・ローナンをはじめてみたのは「つぐない」だった。とても透明な演技をしていた。肉体がそこにあるのに、肉体であることを感じさせない。というと変だけれど、こころ、いや精神がすっきりと見えるのである。若いときのレオナルド・ディカプリオに似ている。肉体がはじめからそこにある感じで、全体にとけこみ、スクリーンの精神を統一して動かしていく。
 「つぐない」では、姉の恋愛をじゃましてしまう幼い少女の、とりかえしのつかない「意地悪」をしてしまう役どころだが、おもわず許してしまう。その「気持ち」がまるで演じているシアーシャ・ローナンの肉体のなかにあるのではなく、見ている私の肉体のなかにあるような感じがする。スクリーンに引き込まれる、というより、劇場全体がスクリーンになって、シアーシャ・ローナンと私の区別がなくなる。シアーシャ・ローナンのなかで動いている「本能」が、私の「本能」になってしまう。--その瞬間的な、「本能」の一体化のようなものが、「肉体」にじゃまされずに、成立してしまう。
 まるで自分を見る、という感覚になる。そういう感覚に誘い込む演技である。
 この映画でも同じである。スクリーンに、何の違和感もなく溶け込み、スクリーンを統一し、彼女の動きにあわせてスクリーンが動いているような錯覚に陥る。
 映画のスタイルが違うから比較にならないかもしれないが、「レオン」のナタリー・ポートマンを思い浮かべると違いがわかる。ナタリー・ポートマンの方は、スクリーン(あるいはストーリーというべきか)から、いつも浮き上がっている。ナタリー・ポートマンの背後にストーリーがあって、ストーリーとは無関係にナタリー・ポートマンを見てしまう。まあ、それが俳優の肉体というものだから、どっちがいいとはいえない。ナタリー・ポートマンの方が「女優」の「資格?」が上という印象が残る。そういう「存在感」は私は好きではあるのだが、シアーシャ・ローナンの演技もとても好きなのである。
 あるいは、「わたしを離さないで」のキャリー・マリガンと比較するとおもしろいかもしれない。キャリー・マリガンの演じているのは、シアーシャ・ローナンと「同工異曲」の役どころである。DNA操作は関係ないかもしれないが、まあ、人工的につくられた「人間」である。キャリー・マリガンは「人工人間」なのだけれど「こころ」をもってしまったという役だから簡単には比較できないけれど、どうしてもその「肉体」の存在感、「肉体」が抱え込む「感情」が前面に出てしまう。(まあ、そういう役なのではあるけれど)。それはそれでいいのだけれど、そして魅力的なのだけれど、スクリーンを統一するときの「力」が違う。方法が違う。不透明さ、わからなさで統合してしまう。
 シアーシャ・ローナンは、そうではない。「わかる」ことだけで統一する。あまりにも「透明」に、まるで向こう側が見えてしまうような「肉体感覚」で統一する。向こう側というのは「肉体の内部」でもあるんだけれど。
 どうもうまくいえないが、ナタリー・ポートマンやキャリー・マリガンは、不透明さ(といっても、まあ、半透明といった方がいいかも)を前面に出すことでスクリーンを支配するのに対し、シアーシャ・ローナンは透明感でスクリーンを支配ではなく、内側から統一する。それがおもしろい。
 このシアーシャ・ローナンの演技が「化ける」と「エリザベス」のケイト・ブランシェットになるんだろうなあ。「人間」を演じているのだけれど、その演じている「対象」は「肉体」ではなく「精神力」。「精神力」というのは「肉体」と違って、見えないから、ちょっと困る。「肉体」なら、あそこが魅力といえば、それがそのものとして見えるけれど、「精神」は「ことば」にしないと見えてこないからねえ。--その、ことばにしないと見えてこないものを、シアーシャ・ローナンは、「肉体」を透明にすることでスクリーンにあふれさせる。
 うーん、と、私はうなってしまうのである。 

 そして、というのはちょっと飛躍があるのだけれど、このシアーシャ・ローナンの演技がそう思わせるのかもしれないけれど、この映画の映像の透明感がまた不思議である。シアーシャ・ローナンの演技が乗り移ったよう感じがする。
 雪の森。モロッコ(だったっけ?)の砂漠。ベルリン。舞台は大きくかわるのだけれど、どの風景もよごれていない。荒れた砂漠も、ごちゃごちゃしているベルリンも、「透明」である。別なことばで言うと、ストーリーをぜんぜんじゃましない。
 ある意味で、まるで「頭の中」を見ている感じ。「頭」なのかで動くものは「知っているもの」だけだが、どの風景も見た瞬間から「知っている」という感じで「肉体」になじんでくる。
 その「知っている」世界で、最後に、ほら、「知っている」ことばが繰り返されるでしょ? 「心臓をはずしちゃった」(アイ・ブ・ジャスト・ミスド・ユア・ハート、かな?)というシアーシャ・ローナンことばが繰り返され、「映画」が閉じられる。
 
 「つぐない」のジョー・ライト監督とシアーシャ・ローナンで、「つぐない」とはまったく違った映画を作り上げているのも、おもしろい。シアーシャ・ローナンに何ができるか、ジョー・ライトにもわからず、試行錯誤しているのかもしれない。
 このふたりの次の映画こそ、おもしろいのかもしれない。



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