江夏名枝『海は近い』(5)(思潮社、2011年08月31日発行)
江夏名枝『海は近い』の感想は、もっと効率的(?)な書き方があるかもしれない。けれど、詩は、もともと「効率」とは無関係なものだから、効率的に書いてもしようがないかもしれない。
でも、少しずつ、書き方を変えてみるか……。
「5」の部分。
「白髪を短く刈り込んだ小柄な男がひしゃくで水を撒く。」は簡潔な描写に見えるが、ここにも「複製」の問題が隠されている。
白髪を「短く」刈り込んだ男は「小柄」と「複製」される。「大柄」だと「複製」ではなく、別なストーリーになってしまう。「想定外」になってしまう。それはそれでいいのだが、江夏は、こういう部分では「逸脱」しない。ことばの「軸」をぶらさない。ぶらさないことで、ことばの運動をなめらかにする。それは「小柄」「ひしゃく」という「複製」にも通じる。白髪を「短く」刈り込んだ「大柄」な男という具合にことばが「複製」されたときは、そのあとにつづくことばは「バケツの水をぶちまけた」という具合に「複製」される。その場合「白髪」の「男」、「男」「大柄」、「大柄」「バケツ」「ぶちまける」という「複製」の関係ができあがる。
こういう「複製」は「常套句」という問題をはらむのだが--まあ、そのことは、わきにおいておく。(わきにおいたまま--というより、まあ、ここには戻ってはこないなあ、私は。)
その次の部分がおもしろい。
「眠り」が「目覚め」と「複製」される。
江夏の「複製」には、いくつか種類がある。まったく同じことばの「複製」として、「1」で見た「くちびるの声がくちびるを濡らし」がある。ついさっきみたのは「想定内」の「短く」「小柄」というような「類似」の「複製」である。こうしたものは「複製」と理解しやすいが、「眠り」と「目覚め」が「複製」であるというのは--変に見えるかもしれない。「矛盾」しているように見えるかもしれない。けれど、「複製」としかいいようがない。
「眠り」と「目覚め」は「矛盾」している、「対立している」ことばであるが、それは「矛盾」すること、「対立」することによって、「いま」を浮かび上がらせる。
という文において、「いま」という句は、あってもなくても「意味」はかわらない。
と、「いま」を省略してみるとわかる。「いま」はなくても、読者は(少なくとも、私には)、それが「わたし(えなつ)」にとって「いま」であることはわかる。「過去」や「未来」の時間ではないということがわかる。「いま」のことを書いているのは自明なのに「いま」と書かざるを得ない--そこに江夏の「思想」があり、その「思想」に「複製」が強く関係しているのだ。
「矛盾」をつなぐものが「いま」、「いま」が「いま」として強く認識されるのは、「矛盾」が「複製」としてあらわれるときなのである。
「2」に戻ってみる。「2」に次のことばがあった。
そこでは「誰かの捨てた風景」と「風景に見捨てられた、誰かの言葉」が「複製」であり、その「複製」は「裏返し-矛盾」であった。それが存在する時間は、そこには書かれていないが、やはり「いま」なのである。「いま」、「わたし(江夏)」は「かも知れない」という「述語」のなかで、その「矛盾」を統一している。
その「2」の部分が、「5」では、「眠り」「いま」「目覚め」という形で、「複製」されているのである。
「いま」という「時間」が、「矛盾」を統一する。
これを、別なことばで言いなおすと、「ここ」に「矛盾」が「現れる」。その「現れる」何かが、「ここ」という「場」に同時に存在するかぎりは、そこにその「矛盾」を統合する何かがあるはずで、その統合する力が「いま」なのだ。
世界に「ある」のは「いま/ここ」だけである。
江夏のことばを読んでいると、そう感じる。「矛盾」は存在しない。「矛盾」が存在するとしたら、それは「いま/ここ」を刻印するためにある。
それにつながることばが「6」にある。
「記憶」は「過去」ではない。どんな「過去」も「記憶」として思い起こすとき、そこに「いま」がある。「いま」という一瞬に、「過去」が呼び出されるとき、「いま」と「過去」の「あいだ」がなくなる。
この「あいだ」がなくなる「場」が「ここ」であり、「いま」なのだ。
「5」に戻る。
「眠りのなかにある……しぐさ」とは「夢」のことである。「夢」を甦らせ、ことばにするとき、その夢は夢ではない。「いま」起きていることである。
「肉体」は、ことばがかってにつくりだして見せる「過去(夢)」と「いま」の「へだたり」(あいだの大きさ)を理解できない。把握できない。過去も夢も、すべて「いま」である。「過去」も「夢」も、ことばを動かしていく「意識」が、むりやりつくりあげる「幻」である。
江夏名枝『海は近い』の感想は、もっと効率的(?)な書き方があるかもしれない。けれど、詩は、もともと「効率」とは無関係なものだから、効率的に書いてもしようがないかもしれない。
でも、少しずつ、書き方を変えてみるか……。
「5」の部分。
白髪を短く刈り込んだ小柄な男がひしゃくで水を撒く。眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。
「白髪を短く刈り込んだ小柄な男がひしゃくで水を撒く。」は簡潔な描写に見えるが、ここにも「複製」の問題が隠されている。
白髪を「短く」刈り込んだ男は「小柄」と「複製」される。「大柄」だと「複製」ではなく、別なストーリーになってしまう。「想定外」になってしまう。それはそれでいいのだが、江夏は、こういう部分では「逸脱」しない。ことばの「軸」をぶらさない。ぶらさないことで、ことばの運動をなめらかにする。それは「小柄」「ひしゃく」という「複製」にも通じる。白髪を「短く」刈り込んだ「大柄」な男という具合にことばが「複製」されたときは、そのあとにつづくことばは「バケツの水をぶちまけた」という具合に「複製」される。その場合「白髪」の「男」、「男」「大柄」、「大柄」「バケツ」「ぶちまける」という「複製」の関係ができあがる。
こういう「複製」は「常套句」という問題をはらむのだが--まあ、そのことは、わきにおいておく。(わきにおいたまま--というより、まあ、ここには戻ってはこないなあ、私は。)
その次の部分がおもしろい。
眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。
「眠り」が「目覚め」と「複製」される。
江夏の「複製」には、いくつか種類がある。まったく同じことばの「複製」として、「1」で見た「くちびるの声がくちびるを濡らし」がある。ついさっきみたのは「想定内」の「短く」「小柄」というような「類似」の「複製」である。こうしたものは「複製」と理解しやすいが、「眠り」と「目覚め」が「複製」であるというのは--変に見えるかもしれない。「矛盾」しているように見えるかもしれない。けれど、「複製」としかいいようがない。
「眠り」と「目覚め」は「矛盾」している、「対立している」ことばであるが、それは「矛盾」すること、「対立」することによって、「いま」を浮かび上がらせる。
眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。
という文において、「いま」という句は、あってもなくても「意味」はかわらない。
眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だから、わたしは目覚めているのだとわかる。
と、「いま」を省略してみるとわかる。「いま」はなくても、読者は(少なくとも、私には)、それが「わたし(えなつ)」にとって「いま」であることはわかる。「過去」や「未来」の時間ではないということがわかる。「いま」のことを書いているのは自明なのに「いま」と書かざるを得ない--そこに江夏の「思想」があり、その「思想」に「複製」が強く関係しているのだ。
「矛盾」をつなぐものが「いま」、「いま」が「いま」として強く認識されるのは、「矛盾」が「複製」としてあらわれるときなのである。
「2」に戻ってみる。「2」に次のことばがあった。
誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。
そこでは「誰かの捨てた風景」と「風景に見捨てられた、誰かの言葉」が「複製」であり、その「複製」は「裏返し-矛盾」であった。それが存在する時間は、そこには書かれていないが、やはり「いま」なのである。「いま」、「わたし(江夏)」は「かも知れない」という「述語」のなかで、その「矛盾」を統一している。
その「2」の部分が、「5」では、「眠り」「いま」「目覚め」という形で、「複製」されているのである。
「いま」という「時間」が、「矛盾」を統一する。
これを、別なことばで言いなおすと、「ここ」に「矛盾」が「現れる」。その「現れる」何かが、「ここ」という「場」に同時に存在するかぎりは、そこにその「矛盾」を統合する何かがあるはずで、その統合する力が「いま」なのだ。
世界に「ある」のは「いま/ここ」だけである。
江夏のことばを読んでいると、そう感じる。「矛盾」は存在しない。「矛盾」が存在するとしたら、それは「いま/ここ」を刻印するためにある。
それにつながることばが「6」にある。
記憶を甦らせることは過去ではない。
「記憶」は「過去」ではない。どんな「過去」も「記憶」として思い起こすとき、そこに「いま」がある。「いま」という一瞬に、「過去」が呼び出されるとき、「いま」と「過去」の「あいだ」がなくなる。
この「あいだ」がなくなる「場」が「ここ」であり、「いま」なのだ。
「5」に戻る。
眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。
「眠りのなかにある……しぐさ」とは「夢」のことである。「夢」を甦らせ、ことばにするとき、その夢は夢ではない。「いま」起きていることである。
「肉体」は、ことばがかってにつくりだして見せる「過去(夢)」と「いま」の「へだたり」(あいだの大きさ)を理解できない。把握できない。過去も夢も、すべて「いま」である。「過去」も「夢」も、ことばを動かしていく「意識」が、むりやりつくりあげる「幻」である。
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