詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江夏名枝『海は近い』(5)

2011-09-24 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(5)(思潮社、2011年08月31日発行)

 江夏名枝『海は近い』の感想は、もっと効率的(?)な書き方があるかもしれない。けれど、詩は、もともと「効率」とは無関係なものだから、効率的に書いてもしようがないかもしれない。
 でも、少しずつ、書き方を変えてみるか……。

 「5」の部分。

 白髪を短く刈り込んだ小柄な男がひしゃくで水を撒く。眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。

 「白髪を短く刈り込んだ小柄な男がひしゃくで水を撒く。」は簡潔な描写に見えるが、ここにも「複製」の問題が隠されている。
 白髪を「短く」刈り込んだ男は「小柄」と「複製」される。「大柄」だと「複製」ではなく、別なストーリーになってしまう。「想定外」になってしまう。それはそれでいいのだが、江夏は、こういう部分では「逸脱」しない。ことばの「軸」をぶらさない。ぶらさないことで、ことばの運動をなめらかにする。それは「小柄」「ひしゃく」という「複製」にも通じる。白髪を「短く」刈り込んだ「大柄」な男という具合にことばが「複製」されたときは、そのあとにつづくことばは「バケツの水をぶちまけた」という具合に「複製」される。その場合「白髪」の「男」、「男」「大柄」、「大柄」「バケツ」「ぶちまける」という「複製」の関係ができあがる。
 こういう「複製」は「常套句」という問題をはらむのだが--まあ、そのことは、わきにおいておく。(わきにおいたまま--というより、まあ、ここには戻ってはこないなあ、私は。)
 その次の部分がおもしろい。

眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。

 「眠り」が「目覚め」と「複製」される。
 江夏の「複製」には、いくつか種類がある。まったく同じことばの「複製」として、「1」で見た「くちびるの声がくちびるを濡らし」がある。ついさっきみたのは「想定内」の「短く」「小柄」というような「類似」の「複製」である。こうしたものは「複製」と理解しやすいが、「眠り」と「目覚め」が「複製」であるというのは--変に見えるかもしれない。「矛盾」しているように見えるかもしれない。けれど、「複製」としかいいようがない。
 「眠り」と「目覚め」は「矛盾」している、「対立している」ことばであるが、それは「矛盾」すること、「対立」することによって、「いま」を浮かび上がらせる。

眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。

 という文において、「いま」という句は、あってもなくても「意味」はかわらない。

眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だから、わたしは目覚めているのだとわかる。

と、「いま」を省略してみるとわかる。「いま」はなくても、読者は(少なくとも、私には)、それが「わたし(えなつ)」にとって「いま」であることはわかる。「過去」や「未来」の時間ではないということがわかる。「いま」のことを書いているのは自明なのに「いま」と書かざるを得ない--そこに江夏の「思想」があり、その「思想」に「複製」が強く関係しているのだ。
 「矛盾」をつなぐものが「いま」、「いま」が「いま」として強く認識されるのは、「矛盾」が「複製」としてあらわれるときなのである。

 「2」に戻ってみる。「2」に次のことばがあった。

誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。

 そこでは「誰かの捨てた風景」と「風景に見捨てられた、誰かの言葉」が「複製」であり、その「複製」は「裏返し-矛盾」であった。それが存在する時間は、そこには書かれていないが、やはり「いま」なのである。「いま」、「わたし(江夏)」は「かも知れない」という「述語」のなかで、その「矛盾」を統一している。
 その「2」の部分が、「5」では、「眠り」「いま」「目覚め」という形で、「複製」されているのである。
 「いま」という「時間」が、「矛盾」を統一する。
 これを、別なことばで言いなおすと、「ここ」に「矛盾」が「現れる」。その「現れる」何かが、「ここ」という「場」に同時に存在するかぎりは、そこにその「矛盾」を統合する何かがあるはずで、その統合する力が「いま」なのだ。

 世界に「ある」のは「いま/ここ」だけである。
 江夏のことばを読んでいると、そう感じる。「矛盾」は存在しない。「矛盾」が存在するとしたら、それは「いま/ここ」を刻印するためにある。

 それにつながることばが「6」にある。

 記憶を甦らせることは過去ではない。

 「記憶」は「過去」ではない。どんな「過去」も「記憶」として思い起こすとき、そこに「いま」がある。「いま」という一瞬に、「過去」が呼び出されるとき、「いま」と「過去」の「あいだ」がなくなる。
 この「あいだ」がなくなる「場」が「ここ」であり、「いま」なのだ。

 「5」に戻る。

眠りのなかにあるような規則的なしぐさ、だからいま、わたしは目覚めているのだとわかる。

 「眠りのなかにある……しぐさ」とは「夢」のことである。「夢」を甦らせ、ことばにするとき、その夢は夢ではない。「いま」起きていることである。
 「肉体」は、ことばがかってにつくりだして見せる「過去(夢)」と「いま」の「へだたり」(あいだの大きさ)を理解できない。把握できない。過去も夢も、すべて「いま」である。「過去」も「夢」も、ことばを動かしていく「意識」が、むりやりつくりあげる「幻」である。


海は近い
江夏 名枝
思潮社
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ジャック・ヘイリー・ジュニア監督「ザッツ・エンタテインメント」(★★★★★)

2011-09-24 17:06:10 | 午前十時の映画祭
監督 ジャック・ヘイリー・ジュニア 出演 フレッド・アステア、ジーン・ケリー、フランク・シナトラ

MGMの50周年記念に1974年に製作されたこの作品、私はリアルタイムで見ているけれど、そこに集められている作品はリアルタイムで見たことがない。で、つくづく思うのは、こうした作品群をリアルタイムで見ることができた人は幸せだなあ、ということ。
いつ見ても(というのは変か)、フレッド・アステアのダンスの優雅さに感心する。体の線がとても美しい。苦労して踊っているように見えない。歌舞伎役者の話で「役者が一番美しく見えるのは無理な姿勢をしているとき」というのがあるけれど、フレッド・アステアも無理していたのかなあ。
帽子かけを相手にダンスするシーンなど、まるで人間を相手に踊っているとしか見えない。――というより、帽子かけを人間にしてしまうのがフレッド・アステアのダンスなのだ。そしてそれは、共演者を名ダンサーにしてしまうということでもある。フレッド・アステアひとりが優雅なのではなく、踊る人をすべて優雅にしてしまう。それは、実は見る人をも優雅にするということなのかもしれない。
見終わった後、あ、こんな風にダンスをしてみたい、とダンスの経験のない私でさえ思ってしまうのだから、私も優雅に「なった」ということだろう。
ジーン・ケリーはちょっと違う。ダンスはダンスなのだろうけれど、なんといえばいいのか、こんな風に体で遊んでみたいとい感じ。「雨に唄えば」のバシャバシャが象徴的だけれど、ダンスじゃなくていいから、雨の中でバシャバシャやってみたい――そう思ってしまう。ジーン・ケリーは相手と踊るよりも、「空気」あるいは「状況」とダンスをする。「舞台」が踊るといえばいいのだろうか。
何度か紹介されるスタントなしの危ない場所でのダンスは、ジーン・ケリーが「舞台」(状況)そのものと踊っていることを証明している。ジーン・ケリーがひとりで踊っているのではなく、「舞台」もジーン・ケリーにあわせて踊るから危険はないのだ。
74年か75年に見た時はぼんやり見ていたがクラーク・ゲーブルまでミュージカルに出ている。歌っていたのか。印象的なのは、まあ、しかし、クラーク・ゲーブルはやっぱり「ウインク」だね。色っぽい。真似したいねえ、あのウインク。
大好きなシナトラの歌も聞けるし、もう1回見てもいいかなあ、いやもう2回、3回・・・。



苦情をひとつ。天神東宝4(福岡市)で見たのだが、本篇が始まってから、後のドアが細く開いていた。いつまでたっても閉まらないので、席を立って閉めに行ったら、なんと眼鏡をかけた係員(だと思う、青い制服が見えたから)が、スクリーンを除いている。そのためロビーの光が入ってくるのだ。
「光が入るから閉めてください」と内側からドアを引いて閉めた。
映画が終了後、ロビーにいた係員に苦情を言ったら「本篇がほんとうに始まったかどうか確認している」という。そんなばかな。今までも何度も天神東宝で映画を見ているが、上映開始後に係員がドアを開けて上映を確認しているために、光が入ってきて困ったという記憶はない。確認するにしても、きちんと劇場内に入り、ドアをしめて確認すべきだろう。いつまでもドアを開けている必要はない。
とても不愉快だった。





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タケイ・リエ「湿潤」

2011-09-24 09:13:04 | 詩(雑誌・同人誌)
タケイ・リエ「湿潤」(「Aa」4、2011年09月発行)

 タケイ・リエ「湿潤」は何を書いているのかよくわからないのだが、ふいに、ことばに引き込まれてしまう瞬間がある。

ひとが眠っているあいだしろい波はいつまでも砕けた
波音にからだをひたし揺らした水面に顔がうつりこんで
いくつものいくつもの顔が溜まってあかるく
月に照らされて窓からでてゆくための足を探す

 「ひとが眠っているあいだ」と書き出されているから、これは夢を描いているのかもしれない。実際、夢でみる世界のように、視点が形を失くすように流動していく。そのために1行1行はわかったような気持ちにはなるけれど、何がわかったのか、よくわからない。
 それでも、まず「からだ」の全体と「波音」がとけあっているのがわかる。そして、そこからまず視点が「顔」に動いていくこともわかる。次に視点は「足」へと動いていくのだが、「主語」が「からだ」→「顔」→「足」と動いたとき、

窓からでてゆくための足を探す

 ふいに、何かがねじれる。「足をさがす」? 足は探さないとないものなのか。そんなことはない。「からだ」の一部として、確実に存在している。ある。それでも、それを探すのは、実は「足」を探すというよりも「出ていく」ということといっしょにある「足」のあり方を探しているのだ。
 「出ていく」ためには「足」が必要なのだ。
 「砕ける」海。その「波音」を聞きながら、タケイ(と仮に呼んでおく)は眠っている。眠りのなかで、タケイはまるで浴槽にいるかのように「波音」という「水」にからだをひたしている。そして、その「水」に「顔」が映っているのを見る。その「顔」は、もうすでに溜まりすぎている。
 だから。
 たぶん、だから、その溜まり過ぎた「顔」から出ていくことが必要になってくる。
 出ていくためには「足」が必要だ。そして、出入り口として「窓」が必要だ。なぜドアではないかというと、ドアは出たり入ったりするものだから、出ていったとしても戻って来なくてはならない。それでは「出ていく」意味がない。出て行って、二度と戻って来ないために、出入り口ではない「場」を利用しなければならない。
 それが、窓。
 わざと「窓」を選んで出ていくのである。

暗やみをのぞきこんだあとは手を枝にした
波むこうに暮らしているひとのカーディガンは熟れて
袖が油のように膨らんで生白い腕を通している
電車に乗りこむとき少しずつ焼けてゆく

 これは2連目である。
 ふいに「足」から「手」へ肉体が移行する。
 そうすると、そこに、まったく別のひとがあらわれてくる。「波むこうに暮らしているひと」。
 それはタケイが夢見た誰かなのか、それとも1連目がその誰かが見たタケイの夢なのか--突然、わからなくなる。
 「主語」が交代して、そのことによって「肉体」もかわってしまう。

手を枝にした

 これは「手が枝のようになった」ということだろうか。だが、それは自然に「なる」のではない。「する(した)」。企んで、そうしたのである。
 「窓から出ていくための足」を探したあと、タケイは「手を枝にする」。
 この「肉体」に対する負荷というか、かかわり方が、とてもおもしろい。「肉体」でありながら「肉体」ではない。そして、「肉体」でないことによって、いっそう「肉体」の感じが強くなる。
 こんな譬えが通用するのかどうかわからないが(つまり、タケイを含めほかのひとにわかってもらえるかどうかわからないが)、私は、そこに書かれている「肉体」を、不思議な共感で見つめてしまった。ちょうど、道にうずくまって、うめいている肉体を見たとき、あ、この人は腹が痛くて苦しんでいると感じてしまうように、「足を探す」「手を枝にする」に反応してしまったのである。

 自分から「出ていく」、そして、そのくせ「手を枝にし」て動かない。--これでは「矛盾」なのだが、その矛盾が、肉体を逆に目覚めさせる。
 その目覚めた肉体は、もう「タケイの肉体」ではない。「波のむこうに暮らしている」ひとの「肉体」に共感し、ふいに、また主語が変わるのだ。
 路上にうずくまっている人を見た瞬間、「私」が「私」であることを忘れ、まったくの他人の「肉体」が「私」のなかに生まれるように、その「肉体」に共感するように。
 「手を枝にした」はずなのに、「カーディガンが熟れて」いるのを「手」を通して感じてしまう。その「手」はそのとき「枝」ではなく、「生白い腕」になっている。「枝」としての「手」ではなく、「生白い腕」に生まれ変わって、「カーディガンが熟れて」いると感じてしまう。
 私の書いていることは「時間」の流れを無視しているかもしれない。
 だが、時間などというものは、「肉体」にとっては、「流れ」など存在しない。「肉体」が感じる「時間」は流れない。過去も未来もない。「いま」だけがあり、その「いま」のなかに過去も未来も瞬間的にあらわれるだけである。

 あ、タケイの詩から、離れすぎてしまったかもしれない。タケイのことばを無視して、私は私の考えていることを勝手に書いているのかもしれない。
 でも、そうでもないかもしれない。

舌を忘れた顔で耳をたてていた

こしからあしのつまさきまでとても長かった
わたしの窪みが飼われる時間 いまだに慣れない

 この、「肉体」の変な(?)表現、そしてそこに「時間」ということばが出てくること--これをていねいに語りなおせば、私は勝手なことを書いているのではないということを「証明」できるかもしれない。でも、きっと、それは強引な「誤読」になってしまうなあ。
 もったタケイのほかの作品を読んでから、あらためて考えみたい。
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