北川透「》……《以後的体験 補註六片」(「耳空」6、2011年08月25日発行)
北川透「》……《以後的体験 補註六片」はタイトルを読んだだけでは何のことを書いているのかわからない。「六片」のうちの最初の「補註1」というのを読んでもわからなさにはかわりがない。
北川の書いた詩集の「註釈」と読むべきなのかもしれないが、註釈だけ提出されてもねえ。読者は北川の詩集を取り出してきて、これはどこそこの補注に違いない--と思いながら読むことを期待しているのだろうか。
申し訳ないが、私は、そういうことはしない。ただ、ここに書かれていることばをそのまま読むだけである。北川が「補註」として書いたものであっても、その「対象」がそこに書かれていないなら、「補註」であることを無視して、ただ読んでしまう。
そうすると、そこに書いてあることがさっぱりわからない。
のだけれど。
では、それがおもしろくないかと言えば、そうではない。1行目は、何気なく読んでしまう。ガリヴァーは漂着したとき、どうしたんだっけ? 私は「ガリヴァー旅行記」を思い出そうとするが、漂着したときのことは思い出せない。
で、その次。2行目。
私は、ここでこの詩が好きになる。海岸にガリヴァーが漂着したように、アルミ缶も漂着している。これは、まあ、現代の風景である。そういう風景は私も見たことがある。見たことがあるが、「鳴いているアルミ缶の声」は聞いたことがない。
アルミ缶が鳴くのか--と言われれば、鳴かないかもしれない。けれども、ことばは、その鳴かないアルミ缶が鳴くと言ってしまうことができる。さらに、その声を聞いたかどうかを問うこともできる。
そのことばの「力わざ」にぐいとひっぱられてしまう。そして、私はガリヴァーになってしまう。
私は何も見てこなかったし、聞いてもこなかった、何も感じてこなかったと気づくのである。
で、その「何も」、ということを北川の「ことば」に則して箇条書きのように抜き出してみようとすると、とても変なことに気がつくのである。
「見ていない」「聞いていない」までは、「何も見ていない」「アルミ缶の鳴き声を聞いていない」と簡単に(?)書けるのだが、それ以後がうまくいかない。
何を感じない?
干からびた金魚が身籠もっていることを感じない? いや、違うようだ。「身籠っているのに感じない」--というのは、身籠もっているのに「何か」を感じない? もしかすると「目的語」というか、「補語」というか、「何か」が省略されている? 不快感を感じない? それとも快感を感じない? セックスの興奮を感じない?
よくわからないまま、北川の「感じない」ということばまで一気に読んでしまう。
次は、もっと変である。
ガリヴァーは、「舐められている」。「懸命に告白している雨雲の舌に」? その雨雲は何を告白している?
ということよりも、「見ていない」「聞いていない」「感じない」と「舐められている」は、どうも違う。「見ていない」「聞いていない」「感じない」は「自動詞」である。「主語(ガリヴァー)」が「見ていない」「聞いていない」「感じない」。「舐められている」も「ガリヴァーが」なのだけれど、このときガリヴァーは受け身だねえ。
どうも「文法」が狂っている。
はずなのだけれど、そうとも言い切れない。
「見ている」「聞いている」「感じる」も、もしかすると「受け身」かもしれない。
あるいは「舐められている」も「受け身」ではなく、「能動」かもしれない。
「能動」「受け身」というのは、実際に人間の肉体が動くときには、関係ないことなのかもしれない。「文法用語」がかってに区別するだけであって、「肉体」には「いま」があるだけで、その「いま」のなかには、いろいろなものが混じり合っている。
「見ていない」「聞いていない」「感じない」は別々の「肉体」に起きたことではなく、ひとつの「肉体」に起きたことである。そして、その起きたことというのは、北川のことばの順序にしたがえば「見ていない」「聞いていない」「感じない」だけれど、ほんとうに、そう? 違うねえ。
それは「同時」に起きている。
「舐められている」も、その後の「反応して」も、「覚えない」も、「気づいちゃいない」も、すべて「同時」である。「同時」であるということは、それはみんな同じであるということだ。
「動詞」は入れ替わってもいいのだ。
もちろん、目的語というか、補語というか、そういうことばも入れ替わってもいい。当然、「主語」だって入れ替わってもいい。
というか、北川は、「文法」がかってに名前をつけているあらゆることを「入れかえる」。自在に、攪拌し、融合させ、動かしつづける。
そのとき、何が起きるか。
世界が、ずれる。世界が、拡大する。
「補註」そのものも、ある「世界」に何かを付け足すことで「世界」を拡大することだが、それは実は世界の外から世界への接近ではなく、世界の内部からの「逸脱」なのだ。「補註」を「内部からの逸脱」として考えるとき、この作品の、「力わざ」の「力」のようなものが見えてくる。
「動詞」が入れ替わるとき、肉体の内部で、「定義づけられていた感覚の運動」が入り乱れる。他の感覚を刺激し、見ると聞くが混同される。「鳴いているアルミ缶の声を見ていない」といっても間違いではなくなる。
「学校教科書の文法」ではまちがいだけれど、「肉体」の生き方としては、ぜんぜ、間違っていない。
あ、でも、北川は、北川のことばは、どうしてこんなふうに動くことができるのか。
「文体」が強靱なのだ。いくつもの「文体」を生きてきた「肉体」が、ことばそのものをのっとり、ことばが「肉体」になっているのだ。(ことばの「肉体」を「文体」というのだ--と書いてしまえば、同義反復になってしまうのだが……。)
「見る」「聞く」「感じる」、それから「舐められる」までも、同じひとつの「肉体」として引き受ける。そうすることで「肉体」そのものの内部を鍛える。いつでも、どんな動詞にでもなれる「肉体」を作り上げる--作り上げてきた、その蓄積が北川のことばのなかにあるのだ。
こんなことは、北川の今回の作品への「感想」にはなっていないし、「批評」にももちろんなっていないのだが--まあ、いいのだ。(あ、無責任な言い方で、ごめんなさい。北川さん。)そこに叩いても壊れない強靱な「文体」がある、と感じれば、それでいいのだ、と私は思っている。
北川自身も「内容(意味)」が問題なのではなく、「文体」こそが「思想」と考えているようである。(私は「思想」を「肉体」と呼ぶのだが……。)
で、北川が「文体」こそが「思想」であると考えていることの証拠というか、「補註」を最後に引用しておく。同じ「耳空」の「風子解体あるいは懐胎(6)」という文章で、北川は坂口安吾について触れながら、次のように書いている。
北川透「》……《以後的体験 補註六片」はタイトルを読んだだけでは何のことを書いているのかわからない。「六片」のうちの最初の「補註1」というのを読んでもわからなさにはかわりがない。
ガリヴァーは岸辺に辿り着いたのに何も見ていない
ガリヴァーは渚で鳴いているアルミ缶の声を聞いていない
ガリヴァーは干からびた金魚が盛んに身籠っているのに感じない
ガリヴァーは懸命に告白している雨雲の舌に舐められている
ガリヴァーは紺碧の水平線に刃向かう凶器の震えを知らない
ガリヴァーは彼の網膜の視神経繊維が 無数の漁火に反応して 切
れたり 乱れたりしているのに痛みを覚えない ガリヴァーは凡庸
な機器たちが勝手に複製した光景に 奥行きや襞々を与え 無数の
意味のカバーを掛けているのに気づいちゃいない
ガリヴァーは拡声器のコードが外れているのを知らない
北川の書いた詩集の「註釈」と読むべきなのかもしれないが、註釈だけ提出されてもねえ。読者は北川の詩集を取り出してきて、これはどこそこの補注に違いない--と思いながら読むことを期待しているのだろうか。
申し訳ないが、私は、そういうことはしない。ただ、ここに書かれていることばをそのまま読むだけである。北川が「補註」として書いたものであっても、その「対象」がそこに書かれていないなら、「補註」であることを無視して、ただ読んでしまう。
そうすると、そこに書いてあることがさっぱりわからない。
のだけれど。
では、それがおもしろくないかと言えば、そうではない。1行目は、何気なく読んでしまう。ガリヴァーは漂着したとき、どうしたんだっけ? 私は「ガリヴァー旅行記」を思い出そうとするが、漂着したときのことは思い出せない。
で、その次。2行目。
ガリヴァーは渚で鳴いているアルミ缶の声を聞いていない
私は、ここでこの詩が好きになる。海岸にガリヴァーが漂着したように、アルミ缶も漂着している。これは、まあ、現代の風景である。そういう風景は私も見たことがある。見たことがあるが、「鳴いているアルミ缶の声」は聞いたことがない。
アルミ缶が鳴くのか--と言われれば、鳴かないかもしれない。けれども、ことばは、その鳴かないアルミ缶が鳴くと言ってしまうことができる。さらに、その声を聞いたかどうかを問うこともできる。
そのことばの「力わざ」にぐいとひっぱられてしまう。そして、私はガリヴァーになってしまう。
私は何も見てこなかったし、聞いてもこなかった、何も感じてこなかったと気づくのである。
で、その「何も」、ということを北川の「ことば」に則して箇条書きのように抜き出してみようとすると、とても変なことに気がつくのである。
「見ていない」「聞いていない」までは、「何も見ていない」「アルミ缶の鳴き声を聞いていない」と簡単に(?)書けるのだが、それ以後がうまくいかない。
何を感じない?
干からびた金魚が身籠もっていることを感じない? いや、違うようだ。「身籠っているのに感じない」--というのは、身籠もっているのに「何か」を感じない? もしかすると「目的語」というか、「補語」というか、「何か」が省略されている? 不快感を感じない? それとも快感を感じない? セックスの興奮を感じない?
よくわからないまま、北川の「感じない」ということばまで一気に読んでしまう。
次は、もっと変である。
ガリヴァーは懸命に告白している雨雲の舌に舐められている
ガリヴァーは、「舐められている」。「懸命に告白している雨雲の舌に」? その雨雲は何を告白している?
ということよりも、「見ていない」「聞いていない」「感じない」と「舐められている」は、どうも違う。「見ていない」「聞いていない」「感じない」は「自動詞」である。「主語(ガリヴァー)」が「見ていない」「聞いていない」「感じない」。「舐められている」も「ガリヴァーが」なのだけれど、このときガリヴァーは受け身だねえ。
どうも「文法」が狂っている。
はずなのだけれど、そうとも言い切れない。
「見ている」「聞いている」「感じる」も、もしかすると「受け身」かもしれない。
あるいは「舐められている」も「受け身」ではなく、「能動」かもしれない。
「能動」「受け身」というのは、実際に人間の肉体が動くときには、関係ないことなのかもしれない。「文法用語」がかってに区別するだけであって、「肉体」には「いま」があるだけで、その「いま」のなかには、いろいろなものが混じり合っている。
「見ていない」「聞いていない」「感じない」は別々の「肉体」に起きたことではなく、ひとつの「肉体」に起きたことである。そして、その起きたことというのは、北川のことばの順序にしたがえば「見ていない」「聞いていない」「感じない」だけれど、ほんとうに、そう? 違うねえ。
それは「同時」に起きている。
「舐められている」も、その後の「反応して」も、「覚えない」も、「気づいちゃいない」も、すべて「同時」である。「同時」であるということは、それはみんな同じであるということだ。
「動詞」は入れ替わってもいいのだ。
もちろん、目的語というか、補語というか、そういうことばも入れ替わってもいい。当然、「主語」だって入れ替わってもいい。
というか、北川は、「文法」がかってに名前をつけているあらゆることを「入れかえる」。自在に、攪拌し、融合させ、動かしつづける。
そのとき、何が起きるか。
世界が、ずれる。世界が、拡大する。
「補註」そのものも、ある「世界」に何かを付け足すことで「世界」を拡大することだが、それは実は世界の外から世界への接近ではなく、世界の内部からの「逸脱」なのだ。「補註」を「内部からの逸脱」として考えるとき、この作品の、「力わざ」の「力」のようなものが見えてくる。
「動詞」が入れ替わるとき、肉体の内部で、「定義づけられていた感覚の運動」が入り乱れる。他の感覚を刺激し、見ると聞くが混同される。「鳴いているアルミ缶の声を見ていない」といっても間違いではなくなる。
「学校教科書の文法」ではまちがいだけれど、「肉体」の生き方としては、ぜんぜ、間違っていない。
あ、でも、北川は、北川のことばは、どうしてこんなふうに動くことができるのか。
「文体」が強靱なのだ。いくつもの「文体」を生きてきた「肉体」が、ことばそのものをのっとり、ことばが「肉体」になっているのだ。(ことばの「肉体」を「文体」というのだ--と書いてしまえば、同義反復になってしまうのだが……。)
「見る」「聞く」「感じる」、それから「舐められる」までも、同じひとつの「肉体」として引き受ける。そうすることで「肉体」そのものの内部を鍛える。いつでも、どんな動詞にでもなれる「肉体」を作り上げる--作り上げてきた、その蓄積が北川のことばのなかにあるのだ。
こんなことは、北川の今回の作品への「感想」にはなっていないし、「批評」にももちろんなっていないのだが--まあ、いいのだ。(あ、無責任な言い方で、ごめんなさい。北川さん。)そこに叩いても壊れない強靱な「文体」がある、と感じれば、それでいいのだ、と私は思っている。
北川自身も「内容(意味)」が問題なのではなく、「文体」こそが「思想」と考えているようである。(私は「思想」を「肉体」と呼ぶのだが……。)
で、北川が「文体」こそが「思想」であると考えていることの証拠というか、「補註」を最後に引用しておく。同じ「耳空」の「風子解体あるいは懐胎(6)」という文章で、北川は坂口安吾について触れながら、次のように書いている。
文学にとって、哲学などは身勝手に(あるいは反論理的に)利用すればいいだけの、親しい隣人に過ぎません。文学は論理ではない。徹底的に語り方、つまり、文体の問題です。文体とは、縮めて言えば、思想としてのレトリックのことでしょう。
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