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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒岩隆『あかときまで』

2011-09-05 23:59:59 | 詩集
黒岩隆『あかときまで』(書肆山田、2011年08月30日発行)

 黒岩隆の『あかときまで』には余分なことばがない。ぎりぎりの、最小限のことばが、とても静かに、ただ、そこにある。どう読めばいいのかわからない。まるで読まれるのを拒絶しているような静かさである。
 「十五夜」の書き出し。

ガタッ と障子を開け
出て行ったのは
誰れ
この部屋に
ずっと閉じ込めていたのだろうか
遠くで
木戸の開く音がして
それっきり

その夜
まんまるの月が
木戸を潜り
縁側を渡り
空っぽの部屋に
背を屈めて入ってきた

 ここに書かれている「主語」がわからない。そのために、よけい「ことば」だけがここにあるという感じを与える。
 誰かが「この部屋」を出て行って、「月」になって帰ってくる。部屋の中に入ってくる透明な光を、黒岩はそんなふうに見ているのだろう。
 「背を屈めて」という描写は「月」ではなく、人間を思わせる。そのために「誰か」が出て行って、「月の光」になって帰って来たという印象になるのだが、この「背を屈めて」ということばは、しかし、「月」を見えなくさせる。透明な美しい誰かそのものの姿勢になって、そこにある。
 その誰かがまぼろしなのか、月の光がまぼろしなのか。区別がつかない。
 気になるのは「ずっと閉じ込めていたのだろうか」ということばの「主語」と「補語」である。「誰」が「誰」を閉じ込めていたのか。あるいは「誰」が「何」を閉じ込めていたのか。
 「私(黒岩)」が「誰」かを閉じ込めていたのか。
 違うだろう。
 もし、そうであるなら、「誰れ」ということばが指し示すものはわかっている。わからないから「誰れ」というのだ。
 「この部屋」には「誰か」がいた。そして、そこには「誰か」だけではなく、もうひとり、「誰か」がいたのである。「月」に通じる「誰か」、「月」という「比喩」としての「誰か」。
 「この部屋」の「主」を黒岩は知っている。しかし、その「主」が閉じ込めていた(隠していた)「誰か」を知らない。「この部屋」の「主」がどこかへ行ってしまったあと、その「主」が隠していた「誰か」が「月(月の光)」となって、「この部屋」へ入ってくる。その透明さ。そして、その透明さには、何か「部屋」へはいるとき「背を屈める」ような控えめな静けさがある。そういう「控えめな静けさとしての透明さ」--それに出会い、それこそが「主」である「誰か」の「本質」だと黒岩は気づいたのである。
 その瞬間、知っているはずの「主(誰か)」は、ほんとうに「誰か」になってしまう。それは哀しいことであるけれど、不思議な「初恋」のような感じもする。「誰か(知らないひと)」なのに、出会った瞬間、「そのひと」とわかる感じ……。
 
 その「初恋」の感じ、純粋な感じが、拒絶を感じさせるのかもしれない。
 ここに書かれていることばの、その世界へ入っていけるのは、そこに隠される形でかかれている「誰か」だけなのである。

 「水仙忌」という詩がある。そこに、

ここにいます
ここにいます

 という透明な「声」が書かれている。
 「水仙忌」の「忌」ということばを手がかりに考えれば、「水仙」にたとえられる「誰か」は亡くなってもういないということだろう。その「いま/ここ」にいない「誰が(知っている誰か)」が、「ここにいます/ここにいます」と語りかけてくる。それは「声」だけである。「声」だけだけれど、いや「声」だけだからこそ、より強く「肉体」を感じさせるのかもしれない。
 この「誰か」と「十五夜」の「誰か」は同じひとなのだろう。
 そのひと自身は、もちろん、いない。けれど、そのひとが隠していた「誰か」は、「月」になり、「水仙」になり、いつも、黒岩と一緒にいる。そして「ここにいます/ここにいます」と黒岩にだけ聴こえる「声」で語りかける。その「声」が聴こえた--そう「誰か」に告げるために黒岩は詩を書いている。
 そんなふうに読める。そんなふうに感じてしまう。
 「ここにいます/ここにいます」という「声」が聴こえた--そう告げる黒岩のことばは、その「誰か」にだけ聴こえればいい。だから、よぶんなことはいわない。「月(の光)」や「水仙」の透明さを傷つけない「いちばん小さい声」で黒岩は語るのだ。その切り詰めた響きが、黒岩のことばを貫いている。

 黒岩の詩のことばの静かな響き、透明な結晶としてのことば--その「秘密」を「精霊の朝」の最後で、黒岩は静かに語っている。

そこにあなたがいた

それは
いつも私の詩の
最初の一行 

 黒岩は、「あなた」にしか語りかけていないのだ。
 私はたまたま黒岩の詩集を読んでいるけれど、黒岩のことばは「あなた」だけに向けられている。
 だから、どこか読んでいて、拒絶されているような感じがする。
 「あなた」と黒岩のあいだで「完結した世界」のためのことばという感じがする。
 黒岩は、この「完結した世界」を詩にするために--つまり、読者に届けるために、あえて「そこにあなたがいた」ということばを省略しつづけたのである。
 黒岩は「最初の一行」と書いているが、「最初の一行」というよりも、あらゆる「行間」に存在する一行が「そこにあなたがいた」なのである。
 「十五夜」にもどってみる。

「そこにあなたがいた」
ガタッ と障子を開け
出て行ったのは
誰れ
この部屋に
ずっと閉じ込めていたのだろうか
遠くで
木戸の開く音がして
それっきり

 このとき、出て行ったのが「あなた」が閉じ込めていた「誰か」であることがはっきりする。黒岩は「あなた」を知っている。けれど、その「あなた」が閉じ込めていた「ひと(何か)」が「誰」であるか、知らない。
 「そこにはあなたがいた」(過去形に、注目)。そして、その「あなた」が出て行ったとき、「あなた」だけではなく、「あなた」が閉じ込めていた「誰か(何か)」も出て行った。それは黒岩の知らない存在だが、いなくなることによって、「いた」ことを知ったのだ。

その夜
まんまるの月が
木戸を潜り
縁側を渡り
空っぽの部屋に
背を屈めて入ってきた
「そこにあなたがいた」

 月の光が入ってきたとき「あなた」が「背を屈めて入ってきた」ように感じたが、それは「あなた」ではなく、「あなた」が閉じ込めていた「もうひとりのあなた」である。
 その「もうひとりのあなた」と出会うことで、黒岩は、もういちど「愛」を繰り返す--その静かな美しい「行為」がある。「肉体」がある。

 「あかときまで」という詩にも、「そこにあなたがいた」を補って読むことができる。

「そこにあなたはいた」
浜辺で
水鳥のように
浴衣の裾を翻し
大きく吸って
大きく吐いて
息と一緒に
海が 肺まで入ってきて
足もとから見えなくなってゆく

生きているのにいなののだから
いないのに生きているのだから
そのあわいに水脈をひいて
静謐な舟が渡ってゆく
「そこにあなたがいた」
あの舟に乗れば
もう 失くさなくていいのね

 「そこにあなたかいた」を補って読むと、黒岩のこの詩集はまるで「智恵子抄」のように胸に迫ってくる。その世界へ入っていくこと、その世界に対して感想を書くことは、何か純粋な世界を汚してしまうような感じがする。黒岩のことばの前で、私は一種の「畏れ」を感じる。そのために、拒絶されていると感じるのかもしれない。けれど、この拒絶の感じは、なんといえばいいのだろう、「排除」ではない。「排除」されているとは感じない。近づきがたい感じ、あまりにも美しすぎて……「こわい」感じがするのだ。
 「絶唱」には、だれも「声」をあわせることができない。その「声」を追って、歌うことはできない。ただ、聴くことしかできない。

 なのに、私は余分なことを書きすぎた。




海の領分
黒岩 隆
書肆山田
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誰も書かなかった西脇順三郎(228 )

2011-09-05 12:42:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。

鉄砲うちがヤマドリを売りに来た
店先きには褐色のウサギや
眼から血を出したイノシシが
ぶらさがつている南天もニンニャクと
いつしよにたらいの中にかすんでいる
来年は幸いイノシシの年だから
ヒエイ山のふもとに住むサクライの
タダヒトにタノンデイノシシの
ひもろぎを送つてもらうか
トラ年でもトラの肉はたべられない
自転車のブレーキのにおいがする
ベドウズの自殺論を読んだのか
投身した男の橋を渡つてミヤマス坂を
いそいでのぼつてみる--
あの古本屋のを精細にのぞいてみた
結局買つたのは中学生の使つた百人一首の
註釈本とバークレイの「視覚の新原理その他」と
「スカンポと息子」という日本語の表題が
ついている英国の本

 いろいろなものが同居している。「ヤマドリ」「ウサギ」「イノシシ」は、山の風景を思い起こさせる。「褐色」「眼から血を出した」という荒々しい感じが風景をさっぱりした感じにさせる。「血を流した」だと、たぶん、「さっぱり」とは感じない。「眼から……流した」が涙を思い起こさせるからだ。「流した」ということばの抱え込んでいる「文体」が「涙」を呼び出してしまう。何気なく書かれているようだが、西脇は、そういうセンチメンタルな「文体」を破壊し、ことばを動かしている。センチメンタルな「文体」を破壊しているところから清潔さが生まれ、また新鮮な音楽が生まれる。センチメンタルが拒絶された「場」だから、南天、コンニャクとイノシシ、ウサギ、ヤマドリが同居できるのだ。この同居を西脇は「いつしよ」という簡単なことばであらわしている。この素朴さが美しい。
 この「いつしよ」に「ヒエイ」や「サクライのタダヒト」という固有名詞もひきこまれていく。人間も動物も植物も区別がなくなる。そういう世界ができあがる。
 で、そういう世界には、それでは何がある?
 音がある、ことばが音としてただそこにある--というのが私の感じなのだが、そのことばがただ音としてある状態が詩なのだ、と言ったとき、誰かの共感を得られるかどうか私にはわからないが、こういう瞬間に、私は詩をたしかに感じるのである。
 西脇のように、ことばが「意味」によごれていない状態でことばをつかってみたいと思うのである。

 途中「トラ年でもトラの肉はたべられない」という冗談(だじゃれ?)のようなことばがあって、その次、

自転車のブレーキのにおいがする

 うーん、びっくりする。はっとする。
 自転車のブレーキのにおい、自転車にブレーキをかけたときゴムと鉄(金属)がこすれあって、焦げるような瞬間的なにおいがある--というのはたしかだが、そんなことを私は忘れていた。忘れていたことが、何の脈絡もなく(あるのかな?)、突然、ことばとなってあらわれる。そのことに驚く。
 それだけではない。
 前の行の「たべられない」ということばのなかの「たべる」という動詞と「におい」が刺激し合うのだ。
 「たべる」ということばがあるために、ヤマドリにはじまりウサギ、イノシシ、コンニャクと食べ物が刺激する肉体の「感覚」に「におい」が飛び込んでくる。ブレーキは食べられるものではないが、そうか、食べるときは「におい」を食べることでもあるのだと急に思い出すのである。もしかすると、イノシシにはブレーキの匂いがするかもしれない。あるいはトラにブレーキの匂いがするのかもしれない。--そんなことはないかもしれないが、「におい」ということばが、それまで眠っていた「感覚」を一気にたたき起こす。そのとき「食べる」という肉体の動きが同時に新しく目覚める。
 「たべる-においがする」が、肉体そのものを、肉体の中から新しく甦らせる感じがする。
 「自転車のブレーキのにおいがする」という1行は、なぜ、ここにあるのかわからないが、わからないけれど、その1行に目が覚めるのである。

 「自転車のブレーキのにおいがする」という1行は「無意味」かもしれない。けれど、その「無意味」がいいのだ。「無意味」に出会ったとき、「肉体」が目覚める。たよるものは「肉体」しかない。その、驚き。

 「結局買つたのは中学生の使つた百人一首の/註釈本」ということばにも驚く。なんとも美しい。「自転車のブレーキ」のように、素朴な「肉体」を感じる。人間の「肉体」のなかにある素朴なものが刺激される感じがする。「肉体」のなかの「時間」を思い出すのである。
 西脇にとって中学生の使った註釈本など、意味がないだろう。そんなものを読む必要はないだろう。必要はない、ということろに、大切なものがある。「百人一首の/註釈本」ではなく「中学生の使つた」ということばのなかにある音楽と時間がおもしろいのである。
 「スカンポと息子」というタイトルの本がほんとうにあるかどうかわからないが、このことばもいいなあ。「スカンポ」という音がいい。野生の美しさがある。野生の「さびしさ」がある。

 振り返れば(?)、自転車のブレーキのにおいも、野生のさびしさだなあ。説明はできないのだが……。


Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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