黒岩隆『あかときまで』(書肆山田、2011年08月30日発行)
黒岩隆の『あかときまで』には余分なことばがない。ぎりぎりの、最小限のことばが、とても静かに、ただ、そこにある。どう読めばいいのかわからない。まるで読まれるのを拒絶しているような静かさである。
「十五夜」の書き出し。
ここに書かれている「主語」がわからない。そのために、よけい「ことば」だけがここにあるという感じを与える。
誰かが「この部屋」を出て行って、「月」になって帰ってくる。部屋の中に入ってくる透明な光を、黒岩はそんなふうに見ているのだろう。
「背を屈めて」という描写は「月」ではなく、人間を思わせる。そのために「誰か」が出て行って、「月の光」になって帰って来たという印象になるのだが、この「背を屈めて」ということばは、しかし、「月」を見えなくさせる。透明な美しい誰かそのものの姿勢になって、そこにある。
その誰かがまぼろしなのか、月の光がまぼろしなのか。区別がつかない。
気になるのは「ずっと閉じ込めていたのだろうか」ということばの「主語」と「補語」である。「誰」が「誰」を閉じ込めていたのか。あるいは「誰」が「何」を閉じ込めていたのか。
「私(黒岩)」が「誰」かを閉じ込めていたのか。
違うだろう。
もし、そうであるなら、「誰れ」ということばが指し示すものはわかっている。わからないから「誰れ」というのだ。
「この部屋」には「誰か」がいた。そして、そこには「誰か」だけではなく、もうひとり、「誰か」がいたのである。「月」に通じる「誰か」、「月」という「比喩」としての「誰か」。
「この部屋」の「主」を黒岩は知っている。しかし、その「主」が閉じ込めていた(隠していた)「誰か」を知らない。「この部屋」の「主」がどこかへ行ってしまったあと、その「主」が隠していた「誰か」が「月(月の光)」となって、「この部屋」へ入ってくる。その透明さ。そして、その透明さには、何か「部屋」へはいるとき「背を屈める」ような控えめな静けさがある。そういう「控えめな静けさとしての透明さ」--それに出会い、それこそが「主」である「誰か」の「本質」だと黒岩は気づいたのである。
その瞬間、知っているはずの「主(誰か)」は、ほんとうに「誰か」になってしまう。それは哀しいことであるけれど、不思議な「初恋」のような感じもする。「誰か(知らないひと)」なのに、出会った瞬間、「そのひと」とわかる感じ……。
その「初恋」の感じ、純粋な感じが、拒絶を感じさせるのかもしれない。
ここに書かれていることばの、その世界へ入っていけるのは、そこに隠される形でかかれている「誰か」だけなのである。
「水仙忌」という詩がある。そこに、
という透明な「声」が書かれている。
「水仙忌」の「忌」ということばを手がかりに考えれば、「水仙」にたとえられる「誰か」は亡くなってもういないということだろう。その「いま/ここ」にいない「誰が(知っている誰か)」が、「ここにいます/ここにいます」と語りかけてくる。それは「声」だけである。「声」だけだけれど、いや「声」だけだからこそ、より強く「肉体」を感じさせるのかもしれない。
この「誰か」と「十五夜」の「誰か」は同じひとなのだろう。
そのひと自身は、もちろん、いない。けれど、そのひとが隠していた「誰か」は、「月」になり、「水仙」になり、いつも、黒岩と一緒にいる。そして「ここにいます/ここにいます」と黒岩にだけ聴こえる「声」で語りかける。その「声」が聴こえた--そう「誰か」に告げるために黒岩は詩を書いている。
そんなふうに読める。そんなふうに感じてしまう。
「ここにいます/ここにいます」という「声」が聴こえた--そう告げる黒岩のことばは、その「誰か」にだけ聴こえればいい。だから、よぶんなことはいわない。「月(の光)」や「水仙」の透明さを傷つけない「いちばん小さい声」で黒岩は語るのだ。その切り詰めた響きが、黒岩のことばを貫いている。
黒岩の詩のことばの静かな響き、透明な結晶としてのことば--その「秘密」を「精霊の朝」の最後で、黒岩は静かに語っている。
黒岩は、「あなた」にしか語りかけていないのだ。
私はたまたま黒岩の詩集を読んでいるけれど、黒岩のことばは「あなた」だけに向けられている。
だから、どこか読んでいて、拒絶されているような感じがする。
「あなた」と黒岩のあいだで「完結した世界」のためのことばという感じがする。
黒岩は、この「完結した世界」を詩にするために--つまり、読者に届けるために、あえて「そこにあなたがいた」ということばを省略しつづけたのである。
黒岩は「最初の一行」と書いているが、「最初の一行」というよりも、あらゆる「行間」に存在する一行が「そこにあなたがいた」なのである。
「十五夜」にもどってみる。
このとき、出て行ったのが「あなた」が閉じ込めていた「誰か」であることがはっきりする。黒岩は「あなた」を知っている。けれど、その「あなた」が閉じ込めていた「ひと(何か)」が「誰」であるか、知らない。
「そこにはあなたがいた」(過去形に、注目)。そして、その「あなた」が出て行ったとき、「あなた」だけではなく、「あなた」が閉じ込めていた「誰か(何か)」も出て行った。それは黒岩の知らない存在だが、いなくなることによって、「いた」ことを知ったのだ。
月の光が入ってきたとき「あなた」が「背を屈めて入ってきた」ように感じたが、それは「あなた」ではなく、「あなた」が閉じ込めていた「もうひとりのあなた」である。
その「もうひとりのあなた」と出会うことで、黒岩は、もういちど「愛」を繰り返す--その静かな美しい「行為」がある。「肉体」がある。
「あかときまで」という詩にも、「そこにあなたがいた」を補って読むことができる。
「そこにあなたかいた」を補って読むと、黒岩のこの詩集はまるで「智恵子抄」のように胸に迫ってくる。その世界へ入っていくこと、その世界に対して感想を書くことは、何か純粋な世界を汚してしまうような感じがする。黒岩のことばの前で、私は一種の「畏れ」を感じる。そのために、拒絶されていると感じるのかもしれない。けれど、この拒絶の感じは、なんといえばいいのだろう、「排除」ではない。「排除」されているとは感じない。近づきがたい感じ、あまりにも美しすぎて……「こわい」感じがするのだ。
「絶唱」には、だれも「声」をあわせることができない。その「声」を追って、歌うことはできない。ただ、聴くことしかできない。
なのに、私は余分なことを書きすぎた。
黒岩隆の『あかときまで』には余分なことばがない。ぎりぎりの、最小限のことばが、とても静かに、ただ、そこにある。どう読めばいいのかわからない。まるで読まれるのを拒絶しているような静かさである。
「十五夜」の書き出し。
ガタッ と障子を開け
出て行ったのは
誰れ
この部屋に
ずっと閉じ込めていたのだろうか
遠くで
木戸の開く音がして
それっきり
その夜
まんまるの月が
木戸を潜り
縁側を渡り
空っぽの部屋に
背を屈めて入ってきた
ここに書かれている「主語」がわからない。そのために、よけい「ことば」だけがここにあるという感じを与える。
誰かが「この部屋」を出て行って、「月」になって帰ってくる。部屋の中に入ってくる透明な光を、黒岩はそんなふうに見ているのだろう。
「背を屈めて」という描写は「月」ではなく、人間を思わせる。そのために「誰か」が出て行って、「月の光」になって帰って来たという印象になるのだが、この「背を屈めて」ということばは、しかし、「月」を見えなくさせる。透明な美しい誰かそのものの姿勢になって、そこにある。
その誰かがまぼろしなのか、月の光がまぼろしなのか。区別がつかない。
気になるのは「ずっと閉じ込めていたのだろうか」ということばの「主語」と「補語」である。「誰」が「誰」を閉じ込めていたのか。あるいは「誰」が「何」を閉じ込めていたのか。
「私(黒岩)」が「誰」かを閉じ込めていたのか。
違うだろう。
もし、そうであるなら、「誰れ」ということばが指し示すものはわかっている。わからないから「誰れ」というのだ。
「この部屋」には「誰か」がいた。そして、そこには「誰か」だけではなく、もうひとり、「誰か」がいたのである。「月」に通じる「誰か」、「月」という「比喩」としての「誰か」。
「この部屋」の「主」を黒岩は知っている。しかし、その「主」が閉じ込めていた(隠していた)「誰か」を知らない。「この部屋」の「主」がどこかへ行ってしまったあと、その「主」が隠していた「誰か」が「月(月の光)」となって、「この部屋」へ入ってくる。その透明さ。そして、その透明さには、何か「部屋」へはいるとき「背を屈める」ような控えめな静けさがある。そういう「控えめな静けさとしての透明さ」--それに出会い、それこそが「主」である「誰か」の「本質」だと黒岩は気づいたのである。
その瞬間、知っているはずの「主(誰か)」は、ほんとうに「誰か」になってしまう。それは哀しいことであるけれど、不思議な「初恋」のような感じもする。「誰か(知らないひと)」なのに、出会った瞬間、「そのひと」とわかる感じ……。
その「初恋」の感じ、純粋な感じが、拒絶を感じさせるのかもしれない。
ここに書かれていることばの、その世界へ入っていけるのは、そこに隠される形でかかれている「誰か」だけなのである。
「水仙忌」という詩がある。そこに、
ここにいます
ここにいます
という透明な「声」が書かれている。
「水仙忌」の「忌」ということばを手がかりに考えれば、「水仙」にたとえられる「誰か」は亡くなってもういないということだろう。その「いま/ここ」にいない「誰が(知っている誰か)」が、「ここにいます/ここにいます」と語りかけてくる。それは「声」だけである。「声」だけだけれど、いや「声」だけだからこそ、より強く「肉体」を感じさせるのかもしれない。
この「誰か」と「十五夜」の「誰か」は同じひとなのだろう。
そのひと自身は、もちろん、いない。けれど、そのひとが隠していた「誰か」は、「月」になり、「水仙」になり、いつも、黒岩と一緒にいる。そして「ここにいます/ここにいます」と黒岩にだけ聴こえる「声」で語りかける。その「声」が聴こえた--そう「誰か」に告げるために黒岩は詩を書いている。
そんなふうに読める。そんなふうに感じてしまう。
「ここにいます/ここにいます」という「声」が聴こえた--そう告げる黒岩のことばは、その「誰か」にだけ聴こえればいい。だから、よぶんなことはいわない。「月(の光)」や「水仙」の透明さを傷つけない「いちばん小さい声」で黒岩は語るのだ。その切り詰めた響きが、黒岩のことばを貫いている。
黒岩の詩のことばの静かな響き、透明な結晶としてのことば--その「秘密」を「精霊の朝」の最後で、黒岩は静かに語っている。
そこにあなたがいた
それは
いつも私の詩の
最初の一行
黒岩は、「あなた」にしか語りかけていないのだ。
私はたまたま黒岩の詩集を読んでいるけれど、黒岩のことばは「あなた」だけに向けられている。
だから、どこか読んでいて、拒絶されているような感じがする。
「あなた」と黒岩のあいだで「完結した世界」のためのことばという感じがする。
黒岩は、この「完結した世界」を詩にするために--つまり、読者に届けるために、あえて「そこにあなたがいた」ということばを省略しつづけたのである。
黒岩は「最初の一行」と書いているが、「最初の一行」というよりも、あらゆる「行間」に存在する一行が「そこにあなたがいた」なのである。
「十五夜」にもどってみる。
「そこにあなたがいた」
ガタッ と障子を開け
出て行ったのは
誰れ
この部屋に
ずっと閉じ込めていたのだろうか
遠くで
木戸の開く音がして
それっきり
このとき、出て行ったのが「あなた」が閉じ込めていた「誰か」であることがはっきりする。黒岩は「あなた」を知っている。けれど、その「あなた」が閉じ込めていた「ひと(何か)」が「誰」であるか、知らない。
「そこにはあなたがいた」(過去形に、注目)。そして、その「あなた」が出て行ったとき、「あなた」だけではなく、「あなた」が閉じ込めていた「誰か(何か)」も出て行った。それは黒岩の知らない存在だが、いなくなることによって、「いた」ことを知ったのだ。
その夜
まんまるの月が
木戸を潜り
縁側を渡り
空っぽの部屋に
背を屈めて入ってきた
「そこにあなたがいた」
月の光が入ってきたとき「あなた」が「背を屈めて入ってきた」ように感じたが、それは「あなた」ではなく、「あなた」が閉じ込めていた「もうひとりのあなた」である。
その「もうひとりのあなた」と出会うことで、黒岩は、もういちど「愛」を繰り返す--その静かな美しい「行為」がある。「肉体」がある。
「あかときまで」という詩にも、「そこにあなたがいた」を補って読むことができる。
「そこにあなたはいた」
浜辺で
水鳥のように
浴衣の裾を翻し
大きく吸って
大きく吐いて
息と一緒に
海が 肺まで入ってきて
足もとから見えなくなってゆく
生きているのにいなののだから
いないのに生きているのだから
そのあわいに水脈をひいて
静謐な舟が渡ってゆく
「そこにあなたがいた」
あの舟に乗れば
もう 失くさなくていいのね
「そこにあなたかいた」を補って読むと、黒岩のこの詩集はまるで「智恵子抄」のように胸に迫ってくる。その世界へ入っていくこと、その世界に対して感想を書くことは、何か純粋な世界を汚してしまうような感じがする。黒岩のことばの前で、私は一種の「畏れ」を感じる。そのために、拒絶されていると感じるのかもしれない。けれど、この拒絶の感じは、なんといえばいいのだろう、「排除」ではない。「排除」されているとは感じない。近づきがたい感じ、あまりにも美しすぎて……「こわい」感じがするのだ。
「絶唱」には、だれも「声」をあわせることができない。その「声」を追って、歌うことはできない。ただ、聴くことしかできない。
なのに、私は余分なことを書きすぎた。
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