詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江夏名枝『海は近い』(8)

2011-09-27 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(8)(思潮社、2011年08月31日発行) 

 私は同じことを、それこそ「複製」しているだけなのかもしれない。どこまで書いても、私の感想は終わらないかもしれない。私はどの感想も、何の結論も用意せず、ただ書けるところまで書くだけなのだが、その方法では、江夏の詩集の感想は終わらない。私のことばが動かなくなり、終わるのを待っていてもだめなのだ。私自身で終わらせないことには終わらないのだ。
 やっと、そのことに気がついた。--だから、これを最後に、終わらせる。

 「海は近い」の「11」の部分。

 わたしたちはたがいに遠のくこともあった。わたしたちは想い、そして忘れる。距離を得るためにその場所に幾度も足を運び、全身を嗄らす。

 「遠のく」は「想い(う)」という動詞で「複製」され、それは「対」の形で「忘れる」という動詞で「複製」される。「想う」のは「忘れた」から「想う」のである--というと語弊があるかもしれないが、「いま/ここ」にないから「想う」のである。対象と「距離」がある。「わたし」と「もの(存在)=対象」とは「離れている」。この「離れている」ことを「心」を主体にして見つめなおすと「忘れる」ということになる。「心」に密着しているとき、それは「忘れる」ではない。
 だが、「心」を強くするというか、「想い」を強くするためには、「離れる」ということも必要である。「距離」があるとき、「心」はその「遠いもの」を「心のなか」に「複製」する。「反復」する。そうして、そのとき、

ここに現れる

 ということが起きる。
 「心」の「ここ」に、「心の複製」があらわれる。あらゆる複製があらわれる。
 「その場所」は「ここ」である。「ここに現れる」と江夏が書くときの「ここ」。
 「その」と「ここ(この)」は同じものではないが、やはり「対」なのだ。「ここ(この)」があるから「その(そこ)」がある。

 書きたいことが山ほどある。書かなければならないことが山ほどある。
 でも、「やめる」「終わらせる」と決めたのだから、少しだけの補足にとどめる。
 いまの引用の部分では、

全身を嗄らす。

 これがなんともあいまいである。不自然である。この「全身」には、実は、先立つことばがある。

 身体がざわめいている……棘をぬくために、もうひとつ身をほどく。

 「全身」「身体」「身」--つかいわけられている。そして、そのつかいわけを支えている(?)のが「ほどく」ということばである。
 「身」は人間には「ひとつ」である。それは「心」とちがって「千々に砕けたり」はしないし、「心」のようにこんがらかることもない。
 「ほどく」ということは「身」にとっては「矛盾」したことばである。「矛盾」した表現である。だからこそ、それが「思想」である。
 「身」は「身」ではないのだ。江夏にとって、それは「心」という「言葉」で「複製」された「わたし」なのである。

ここに現れる

 のは、ある瞬間は「身」であり、ある瞬間は「心」であり、それはともに「言葉」によって「複製」された存在である。そこには「隔たり」はない。「隔たり」はないけれど、「身」という「言葉」と「心」という「言葉」はちがって存在してしまう。
 この「矛盾」をどう解消するか。

 わたしたちは言葉を脱いで眠る。

 あ、たしかにそうするしかないのかもしれない。
 けれど、よく読むと--これは、とても変である。とんでもない「矛盾」である。

 わたしたちは言葉を脱いで眠る。

 この1行も、「ここに現れ」た「言葉」である。つまり「心の複製」である。これでは、終わらない。だから、これで終わりにする。




海は近い
江夏 名枝
思潮社
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金子鉄夫「ながぁい廊下」

2011-09-27 09:55:43 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「ながぁい廊下」(「臍帯血withペンタゴンず」(1、2011年09月10日発行)

 金子鉄夫「ながぁい廊下」も、「意味」があるのかどうかは、よくわからない。

ぺらりん、ぺらりん、いちまいに乗って
滑ってきたんだよ、このながぁい廊下
横を向けばあわれ腐った葱をくわえたおんな
が誤字脱字のようにわらって

 この書き出しの4行は、「書かれたことば」というより「声に出されるのをまっていることば」、あるいは「声」といった方がいいかもしれない。
 「声」あるいは「音」というのは不思議なものだと思う。
 「ぺらりん、ぺらりん、」ということばは、どんなにそれを長い間見つめていても「意味」につながるものはあらわれないが、声に出す、その音を聞くということを繰り返していると「肉体」のなかで、何かがあらわれる。
 「ぺらぺら」なもの。しかし、「りん」としたもの。「凛々」としたもの(?)。
 「ぺらりん」には、そういう「意味」はないかもしれないが、「音」、その「音」を「声」にするときに動く「肉体」が何かを引き寄せるのである。自分がおぼえているものを引っぱりだすのである。
 弱いけれど、あるいは軽いけれど、どこかに透明感のある何か。

 「声」や「音」が、独自に「意味」を捏造する。そこに、リズムも加わる。そして、イメージが新しく生み出される。それは「ことば」が、ではなく、「音」「声」が、「肉体」のなかからつくりだすものである。

 ぺらりん→ぺらりん→いちまい

 と動くとき、私の「肉体」は薄い何かを引き出す。薄いといっても、それは紙やセロファンよりも厚い。けれど、絨毯のように厚いわけではない。浮くて強靱な、アルミ金属。きっと透明だ。それは「飛ぶ」のではなく、空中を「滑る」。まるで「廊下」を滑るように、すばやく。

 「いちまい」という「音」がとても効果的だと思う。「いちまい」のあとに「名詞」が省略されているのが効果的だと思う。「いちまいのガラス」「いちまいのセロファン」「いちまいの畳」「いちまいの絨毯」「いちまいの金属」「いちまいのアルミニウム」「いちまいのジュラルミン」--どれもダメである。「名詞」が省略されたまま「いちまいに/乗って」と「音」が寄り道をしないから、改行後の「滑ってきたんだよ」がおもしろくなる。「滑ってきたんだよ、このながぁい廊下」という倒置法が楽しくなる。
 「意味」が半分生まれ、半分のまま、どこかへ行ってしまう。「意味」はどこかへ行ってしまうけれど、その「意味」を動かした(?)ときの「肉体」の感じはずーっと「肉体」に残りつづける。

横を向けばあわれ腐った葱をくわえたおんな

 という1行の「あわれ」と「腐った」の「あいだ」の密着感もいい。ほんとうは(?)、ここに読点「、」があってもいいのだと思う。あった方が「意味」がはっきりする。
 読点「、」がないために「あわれ」は「哀れ」(憐れ)という「意味」になるまえに、「音」のまま加速する。そして「腐った葱」を飛び越して「おんな」へ結びついてしまう。そこには読点「、」よりも大きな「腐った葱」があり、しかも「くわえた」という説明まであるのだが、その変なイメージというより、変な「音」が不思議な読点のように「肉体」のなかへ沈殿していく。

 このとき、私のなかで、何が起きているのか。

 「意味」はどこかへ消えてしまっている。「意味」はないのに、そこに書かれているものが「ある」と感じている。「いちまい」も「ながぁい廊下」も「腐った葱をくほえたおんな」も、「無意味」として、そこに「ある(いる)」のを感じる。

誤字脱字のようにわらって

 は、金子は、私が引用しなかった次の行を説明することばとして書いたのかもしれないが、「無意味」を強烈に感じる私は、「おんな」が「誤字脱字のようにわらって」いると感じるのである。それが見えるのである。
 このとき、おんながくわえている「腐った葱」が「誤字脱字」というものかもしれない。もし、「腐った葱」ではなくて、たとえば「赤い薔薇」だったら、「ぺらりん、ぺらりん、いちまいに乗って」という軽い「意味」とは通い合わなくなる。「音」が消えて「意味」になる。句読点は、正確さを強いてきて、ことばがつらくなる。息苦しくなる。
 「意味」が強く、「肉体」が息苦しくなるような詩は詩でいいと思うけれど、金子の動かしていることばは、そういうものとは違う。

 こういう書き方は(ことばの動かし方は)、でも、むずかしいね。

いまさら喚いたところでどうなる
そんなことよりも釘を呑んだ表情で
射精を急げっ
肘から下が空語になるぜ

 あっという間に「意味」のことばに乗っ取られてしまう。「表情」「射精」「空語」。ここには「音」がない。そのことばは、ほかの行のことば、そのことばの周囲のどのことばとも、「息」のなかでまじりあわない。
 こういうことは、「肉体」で感じることである。「肉体」というのは、私と金子の「肉体」は別個のものであるだけではなく、何の接点ももたないから、私の書いていることは、一方的な「誤読」かもしれないけれど。
 でもね。
 と、私はつけくわえたいのである。
 道で誰かが倒れてうめいている。そうすると、あ、あのひとは腹が痛くて苦しんでいると感じるでしょ? そのひとの痛みは私のものではない。けれども、「痛い」ということがわかる。
 ことばの「音」、「声」としてのことば--には、何か、そういう「肉体」のようなものがある。その「音」を「声」にするとき感じてしまう「肉体」の何かというものがある。そうして、その「肉体」が感じるものというのは、私は、ある程度(というよりも完璧に?)、近いもの--つまり作者と読者で共有されてしまうものではないかと感じている。
 こんなことは、「非科学的」なのことなのだけれど。

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