詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江夏名枝『海は近い』(4)

2011-09-23 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(4)(思潮社、2011年08月31日発行)

 私は江夏のことばに「深入り」しすぎているかもしれない。と、思いながらも、そこから引き返すのではなく、さらに深入りしたい気持ちでいっぱいになる。
 少し視点を変えてみる。
 「4」の部分。

 誰かが立ち去ってしまった空席にまだ体温が残る、泥濘んだ時間を乗り換えて、部屋へ戻る。

 この1行の、「複製」の連鎖がとてもおもしろい。
 「空席」が「まだ体温が残る」と描写されているのだが、このとき「描写」は「複製」である。「空席(椅子)」が形(視覚)で描写されるのではなく「触覚(体温)」で「複製」される。「空席」という「もの(存在)」は「視覚」によって定義されるのだが、それが「触覚」で「複製」されると、その「場(ここ)」に「残る」という運動が侵入してくる。
 この「残る」とは、なんだろう。
 それだけでは、わからない。けれど、「残る」が「泥濘んだ」と「複製」されると、「動く-動かない」、「ゆっくり動く」というような、「遅滞」に属することがらが「複製」され、そこから「時間」がさらに「複製」される。
 「残る」のなかには「時間」がある。
 そう気づいた瞬間、ことばは、最初に引き戻されてしまう。

 誰かが立ち去ってしまった

 その「過去形」。「過去形」というのは「時間」とともにある。
 あ、「空席」というのは、それ自体がすでに「複製」であったのか。
 「立ち去った」という「時間」の「複製」が「空席」である。「空席」が「体温が残る」と複製され、「体温が残る」が「泥濘んだ時間」と「複製」される。「時間」ということばに変えることでひとつの「円環」になる。
 「複製」は「円環」なのである。「円環」をまわりつづける「時間」でもある。「円環(場、ここ)」と「時間」は重なり、閉じられていくのである。
 と書いて……。
 あ、これは「4」の書き出しではないか。

 生きているものの内にしかない隙間をなぞっては、何も明らかにならない円環にとじられていく。

 これはまた、「くちびるの声がくちびるを濡らし」というときの「くちびる」の繰り返し、その「円環」運動そのものでもある。
 どこまで行っても、ただ「戻る」のである。

 ここで、とてもおもしろいのは、

 誰かが立ち去ってしまった空席にまだ体温が残る、泥濘んだ時間を乗り換えて、部屋へ戻る。

 この行の「乗り換えて」である。
 「複製」しつづけるとき、江夏はただ「複製」するだけではないのだ。「複製」しながら、同時に「複製」を超えるために、意識して、そこに「移動」を持ち込む。
 これは「円環」を「螺旋」運動に変える方法かもしれない。
 「海は近い」という詩は「1」「2」「3」「4」……とそれぞれの断章に番号がふられているが、この番号が「乗り換え」という操作かもしれない。
 これはしかし、江夏の「意識」の問題である。江夏は「乗り換える」のだが、読んでいる私にはその「乗り換え」は、やはり「複製」に見えてしまう。

 この「4」の部分には、次の魅力的なことばもある。

 なにも変わらない。軽い疲労が降ってくることにも親しみを感じ、読みさしの本をひらいた。
 記述された言葉を辿って本をとじた瞬間へと戻ってゆく、その時間の軸を確かめると、にぶい振動にも似た不安が砕ける。

 「にぶい振動にも似た不安が砕ける。」は性急なことばで、ちょっと江夏らしくないと思うのだが、「なにも変わらない」というのは、その通りだと思う。変わりようがないのだ。本のなかの「時間の軸」のように、変わりようがないのだが……。
 (私は、ここで、ちょっと飛躍しようと思う。)

記述された言葉を辿って本をとじた瞬間へと戻ってゆく、その時間の軸を確かめると、

 これが、おもしろい。この文がおもしろい。
 「戻ってゆく」の「主語」は何? だれ? 「確かめる」の「主語」は何? だれ?
 「私」が「主語」なのか。もし、「戻ってゆく」と「確かめる」の「主語」が同じならば--たとえば「私(江夏)」ならば、そのとき「戻ってゆく」は「戻ってゆき」となるのが普通ではないだろうか。
 でも江夏は「戻ってゆく」と書いている。
 「戻ってゆく」は「終止形」? それとも「連体形」? 句点「。」ではなく読点「、」でつながっているのだから「連体形」だろう。基本的には「連体形」のあとの「、」はいらない。というか、「、」があると「連体形」であるかどうかわからない。というか、何か、ごっちゃになってしまうのだが……。
 「連体形」であると、「戻ってゆく」のは「その時間(の軸)」になる。読みかけの本を読むとき、「私(江夏)」がその本のなかの時間(の軸)にもどると同時に、本のなかの「時間」(江夏とともに、どこかへ「乗り換えて」行っていた時間)もまた、もどるのだ。
 「主語」は「私(江夏)」であると同時に、「本」の「時間(の軸)」でもある。
 「本」というのは「言葉」が集まっている「場」である。
 なにやら、「私(江夏)」「言葉」「時間」が、「戻る」という行為のなかで「複製」されて、「主語」を入れ換えても同じように見える。
 「乗り換え」もまた「複製」なのである。「円環」なのである。読点「、」は「乗り換え」の瞬間の、列車の(駅の)ホームのような「場」である。


海は近い
江夏 名枝
思潮社
コメント
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