菊池唯子「日のおわり」、北川朱実「空の指」(「この場所ici 」5 、2011年08月05日発行)
菊池唯子「日のおわり」は、とてもわかりにくいことばからはじまる。それは菊池が、まだだれも語っていないことばで何事かを語ろうとしているからだ。
「遠くから寄せる波を 静かだと/言えなくなった午後」という2行で、あ、菊池は東日本大震災のことを書いているのかもしれないと思う。「波」ということばだけで、私は「津波」を思ってしまう。それくらい東日本大震災の衝撃は大きかったのだ。
この衝撃と、菊池はどんなふうに向き合うか。
それが、なんとも不透明である。「遠くから寄せる波を 静かだと/言えなくなった午後」は、あ、津波だと思うのに、「ぬけつづける糸」がわからない。私は、それを見ていないのだ。津波の映像を私は何回も繰り返し見てしまった。それにつつて書いたことばも読んできた。けれど、そこに「ぬれつづける糸」があったとは知らなかった。
「ぬれつづける糸」、さらに「糸の束」とは何か。「糸の束の/結び目」とは何か。そして、そこにふいにあらわれる「色あい」とは何か。
菊池は何かを書きたいのだ。その書きたい気持ちが、少しずつ「糸」→「束」→「結び目」→「色あい」と動いていく。菊池が何かを追っているということがわかるが、何を追っているかわからない。
わからないのだけれど、--わからないから、それが魅力的である。
大震災の詩に対して「魅力的」ということばがふさわしいかどうかわからないが、わけのわからないそのことばの、すこしずつ、からまった糸をほどいてゆくようなことばの動きに「文学」を感じるのである。「文学」は、こんなふうにゆっくりとことばを動かして、ことばでなくなってしまうことなのだ、と直感的に思うのだ。
「色あい」から、さらに「てのひら」→「丸めた形」→「保っていたもの」→「(その)名」とことばが動いていくとき、何か「てのひら」ですっぽりつつむようにして大事にしていたものがあるのだとわかる。わかると同時に、その「丸いかたち」が、いまは、ほどけて、「糸」になってしまっている、それだけではなく、その「糸」さえ「ぬけつづける」(失われていく、失われつづけていく)ということに菊池が向き合っているのだとわかる。「ぬけつづける糸」を見るとき、菊池は「ぬけない状態」の「糸」を思っているのだともわかる。
ここに書かれているのは「逆説」である。「ぬけつづける糸」と書きながら、菊池が思いつづけるのは「ぬけない糸」、しっかり「結び目のある糸」、「丸いかたち」、美しい「色あい」である。
でも、それをそのまま、つまり記憶にあるようには書けない。--丸くうつくしい形、しっかりした形、あざやかな色……その記憶をそのままことばにはできない。逆のかたち、「逆説」でしか書けない。その苦しみが、ことばを、そのまま苦しませている。不透明にさせている。
「端」は「ぬけつづける糸」の「端」であろう。「ぬけつづける」のは「端」を「あなた」が「持っていない」からである。
そう書くとき、菊池は「糸」をもう問題にしていない。「ぬけつづける糸」は「糸」ではなく、その「端」をもっていない「あなた」を書くことに動いている。「あなた」は書いても書いても、そして、「いない」のである。
「ぬけつづける」のは「糸」ではなく、実は「あなた」なのだ。
「あなた」に、かつて「レンギョウが咲いている」「シャクナゲのつぼみを見つけました」と菊池は言ったことがあるのだ。その思い出(記憶)が、いま「糸」となって「ぬけつづける」。
「糸」はいくつもの「思い出」なのだ。「記憶」なのだ。
「記憶」とは「肉体」のなかにあるものである。(「頭」のなかかもしれないが、私は「肉体」のなかと言う。)それは失われない、思い出すとき、かならずもどってくる不思議な宝のようなものである。--というのは、私の勘違いである。
「思い出(記憶)」もまた「ぬけつづける」(うしなわれつづける)。それは「あざやかで美しい」ものではない。「あざやかで美しい」ものを奪いつづける。「思い出」(記憶)は「奪いさる」ものなのだ。
そして、そうだとしても、あるいは、そうだからなのか。菊池は、それを「てのひらを丸めたかたち」で「保ちたい」(保っていたい)と、ことばを動かすのである。
どんなことばも、それを「言う」とき、それを受け止めるひとがいて初めて「ことば」になる。そして、その「ことば」とともに「世界」がたしかなものになる。受け止めるひとがいないと、「ことば」は「ことば」にならない。「世界」は存在しない。
「言えたら/よかったのに」が「言えるだけで/よかったのに」にかわってしまう無念さのなかに、いま「世界」がある。
そして、せめて「ぬけつづける糸」ということばで、その「ぬけつづける糸」の一方の端を、菊池は必死でつなぎとめている。
「世界」を虚無から救っている。
「ぬけつづける糸」は、「涙」で「ぬれつづける糸」になる。涙を結び、涙のなかで「色」を取り戻し、やわらかにふくらみ丸いかたちになる--と菊池は書いているわけではないが、私はそう書いていると「誤読」するのである。
「涙は/後ろから/野山をぬらしてやってきます」の「後ろから」がとても美しいと私は感じる。
季村敏夫が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたときの「遅れて」につながるものがあると私は感じる。
悲しみ(涙)も遅れてやってくる。そして、やっと涙にぬれて、ことばは甦る。世界は甦る。
--こんなことを書くと叱られるかもしれないが、ひとは泣かなければならないのだ。泣かなければ「いま」を生きられないのだ。泣かなければならない、涙を流さないことには生きられない「時間」があるのだと菊池の詩を読みながら思った。
*
北川朱実「空の指」。その書き出し。
北川が何を書きたかったのか--ということとは無関係に、私はこの詩を読んでしまう。文字を読めなくても、ひとは「ことば」を求める。「言いたい」のだ。世界と「ことば」でつながりたいのだ。
北川の書いている幼児が最初につかんだ「糸」を、その「端」をだれがしっかりつかんでくれているのか。しっかりつかんでくれるひとを探して、幼児はページをくっているように、私には感じられる。
菊池唯子「日のおわり」は、とてもわかりにくいことばからはじまる。それは菊池が、まだだれも語っていないことばで何事かを語ろうとしているからだ。
ぬけつづける糸の束の
結び目のありか 色あいを忘れ
てのひらを丸めたかたちで
保っていたものの名も
忘れてしまって
遠くから寄せる波を 静かだと
言えなくなった午後
「遠くから寄せる波を 静かだと/言えなくなった午後」という2行で、あ、菊池は東日本大震災のことを書いているのかもしれないと思う。「波」ということばだけで、私は「津波」を思ってしまう。それくらい東日本大震災の衝撃は大きかったのだ。
この衝撃と、菊池はどんなふうに向き合うか。
それが、なんとも不透明である。「遠くから寄せる波を 静かだと/言えなくなった午後」は、あ、津波だと思うのに、「ぬけつづける糸」がわからない。私は、それを見ていないのだ。津波の映像を私は何回も繰り返し見てしまった。それにつつて書いたことばも読んできた。けれど、そこに「ぬれつづける糸」があったとは知らなかった。
「ぬれつづける糸」、さらに「糸の束」とは何か。「糸の束の/結び目」とは何か。そして、そこにふいにあらわれる「色あい」とは何か。
菊池は何かを書きたいのだ。その書きたい気持ちが、少しずつ「糸」→「束」→「結び目」→「色あい」と動いていく。菊池が何かを追っているということがわかるが、何を追っているかわからない。
わからないのだけれど、--わからないから、それが魅力的である。
大震災の詩に対して「魅力的」ということばがふさわしいかどうかわからないが、わけのわからないそのことばの、すこしずつ、からまった糸をほどいてゆくようなことばの動きに「文学」を感じるのである。「文学」は、こんなふうにゆっくりとことばを動かして、ことばでなくなってしまうことなのだ、と直感的に思うのだ。
「色あい」から、さらに「てのひら」→「丸めた形」→「保っていたもの」→「(その)名」とことばが動いていくとき、何か「てのひら」ですっぽりつつむようにして大事にしていたものがあるのだとわかる。わかると同時に、その「丸いかたち」が、いまは、ほどけて、「糸」になってしまっている、それだけではなく、その「糸」さえ「ぬけつづける」(失われていく、失われつづけていく)ということに菊池が向き合っているのだとわかる。「ぬけつづける糸」を見るとき、菊池は「ぬけない状態」の「糸」を思っているのだともわかる。
ここに書かれているのは「逆説」である。「ぬけつづける糸」と書きながら、菊池が思いつづけるのは「ぬけない糸」、しっかり「結び目のある糸」、「丸いかたち」、美しい「色あい」である。
でも、それをそのまま、つまり記憶にあるようには書けない。--丸くうつくしい形、しっかりした形、あざやかな色……その記憶をそのままことばにはできない。逆のかたち、「逆説」でしか書けない。その苦しみが、ことばを、そのまま苦しませている。不透明にさせている。
薄くなった靄のむこうに その端を持って
あなたがいたらよかったのに
「端」は「ぬけつづける糸」の「端」であろう。「ぬけつづける」のは「端」を「あなた」が「持っていない」からである。
そう書くとき、菊池は「糸」をもう問題にしていない。「ぬけつづける糸」は「糸」ではなく、その「端」をもっていない「あなた」を書くことに動いている。「あなた」は書いても書いても、そして、「いない」のである。
「ぬけつづける」のは「糸」ではなく、実は「あなた」なのだ。
遅いレンギョウが咲いています
坂道の途中に
シャクナゲのつぼみを見つけました
そんなことを言えたら
よかったのに
言えるだけで
よかったのに
「あなた」に、かつて「レンギョウが咲いている」「シャクナゲのつぼみを見つけました」と菊池は言ったことがあるのだ。その思い出(記憶)が、いま「糸」となって「ぬけつづける」。
「糸」はいくつもの「思い出」なのだ。「記憶」なのだ。
「記憶」とは「肉体」のなかにあるものである。(「頭」のなかかもしれないが、私は「肉体」のなかと言う。)それは失われない、思い出すとき、かならずもどってくる不思議な宝のようなものである。--というのは、私の勘違いである。
「思い出(記憶)」もまた「ぬけつづける」(うしなわれつづける)。それは「あざやかで美しい」ものではない。「あざやかで美しい」ものを奪いつづける。「思い出」(記憶)は「奪いさる」ものなのだ。
そして、そうだとしても、あるいは、そうだからなのか。菊池は、それを「てのひらを丸めたかたち」で「保ちたい」(保っていたい)と、ことばを動かすのである。
どんなことばも、それを「言う」とき、それを受け止めるひとがいて初めて「ことば」になる。そして、その「ことば」とともに「世界」がたしかなものになる。受け止めるひとがいないと、「ことば」は「ことば」にならない。「世界」は存在しない。
「言えたら/よかったのに」が「言えるだけで/よかったのに」にかわってしまう無念さのなかに、いま「世界」がある。
そして、せめて「ぬけつづける糸」ということばで、その「ぬけつづける糸」の一方の端を、菊池は必死でつなぎとめている。
「世界」を虚無から救っている。
咲き出す花が
綿毛になるまでの
日の
涙は
後ろから
野山をぬらしてやってきます
歩道も町も
ウグイスの声も
鮮やかに したたっていきます
「ぬけつづける糸」は、「涙」で「ぬれつづける糸」になる。涙を結び、涙のなかで「色」を取り戻し、やわらかにふくらみ丸いかたちになる--と菊池は書いているわけではないが、私はそう書いていると「誤読」するのである。
ぬれつづける糸の束の
結び目のありか そこに落ちた涙のなかで色が新しく輝く
てのひらを丸めたかたちで
それを大事につつみこむ
大事なものの、あらゆる名前を
「涙は/後ろから/野山をぬらしてやってきます」の「後ろから」がとても美しいと私は感じる。
季村敏夫が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたときの「遅れて」につながるものがあると私は感じる。
悲しみ(涙)も遅れてやってくる。そして、やっと涙にぬれて、ことばは甦る。世界は甦る。
--こんなことを書くと叱られるかもしれないが、ひとは泣かなければならないのだ。泣かなければ「いま」を生きられないのだ。泣かなければならない、涙を流さないことには生きられない「時間」があるのだと菊池の詩を読みながら思った。
*
北川朱実「空の指」。その書き出し。
文字が読めないうちに
人はなぜ
本をめくることを覚えるのだろう
巨大な津波に
町ごと消えた空の下
瓦礫の中から見つけた
絵本の端に
小さな爪を引っかけては
すばやく指を差し込み
幼児が
いっしんにページをくっている
北川が何を書きたかったのか--ということとは無関係に、私はこの詩を読んでしまう。文字を読めなくても、ひとは「ことば」を求める。「言いたい」のだ。世界と「ことば」でつながりたいのだ。
北川の書いている幼児が最初につかんだ「糸」を、その「端」をだれがしっかりつかんでくれているのか。しっかりつかんでくれるひとを探して、幼児はページをくっているように、私には感じられる。
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