橘上『YES(or YES)』(思潮社、2011年07月15日発行)
まったくの「空想論」の類に属してしまうのだが、私は、ひそかに感じていることがある。日本語は「ひらがな」の発明によって音が変わってしまった。『万葉集』の時代には、日本語は音しかなかった。その音を記録するために中国から漢字を借りてきた。この時代の音は、なんともいえず、肉体の奥を刺激する。えっ、日本語というのはこんな深いところから生まれてくるのか、という驚きである。何か聞こえない音があって、それが肉体を突き破ってくる衝動のようなものがある。--これは、まあ、私の「感覚」なので、これ以上説明のしようがない。
この衝動のようなものが、「ひらがな」の発明されたあとの『古今集』などの音にはない。直感的な言い方しかできないけれど、『万葉』の音が喉から下を含めた肉体から出てくるのに対して、『古今』の音は喉から上、もっといえば「頭」から出てくる音という感じがする。まず「意味」がある、という感じがする。
--こんなことを書いたのは、ただ単に、橘上『YES(or YES)』には「ひらがな」の詩が多かったからである。そして、その「音」が、私には「古今」以後の音に聞こえるからである。
「この先の方法」の最初の方。
「てき」せつなじかんに「て」あかを「てき」かくに 「てき」とうなきぎから「てき」とうなきぎへ。
「てき」というの音の動きが、あまりにも整然としている。「てき」の音が分裂して「きて」という組み合わせになったり「○て○○き」になったりしない。「て・あか」ではなく「○て○」や「○○て」なら、そこに音楽が生まれるけれど、「てきせつ」「てきかく」「てきとう」では頭韻がうるさい感じがしないでもない。
「頭」でさがしてきた「音」という感じがする。--この「頭でさがした音」を洗練された音ととらえれば、また別の感想が生まれるのだろうけれど……。
「か」の音の動き、「きぎ」というときの濁音のありかたも、私には「音」というよりも、なぜか「文字」の運動に感じられてならない。なんとか音を取り戻そうとする試みなのだろうけれど、私には「文字」から離れられないもがきのように感じられてしまう。
「すべてがうそですがしんじてください」 かみくずにかかれたかみじみたかみが かみなでごえでぼくにいう
「かみなでごえ」というのは橘上の「発明」だろう。それはそれで「意味」を超えるのでおもしろいけれど、うーん、「か」と「み」の音が分裂し、衝突し、そこから聞こえない音が聞こえる--という音楽の方が、私は聞きたい。
で、私の音の感覚、音楽の感覚から言うと(私は音痴なので、まあ、私の言っていることが間違っているのだろうけれど、しばらく我慢して聞いてみてください)。
「THIS IS THIS」の、次の部分がおもしろい。
この「と」の動き、とくに
の「と」がおもしろい。
さらにいえば、
この「と」と「を」がとてもいい。「と」のなかにある「お」、「を」のなかに「お」。その母音の「弱音」の感じが、ほかの部分の「と」の繰り返しとは違ったひびきを感じさせる。
不思議な「半音」のひびきがある。揺らぎがある。ことば全体をゆさぶる力がある。
美しいなあ、と思う。
こういう部分に、私は『万葉』につながる音を感じる。
まったくの「空想論」の類に属してしまうのだが、私は、ひそかに感じていることがある。日本語は「ひらがな」の発明によって音が変わってしまった。『万葉集』の時代には、日本語は音しかなかった。その音を記録するために中国から漢字を借りてきた。この時代の音は、なんともいえず、肉体の奥を刺激する。えっ、日本語というのはこんな深いところから生まれてくるのか、という驚きである。何か聞こえない音があって、それが肉体を突き破ってくる衝動のようなものがある。--これは、まあ、私の「感覚」なので、これ以上説明のしようがない。
この衝動のようなものが、「ひらがな」の発明されたあとの『古今集』などの音にはない。直感的な言い方しかできないけれど、『万葉』の音が喉から下を含めた肉体から出てくるのに対して、『古今』の音は喉から上、もっといえば「頭」から出てくる音という感じがする。まず「意味」がある、という感じがする。
--こんなことを書いたのは、ただ単に、橘上『YES(or YES)』には「ひらがな」の詩が多かったからである。そして、その「音」が、私には「古今」以後の音に聞こえるからである。
「この先の方法」の最初の方。
くびをしめるとてあかがつくから それがきょうのめじるしです てきせつなじかんにひびのてあかをてきかくに てきとうなきぎからてきとうなきぎへ もうまよえない
「てき」せつなじかんに「て」あかを「てき」かくに 「てき」とうなきぎから「てき」とうなきぎへ。
「てき」というの音の動きが、あまりにも整然としている。「てき」の音が分裂して「きて」という組み合わせになったり「○て○○き」になったりしない。「て・あか」ではなく「○て○」や「○○て」なら、そこに音楽が生まれるけれど、「てきせつ」「てきかく」「てきとう」では頭韻がうるさい感じがしないでもない。
「頭」でさがしてきた「音」という感じがする。--この「頭でさがした音」を洗練された音ととらえれば、また別の感想が生まれるのだろうけれど……。
「か」の音の動き、「きぎ」というときの濁音のありかたも、私には「音」というよりも、なぜか「文字」の運動に感じられてならない。なんとか音を取り戻そうとする試みなのだろうけれど、私には「文字」から離れられないもがきのように感じられてしまう。
「すべてがうそですがしんじてください」 かみくずにかかれたかみじみたかみが かみなでごえでぼくにいう
「かみなでごえ」というのは橘上の「発明」だろう。それはそれで「意味」を超えるのでおもしろいけれど、うーん、「か」と「み」の音が分裂し、衝突し、そこから聞こえない音が聞こえる--という音楽の方が、私は聞きたい。
で、私の音の感覚、音楽の感覚から言うと(私は音痴なので、まあ、私の言っていることが間違っているのだろうけれど、しばらく我慢して聞いてみてください)。
「THIS IS THIS」の、次の部分がおもしろい。
とけいをやめた もととけい きざむそくどはぼくのもの ときでもあったぼくきもの ときどきとけいとめをあわせ そういうことかとふきだして そしてじかんをにくにする
も「と」「と」けい、「と」き「ど」き「と」けい「と」めをあわせ、
この「と」の動き、とくに
も「と」とけい、ときどきとけい「と」めをあわせ
の「と」がおもしろい。
さらにいえば、
ときどきとけい「と」め「を」あわせ
この「と」と「を」がとてもいい。「と」のなかにある「お」、「を」のなかに「お」。その母音の「弱音」の感じが、ほかの部分の「と」の繰り返しとは違ったひびきを感じさせる。
不思議な「半音」のひびきがある。揺らぎがある。ことば全体をゆさぶる力がある。
美しいなあ、と思う。
こういう部分に、私は『万葉』につながる音を感じる。
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