詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

橘上『YES(or YES)』

2011-09-19 23:59:59 | 詩集
橘上『YES(or YES)』(思潮社、2011年07月15日発行)

 まったくの「空想論」の類に属してしまうのだが、私は、ひそかに感じていることがある。日本語は「ひらがな」の発明によって音が変わってしまった。『万葉集』の時代には、日本語は音しかなかった。その音を記録するために中国から漢字を借りてきた。この時代の音は、なんともいえず、肉体の奥を刺激する。えっ、日本語というのはこんな深いところから生まれてくるのか、という驚きである。何か聞こえない音があって、それが肉体を突き破ってくる衝動のようなものがある。--これは、まあ、私の「感覚」なので、これ以上説明のしようがない。
 この衝動のようなものが、「ひらがな」の発明されたあとの『古今集』などの音にはない。直感的な言い方しかできないけれど、『万葉』の音が喉から下を含めた肉体から出てくるのに対して、『古今』の音は喉から上、もっといえば「頭」から出てくる音という感じがする。まず「意味」がある、という感じがする。

 --こんなことを書いたのは、ただ単に、橘上『YES(or YES)』には「ひらがな」の詩が多かったからである。そして、その「音」が、私には「古今」以後の音に聞こえるからである。
 「この先の方法」の最初の方。

くびをしめるとてあかがつくから それがきょうのめじるしです てきせつなじかんにひびのてあかをてきかくに てきとうなきぎからてきとうなきぎへ もうまよえない

 「てき」せつなじかんに「て」あかを「てき」かくに 「てき」とうなきぎから「てき」とうなきぎへ。
 「てき」というの音の動きが、あまりにも整然としている。「てき」の音が分裂して「きて」という組み合わせになったり「○て○○き」になったりしない。「て・あか」ではなく「○て○」や「○○て」なら、そこに音楽が生まれるけれど、「てきせつ」「てきかく」「てきとう」では頭韻がうるさい感じがしないでもない。
 「頭」でさがしてきた「音」という感じがする。--この「頭でさがした音」を洗練された音ととらえれば、また別の感想が生まれるのだろうけれど……。
 「か」の音の動き、「きぎ」というときの濁音のありかたも、私には「音」というよりも、なぜか「文字」の運動に感じられてならない。なんとか音を取り戻そうとする試みなのだろうけれど、私には「文字」から離れられないもがきのように感じられてしまう。

「すべてがうそですがしんじてください」 かみくずにかかれたかみじみたかみが かみなでごえでぼくにいう 

 「かみなでごえ」というのは橘上の「発明」だろう。それはそれで「意味」を超えるのでおもしろいけれど、うーん、「か」と「み」の音が分裂し、衝突し、そこから聞こえない音が聞こえる--という音楽の方が、私は聞きたい。

 で、私の音の感覚、音楽の感覚から言うと(私は音痴なので、まあ、私の言っていることが間違っているのだろうけれど、しばらく我慢して聞いてみてください)。
 「THIS IS THIS」の、次の部分がおもしろい。

とけいをやめた もととけい きざむそくどはぼくのもの ときでもあったぼくきもの ときどきとけいとめをあわせ そういうことかとふきだして そしてじかんをにくにする


も「と」「と」けい、「と」き「ど」き「と」けい「と」めをあわせ、

この「と」の動き、とくに

 も「と」とけい、ときどきとけい「と」めをあわせ

 の「と」がおもしろい。
 さらにいえば、

ときどきとけい「と」め「を」あわせ 

 この「と」と「を」がとてもいい。「と」のなかにある「お」、「を」のなかに「お」。その母音の「弱音」の感じが、ほかの部分の「と」の繰り返しとは違ったひびきを感じさせる。
 不思議な「半音」のひびきがある。揺らぎがある。ことば全体をゆさぶる力がある。
 美しいなあ、と思う。
 こういう部分に、私は『万葉』につながる音を感じる。



YES(or YES)
橘 上
思潮社
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ロバート・ワイズ監督「サウンド・オブ・ミュージック」(★★★★)

2011-09-19 19:58:11 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ワイズ 出演 ジュリー・アンドリュース、クリストファー・プラマー

私はオーストリア国民ではないのだが、クライマックスで大佐が「エーデルワイス」を歌いながら、感情がこみあげてきて、歌えなくなる一瞬に、いつも涙がこみあげてくる。何度見ても素晴らしい。事情を知らない(うすうす感じている)聴衆が共感し、大合唱にかわっていくのをみると「歌の力」を強く感じる。
 このシーンに限らず、歌が歌として歌われるというより、歌の力をアピールしているのが面白い。「ドレミの歌」もそうだけれど、「和音」さえわかれば歌ができるというのも。そして、歌を歌う前はまるで軍隊(軍人)のようだった子供たちがのびやかにかわり、その変化が大佐に影響するところも。音楽は、かたくななこころを和らげる――「教科書的」なメッセージだけれど。
 昔は気がつかなかったけれど。
 恋愛も丁寧に描いている。伯爵夫人がジュリー・アンドリュースと大佐の愛に気がついて、ジュリー・アンドリュースを追い出す(?)シーン。そして、大佐と別れるしかないとさとったときの台詞。「私は自分になびいてくれる人が必要だ。たとえ、それが私の金であっても」云々。あ、さすが「おとな」だねえ。こんなシーンがあるなんて、すっかり忘れていた。というより、若い時には見ても気がつかないシーンだが、こういうシーンがあるから、映画に「深み」が出る。そのとき伯爵夫人が大佐を「あなたは自尊心(自立心)が強い」云々と批評するけれど、それが批判ではなく、ナチスに抵抗して生きた大佐の生き方そのものを明確に浮かび上がらせているのも、なかなか丁寧な脚本だと思った。
 修道女見習いの若い女性が、子供たちに歌を教え、大佐と結婚し、スイスへ脱出する――と要約してしまうと、なんだか「絵そらごと」になってしまう。複雑な「おとな」の感情、やせがまんがあって、おもしろくなる。
 最後の方の、大佐の執事が「密告」したと暗示させるシーンや、長女の恋人のこころの揺れなども、短いシーンだけれど、脚本の丁寧さを感じる。
(「午前十時の映画祭」青シリーズ33本目。天神東宝3)



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