詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三宅節子『砦にて』(3)

2011-09-11 23:59:59 | 詩集
三宅節子『砦にて』(3)(思潮社、2011年07月31日発行)

 三宅の詩は「変身譚」なのかもしれない。「ことば」が「肉体」を変え、「肉体」が「ことば」を変える。「精神」が「肉体」を変え、「肉体」が「精神」を変える。それは、同時に起きる。区別することはできない。
 「比喩」をつかうというのは、「ことば」を本来のものとは別の形でつかうということである。そうすると、そのときの「不自然」なことばの動かし方に影響されて、「肉体」が変化する。変化した肉体のなかで、「ことば」はまた別な「比喩」を求めて動いていく。
 詩集のタイトルの「砦にて」と、あまりにもそのことを端的に語りすぎている。

海から登ってくる坂道の上に
私は時の見張りの小さな砦を建てた
その中に棲みつくようになってから
どれほどの季節が過ぎたろう

体がかたくなってきたと思ったら
手足が壁に吸収されていた
窓が開いたり閉じたりしている
あれはかつて私の目だったと思う

精神までが煉瓦の隙間をふさいでいる
いつでも木立の上を浮遊できたのに
水のように広がれるだけ広がった
地面と同じになれたのに

こんどは殻ごと変るほかはない
ほら もう巻貝になったじゃないの
次は白い帆の船 それから光速で飛ぶ
いつかは地球を出ていくのだから

 「砦」を建てる。自分のすみかを「砦」と呼ぶ。そのとき「自分」というのは「精神」で、「砦」は「肉体」かもしれない。それは、便宜上、「精神」「肉体」と呼んだだけで区別はない。内部と外側--と考えればよくわかる。どこからが「内部」かわからない。ぴったりくっついている。「外側」がなければ「内側」はないし、「内側」がなければ「外側」もない。
 というようなことは、まあ、どうでもいいか。
 2連目がとてもおもしろいと思う。
 特に

あれはかつて私の目だったと思う

 「思う」。「思う」って、どういうこと?
 人間(三宅)の「肉体」が「砦」に「変身」してゆく。「体がかたくなってきた」というのは「肉体」で感じることである。そして「手足が壁に吸収されていた」というのも「肉体」そのものが「わかる」ことである。もう「手足」が動かない。「壁に吸収された」。これは「比喩」だけれど、「肉体」が実感する「比喩」である。
 「手足」が「壁」に吸収されて「壁」そのものになったことが「肉体」そのものの実感として「わかる」のに、目だけ、なぜ、違う? なぜ「断定」できない? なぜ「思う」という「ことば」が必要?

 「思う」には、「ことば」が必要だ。「ことば」をつかわずに「思う」ことはできない。--このことと、何か関係があるのだ。
 「ことば」を強調したいのだ。
 三宅は「変身」を書く。その「変身」は、「ことば」があってはじめて可能な「変身」なのである。「肉体」は勝手に「変身」するのではない。三宅がつかう「ことば」にしたがって「変身」するのである。

こんどは殻ごと変るほかはない
ほら もう巻貝になったじゃないの

 「壁」は「殻」ということばで言いなおされる。そうすると、そこからすぐに「巻貝」ということばが動きだし、「肉体」が「巻貝」になる。
 これは、しかし、ちょっと危険だ。「肉体」にとってはかなりきびしい「危険性」を孕んでいる。

次は白い帆の船 それから光速で飛ぶ
いつかは地球を出ていくのだから

 そう「思う」とき、それは「現実」になって「肉体」に跳ね返ってくる。
 しかし、そのことを承知で三宅は書いている。「肉体」はこれから起きることをすべてあらかじめ受け入れている。
 「不安」というものがない。ためらないがない。
 「思う」こと意外に人間はなれない。何かに「変身」するとしても、それは人間が「ことば」をつかって「思う」範囲であることを、三宅は知ってしまっている。わかっている。まるで、「肉体」そのもので、そのことを「おぼえた」ような感じである。

いつかは地球を出ていくのだから

 というのは「未来」のことだが、三宅の「肉体」はそれを「おぼえている」。三宅の「肉体」にとって、「出ていく」は「帰っていく」なのだ。
 この「おぼえている」と「出ていく」「帰っていく」は「水を呼ぶ声」では、逆向き(?)のベクトルで書かれている。

私が病院のベッドで痛みに耐えていたときに
彼女が呼んだのは
ふるさとの皮の上流とおぼしい深い淵
明るい空の色を映すよどみに
さわやかな微風がちりそん皺をつくって
少しずつ水を押し流す
その淵の上空に白いハンモックを吊って
少女は眠っていた
夢の手を
つと伸ばして
彼女は私を華奢な舞台に引き上げてくれた

喪失の苦痛にのたうちまわっていたときには
彼女の水を呼ぶ声が 冥府の果て知らぬ荒野に
細く鋭く こだましたのを覚えている
再び川はやって来た
両岸の見えない幅広い流域を
浅い透明な水がどこまでもさらさらと流れていた
川のまん中に立っている彼女の
体を通って川は流れ
同時に 私の足首を膝を胸を通り抜けて
茫漠とした下流へ走り続けた
たとえそれが冥府の川であったとしても
己が身を貫きながれるものがあると知ったことは
一つの癒しだったのではなかったか

 三宅は、ここでは病院のベッドで「ふるさと」を思い出している。「少女」が出てくるが、それは「ふるさと」時代の(過去の)三宅だろう。「少女」と「私」は「手」を伸ばして接触し、「ひとつ」になる。
 そのとき、「私(三宅)」は少女の「水を呼ぶ声」を思い出す。それは三宅の「肉体」が「覚えていた」ものである。

細く鋭く こだましたのを覚えている
再び川はやって来た

 「覚えている」ものだけが「やって来る」。「覚えている」ものは「過去」である。そしてそれは、「やって来る」。「未来」になる。「過去」は「未来」に「変身」する。「時間」の「過去」「未来」の「定義」は否定される。否定したところに、三宅がいる。そこに「精神」があり、そこに「肉体」がきりはなせないものとして存在する。精神と肉体が硬く結びつき「ひとつ」になるとき、「過去」「未来」はやはり結びついて「いま」という「ひとつ」のものになる。その「いま」を「永遠」と呼び変えても言い。「いま」は「永遠」に「変身」するのである。
 「覚えていた」(おぼえている)のは「肉体」ではなく、「頭」である--というひとがいるかもしれない。でも、私は「肉体」であると信じている。「覚える」ことができるのは「肉体」だけである。
 三宅もまた「肉体」で「おぼえる」ということを実感していると思う。

川のまん中に立っている彼女の
体を通って川は流れ
同時に 私の足首を膝を胸を通り抜けて

 「彼女」と「私」を結びつけるのは「川」(水)なのだが、それだけではない。「体」「足首」「膝」「胸」。「肉体」、「肉体」があるという感覚がふたりを「ひとつ」にする。
 「同時に」ということばで、三宅は、それを強調している。
 「体(肉体)」が「覚えている」ことを、「体(足首、膝、胸)」をつかって「思い出す」。
 それは「過去」を「いま」へひきあげ、さらに「未来」へと動かしていくことである。(永久の「未来」である「冥府」ということばが、この詩には出てくるが……)。そのとき、三宅は「知る」のである。
 「己が身を貫き流れるものがある」。
 「知った」ことは「ことば」になる。「覚えている」ことは「肉体」とおして甦り、甦ることで「ことば」になる。ことばにすることで「知っている」といえる。

 この「知っている」ことを、しっかり「覚えて」(肉体にしみこませて)、ひとは死んで行く。「覚えていること」を「知っていること」に変えることは、死ぬことなのである。「覚えていること」を「知」に変えること(変身させること--昇華させること、というのかもしれない)は、ソクラテスではないが、「死の準備」なのだ。
 --こういうことを書いてしまうのは、「不謹慎」というものなのかもしれないが、三宅の強靱なことばの運動を呼んでいると、「死の準備」ということばを許してくれると思えるので、あえて書いた。






死者の国から―三宅節子詩集 (1978年)
三宅 節子
芸風書院
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