詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江夏名枝『海は近い』(3)

2011-09-22 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(3)(思潮社、2011年08月31日発行)

 「2」の前半。

 聴くでもなく聴く。

 濡れた砂の上で取り交わされた、声にならない閉ざされた言葉と言葉。水際に漂うのは、高まりを見せて、やがて静かになり離れてゆく、誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。

 「聴くでもなく聴く」というのは、意識を集中しないでぼんやりと聴く状態をさすのが一般的だが、江夏は、少しちがった意味でつかっているよう感じられる。「ぼんやり」という意識の「場」の状態をあらわすことよりも、「なく」(ない)という「否定」によって同じことばを繰り返すことの方に、書きたいことが動いているように感じられる。
 最初の「聴く」が「なく(ない)」によって否定され、もうひとつの「聴く」を誘い出す。ことばとしては、そっくりの「聴く」なのに、そこには違いがある。その違いを強調するために「なく(ない)」という否定がある。--「否定」によってつくりだされた、もうひとつの「聴く」。
 何かを否定し、それを「複製」すれば、そこに「ほんもの」と「複製」の、「複製」をつくりあげたもの(江夏)にしかわからない「差」が生まれる。その「差」をのありかを江夏は「1」では「ここ」と呼んでいたのだが、これはいつでも存在する「場」ではない。それは、「ほんもの」と「複製」があると意識する瞬間にだけ「現れる」(このことばも「1」に出てきた)のである。「意識する瞬間だけ」と限定せざるを得ないのは、ことばにおいて「ほんもの」と「複製」の違いはないからである。
 いいかえると、

 聴くでもなく聴く。

 ということばの「聴く」に、とりえあず識別のために、

 聴く(1)でもなく聴く(2)。

 と番号を降ってみて、それを、

 聴く(2)でもなく聴く(1)。

 と、入れ換えてみる。この(1)(2)はほんらい存在しないものだから、次に、その番号を消して見る。そうすると、

 聴くでもなく聴く。

 オリジナルとまったく同じものができあがってしまう。いま、私がやってみたことなど、何の痕跡も残らない。ただ、やってみた「私(谷内)」が、違いを意識できるだけである。
 そういうことがおきる「場」としての「ここ」がある。「ほんもの」と「複製」を意識するときにだけ生まれる「ここ」がある。

 こんなことは、いくら書いても堂々巡りのような、いっこうに生産性のないことなのだが、生産性とは無縁なところにあるのが、詩、なのかもしれない。
 --というような乱暴なことは言わずに、江夏は、ていねいにていねいに、「ほんもの」と「複製」を出会わせることで、「ここ」という「場」の哲学を追いかける。

 濡れた砂の上で取り交わされた、声にならない閉ざされた言葉と言葉。

 この文の、後半部分はとてもおもしろい。「声にならない閉ざされた言葉と言葉」。これは、このまま、わかるはわかるが、というか、わかったような気がするが、ほんとうにわかっているかと問われると、私には、どうも「あやしい」。
 こういう言い方をする?
 私なら、「言葉にならない声と声」と言う。「声」を出すのだが、それは「明瞭な言葉」にはならい。「あー、うー」という「音」だけがもれる。舌が動かない。喉が動かない。夢でうなされて、あげてしまう声のようなものだ。これは、私は何度も経験したことがある。だから、わかる。
 ところが江夏の書いているのは、「言葉にならない声」ではない。
 「声にならない言葉」とはどういうものだろうか。意識のなかには「言葉」があるが、それが「声」(肉体)にならない、つまり「肉体」の奥にありつづけるということだろうか。そこでは、「意識」は目覚めている。そして、その意識は「肉体」に働きかけることを放棄している。
 「意識」は「肉体」を必要としていない。

 「意識」は「肉体」を必要としていない。--ここから、江夏の書いている「ここ」というのは「現実」の「場」(つまり「肉体のある場」)ではなく、あくまで「意識」のなかに現われてくる「場」である、ということができるだろう。
 (と、とりあえず、書いておく。)

 「ここ」が「意識の場」であるから、そこにおける「複製」もまた「意識」に属することがらである。「肉体」には属さない。

声にならない閉ざされた言葉と言葉。

 これは、とても象徴的な「言い方」である。「声」が「言葉」という単語で「複製」されている。「声」は「肉体」をとおって出てくる。だから、「声」というのは、どんなにたくみに「複製」しても、どことなく「違っている」。「肉体」の刻印が残る。だが、「言葉」はあくまで「意識」であるから、それを複製しても、そこには意識の刻印は残らない。いや、複製した本人の意識には刻印は残るだろうが、他人には刻印がわからない。「ほんもの」と「複製」を入れ換えても、区別がつかない。
 その「区別のつかない」ことがらのなかに、ほんとうは区別があるのだ、あらゆる「諧調」というか、連続しながら違っている何かがあるのだ、ということを、江夏は違った表現で、具体的に再現して見せる。

水際に漂うのは、高まりを見せて、やがて静かになり離れてゆく、誰かの捨てた風景のかけらであったのかも知れない。その風景に見捨てられた、誰かの言葉であったのかも知れない。

 かりに「誰かの捨てた風景のかけら」を「ほんもの」としてみるとき、その「複製」は「風景に見捨てられた、誰かの言葉」になる。「風景のかけら」が「言葉」によって複製される。
 「声」が「言葉」によって、意識の内部で「複製」されるように。
 「声」「言葉」という「単語」だけで「複製」を問題にしているときは、「ほんもの」と「複製」の「違い(ずれ)、刻印」というものは見えにくいが、「文章」にしてことばを組み合わせると、違いが浮かび上がる。複数のことばのなかを動く意識--その意識の軌道(?)の違いのようなものがどうしてもそこに刻印されるからである。
 ことばのなかを動く意識の運動--その動きをていねいに再現することで、江夏は「ほんもの」と「複製」の「ずれ」と、その「ずれ」が現われる「ここ」を明示する。
 より具体的に言うと……。
 「誰かの捨てた風景」「風景に見捨てられた、誰かのことば」ということばの運動のなかでは、「捨てた」「(見)捨てられた」と動詞の動きが違ってくる。「主語」(というべきか、主題というべきか……)が違ってくると、動詞が違ってくる。「主語」を「複製」するとき、たとえば「声」を「言葉」という具合に「形」を変えて「複製」すれば、それにしたがって「動詞」の「複製」も形を変える。
 その変化が「ほんもの」と「複製」の違い、というか、刻印・痕跡である。
 それは、意識の運動する「ここ」に、意識が運動する「とき」だけ、あらわれる。
 江夏の書いている「ここ」は「場」であると同時に、「時間」でもある。

 このことは、ここで考えるのをやめると、そのまますっきりと落ち着くことなのかもしれないが……。
 私はさらに考えてしまうのである。

 「風景のかけら」。これは、特別めずらしい表現ではないけれど--それって、「現実」? 違うでしょう? 風景はたしかにある。しかし、それは「かけら」ではない。「かけら」はあくまで「意識」が処理した結果である。「風景のかけら」はすでに「言葉」なのだ。すでに「複製」されたものなのだ。
 「ほんもの」は最初からないのだ。

 そうすると、どうなるだろう。
 「1」にもどってみると、どうなるだろう。

 くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。

 書き出しの「くちびる」は「ほんもの」? 最初から「複製」ではないのか。
 だいたい江夏は「くちびる」と書いていない。「くちびるの声」と書いている。「くちびる」と「声」が「の」ということばでつなぎ合わされた瞬間から、もう、「複製」だけの世界になっているのである。
 「波打ち際」も「波打ち際」という「現実」ではなく、「波打ち際」と「言葉」で「複製」されたものなのである。

 波打ち際に辿りついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 この1行は、

 複製に辿りついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 ということになる。




海は近い
江夏 名枝
思潮社
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