詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代「賜物」

2015-04-01 11:50:11 | 詩(雑誌・同人誌)
小池昌代「賜物」(「別冊詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 小池昌代「賜物」は、おもしろいけれど、そのおもしろさをことばにしようとするとつまずいてしまう。

歯のなかを触りますよ と先生が言う
わたし 何も感じない
笑いだしてしまった
お湯が沸いています
誰か ガスをとめて
触っていますよ と先生が言う
とてもとても深いところ もし
オイタミを感じたら
すぐに左手をあげてください
わたし 何も感じない
わたし どこにいるの

 「わたし 何も感じない」という行が繰り返される。歯の治療をしている。「何も感じない」というのは「痛み」を感じないということ。歯の内部、肉体の内部、歯の神経に触っているが、その神経は痛みを感じない。
 でも、ほかのことは感じている。ガスにかけたお湯が沸いている。その音がする。それを「感じている」。これは実際には見ているわけではなく、たぶん音から想像していること。そして「笑いだしてしまった」というのも何かを「感じている」ということ。先生が「痛いかもしれない」と心配しているが、「わたし」は痛みを感じない。
 その「違い」が「わたし どこにいるの」という「疑問」を誘い出す。
 「先生が想像するわたし(痛みを感じる患者)」と、「わたしが実感するわたし(痛みを感じない患者)」が一致しない。「わたし」が「分離」している。あるいは、「先生の心配(予測)」と「わたしの実感」が「切断」され、切断によって生まれか「間(ま)」が生まれている。この「分離(切断)」によってできた「間/違い」をことばが動いていく。「間」を埋めて、「切断」を「接続」にしようとして、いままでとは別のことば(違ったことば)が動いていく。(広すぎる「間」は「どこ」にいるかわからなくなる。「間」を自分の知っていることで埋めれば、そこは「どこ」ではなく「ここ」になる。)
 「歯に触る」「お湯が沸く」という「現実」とは別のことばが動いていく。その「別のことば」が詩になる。いままで存在しなかったことば。「間」が引き出したことば、ということになるかもしれない。「間」は「魔」のように、小池を刺戟したのだ。そこからはじまる「間違い」が、詩。
 先生は「深いところ」と言った。その「深いところ」は、

確かに深い わたしのなかをわたしは
井戸の底に落ちたスマホが 月夜の晩に光っている
あれはわたしからの着信光だ

 「井戸」と言い換えられている。「井戸の底」という「比喩」になる。歯の治療は、歯のなかに「井戸」を掘るのに似ている、というわけだ。その比喩のなかで、痛みとは光っている。刺戟に反応する脳の電波が光っている--と「わたし」は想像している。実際には「痛み」を「感じない」のだが、もし「痛み」というものがあるとするなら、それは「井戸の底のスマホの着信光」のようなものだろうと、想像している。「わたしのなかを」想像している。想像することができる。なぜ、想像することができるかといえば、それまでにいろいろなことを体験してきていて、それを覚えているからである。たとえば、「井戸」を、たとえば「スマホの着信光」を覚えている。だから、それを語る。「想像」は、「想像」といいながらも「体験」の別称である。
 そのとき、その「想像」を語ることばは「体験」を踏まえているのに「現実の描写(実際の体験そのものの描写)」ではない。一種の「間違い」。「現実」としては、歯はどんなに掘っても井戸にはならない。歯に掘った穴にスマホが落ちることはないから、そこでスマホが着信光を光らせることもない。でも歯を掘る(掘られる)ことはできる。掘った穴にならスマホは落ちることができる。「井戸」は「掘る/落ちる」という「動詞」という「間違いのない」肉体の体験をとおって、確かな「比喩」になり、その確かさをもとに、想像力は暴走する。
 想像の暴走は、歯の小さな(深い)穴に住む「わたし」を呼び出す。「月夜の晩」の「月」は「竹取物語」(かぐや姫)」を呼び出す。竹のなかで光を発するかぐや姫。歯の小さな穴は、竹の節と節とのあいだ。

歯のなかに住んでいたのは昔のこと
ある日 お気に入りの 赤い帽子をかぶり
引っ越ししたいきさつを わたしは覚えていない
お天気のいい日だった
持ち物は少ないから 移動は簡単だった
自分のことなのに 恥ずかしいが
わたしの外で暮らすわたしは かなり愉快だ
幼いとき わたしを育ててくれたのは
名も知らぬ翁と媼だった
やさしい人たちで
わたしのことを おお賜物よと かわいがってくれた
彼らは死に
一人になったわたしは
いまはむかし
竹林の竹の節にいる
ときどきぼおっと光るらしい

 この「想像」のことばの暴走のなかに「わたしの外」ということばがある。「わたしのなかを」動いていたことばは、いつのまにか「わたしの外」にいる。「わたしのなか」もことばにしてしまうと、それは「わたしの外」になるのか。
 そもそも「なか」と「外」とは何なのか。何がそれを区別(分節)しているのか。
 「わたし どこにいるの」と最初に書かれていたが、ことばを動かすと、「わたし」は「わたしのなか」をどこまでも入っていくことができるし、「わたしのなかのわたし」を「外」に出すこともできる。「わたしのなか(内)」と「わたしの外」は区別がない。「ことばの運動領域」として違いがない。
 そして同じように、歯を「掘る(治療する)」と井戸を「掘る」、井戸のなか(底)に「ある(いる)」、竹のなかに「いる」も区別のがなくなる「場」である。「動詞」がつくりだす「場」が、「もの」をそのときそのときに応じて「分節する」。「区別して生み出す」。
 それを論理的に説明するのではなく、断言してしまうのが詩なのだが……。
 どうしてこういう奇妙な「分節」(何かを生み出し、-それが比喩になる)が起きるのか、それを可能にしているのは何なのかと考えるとき、私は「動詞」の働きを思うのだ。「動詞」を肉体が反芻し、肉体が動く。その動きが、かけはなれた「歯と井戸」「井戸と竹の中」を接続させ、その結果として(?)「歯と竹の中」をも繋いでしまう。「わたしのなか」を分節しながら「わたしの外」を生み出して行く。
 「歯(の治療)」という現実が「井戸の底のスマホの光」「竹のなかの光(かぐや姫)」という比喩になっていく。「わたし」の内部からの動き(「動詞」をとおして肉体を動かすこと)が、「いま/ここ」をさまざまな形に「分節」し、「比喩」となってあらわれてくる。
 それが「わたし」と「他者」の「間」を埋めて、接続する。そういうことが、この小池の詩のなかで起きていることである。



 今回の(今回も?)感想は、詩からだんだん離れてしまった。論理もかなり飛躍している。わかりにくいと思う。特に後半の「比喩」について書いている部分は、わかりにくいと思う。
 実は、書いている途中で、パソコンが壊れてしまった。書いた文章が保存できなくなり、突然終了してしまった。そのため何を書いたか思い出しながら書き直したのだが、このために最初に考えたことと、二度目に考えたことがごちゃごちゃにまじってしまった。こんなことを書くつもりはないのだが、と思いながら端折って書いてしまった。そのために、「私だけがわかっている」つもりのことが、強引に入り込んでしまった。

 先日、福岡で「現代詩セミナー」があった。そこで穂村弘、東直子と話す機会があった。穂村も東も「イメージ」を重視して短歌を読んでいた。「イメージ」を味わう、という感じ。結社は、私の印象では「イメージの味わい方」の継承組織(伝達組織)という感じがした。
 私は「イメージ」を「比喩」と読み替えながら、ずいぶん読み方が違うと感じた。
 そのことに関連して、私はある人に、つぎのような私信を書いたことがある。「比喩」について考えていること。

 どんなことばでも(何語でも)、「動詞」は「肉体」に直接かかわってくるので、それを手がかりにすれば「人間」に出会える。「動詞」が共有できれば、信頼できる。水を飲む。それが飲めるものか、飲めないものか。実際に、相手が飲んで見せてくれれば、飲める。その人が、私のことを同じ人間として向き合ってくれていることもわかる。そして、飲むという動詞をとおして、水を理解し、湯を理解し、ミルクを理解し、ジュースを理解し、酒を理解する。飲むという動詞が世界の名詞を増やしていく。こういうことが「比喩」についても言える。「イメージ」ではなく、動詞が、たとえば水とミルクを共通の「人間(いのち)」にする。そこに「比喩」の、比喩としての「動詞(いのち)」の動きがある。そんなふうに感じる。
 さらにその人間の生き方(文化)も見えてくる。何をいつ飲み、何を飲まないか。飲むとどうなるか。飲むと何をするか。世界が「動き」、人間そのものの「生きる」姿として見えてくる。
 動詞をつかみ、その動詞を自分の肉体で反復できれば、どんなことでも肉体は理解できると私は考えている。
 いまの世の中は、肉体を無視して情報があふれている。肉体を裏切ったことばが蔓延していて、そういうことばを使いこなすと「頭がいい」ということになっている。それはたしかに「頭がいい」のだけれど、その「頭のよさ」というのは他人を支配するためのもの、「権力」のヒエラルキーのようなもの。「こんなことも知らんのか」という言い方のなかにある権力構造。
 そういうものに出会ったとき、どこで踏ん張るか。どうやって、ことばを肉体そのものとして動かすか。
 詩についても考えるけれど、それよりも人間とことばの関係はどうなっているのか、ということを私は考えたい。

 そういうことも考えているので、私の「感想」は、たぶん詩の「正しい紹介」にはなっていない部分が多い。私のブログに反響というものはほとんどないのだが(まったく読まれていないから反響があるはずもないのだが)、珍しくある読者から「詩を読ませる工夫が足りない」と批判をいただいたので、私がどんなことを考えながら詩の感想を書いているかを補足として書いてみた。
詩についての小さなスケッチ (五柳叢書 101)
小池 昌代
五柳書院

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バスに乗っていると、

2015-04-01 01:13:02 | 
バスに乗っていると、

バスに乗っていると、
これから行くあの部屋から音楽が聞こえてくる。

ガラスのテーブルを挟んで、
向かい合って椅子がある。

沈黙、三十秒。
風景のなかで止まったバス。

あの部屋で、私はバスに乗って聞いた音楽を思い出す。
本棚に本が二列に並んでいる。

バスに乗っていると、
これから行くあの部屋から音楽が聞こえる。






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