江口節『果樹園まで』(コールサック社、2015年04月21日発行)
江口節『果樹園まで』には「苺」「枇杷」「無花果」と果実の名前のタイトルが並ぶ。果実のことを書いている、ように見えるが、読み進むと「ことば」の「ある状態」を「果実」という「比喩」にしているように思えてくる。
「柿」という作品は、「ことば」を「舌」と言い換えている。
この作品は「意味」が強すぎて、それこそ「十分に達した味わい」かどうか評価が分かれるところだろうけれど、江口の今回の詩集のテーマを端的に語っている。
ことばが「十分に達した味わい」をもつとき、それは詩。
その十分な味に達したことばを味わうのは、舌ならぬことば自身でもある。
詩人の書いた「十分に達した(ことばの)味わい」を、読者が自分の「舌」の上で動かして(詩人のことばを肉体で反芻して)、「肉体」のなかに取り入れる。読者は自分の好みにあったものしか認めない「偏狭」な人間だが、そのことばの「味」をうまいと感じ、それを食べるとき、そのとき読者の「肉体」のなかで、それまで読者が育ててきたことばが変化する。そういう瞬間が詩なのだ。
詩人にしても、「舌」で自分の書いたことばの味を確かめながら「十分に達した味わい」を感じたときにだけ、それを詩として提出するのだが。
そういうテーマのもとに、「ことば」を江口は、さまざまに言い換えている。「無花果」では「口の開き方」という表現になっている。
「土の下」を「肉体のなかから」と、「樹液」を「感情」と読み替えれば、それはそのまま人間のことばが発せられる瞬間(ことばが口から出てくる瞬間/口の開き方)のことを書いたものであるとわかる。
江口自身、次のように書き換えている。
感情を抑えきれなくなって、ことばが動く。しかし、感情を爆発させるのではなく、抑えきれなくなったものを、ゆっくりと、なんとか押し殺そうとして、それでも滲み出てしまう感情--そういうときの「十分に達した味わい」のことは、次のように書かれる。
「完熟」の「みずみずしく あまく」、内部からにじんでくるもの。それは「果実」であって、「果実」ではない。だからこそ、次の連で「一語」、さらには「ことば」と言い換えられる。
ひとの「肉体」のなかで熟成して、あふれてくる「感情」のことば。それは、もう「ことば」でもない。「一語一語」明確に「意味」をたどれるとしても、ひとは「意味」など味わっていない。あふれ出てくる感情を、そのくずれるような豊かさを、それこそ「口の中」、「舌」、つまり「肉体」そのもので味わう。
「枇杷」という作品では「果肉/こころ(傷つきやすいこころ)」と「果汁/声」が交錯して、その交錯の中に「果実」と「人間の肉体」が入れ代わる。
「果実」と「人間の肉体」の入れ代わりは、それを食べるもうひとりの人間(「枇杷」である私の対話者/恋人/読者)の「てのひら」も濡らす。詩は、読者の「肉体」そのものにも影響してくる。そうであるなら、「声/ことば」も同じように他者に影響する。
「水蜜桃」は、そういう「ことば/詩」を新鮮にたもつことの難しさを書いている。「ことば/詩」はつねに解釈され(誤読され)、汚れていく。私の感想も江口のことば(詩)を切り刻み、傷つけ、汚してしまう類のものだが、どんなに「誤読」されようと生き残る力のあるものが詩である。私はそう思っているので、「誤読」といっしょに詩を紹介することにしている。
どんなに「誤読」されても生き残ることばのことを、江口は「やっかいな」という「否定語」をつかうことで、逆に「肯定」している。
あとは、もう私の「注釈」はなし。全行を引用する。
江口節『果樹園まで』には「苺」「枇杷」「無花果」と果実の名前のタイトルが並ぶ。果実のことを書いている、ように見えるが、読み進むと「ことば」の「ある状態」を「果実」という「比喩」にしているように思えてくる。
「柿」という作品は、「ことば」を「舌」と言い換えている。
硬い柿は籠に入れて
しばらく 眼に食べさせる
弾力が出るまで
舌はわがままで 偏狭で
十分に達した味わいしか
認めない
柿、と言うて
詩、と言うて
この作品は「意味」が強すぎて、それこそ「十分に達した味わい」かどうか評価が分かれるところだろうけれど、江口の今回の詩集のテーマを端的に語っている。
ことばが「十分に達した味わい」をもつとき、それは詩。
その十分な味に達したことばを味わうのは、舌ならぬことば自身でもある。
詩人の書いた「十分に達した(ことばの)味わい」を、読者が自分の「舌」の上で動かして(詩人のことばを肉体で反芻して)、「肉体」のなかに取り入れる。読者は自分の好みにあったものしか認めない「偏狭」な人間だが、そのことばの「味」をうまいと感じ、それを食べるとき、そのとき読者の「肉体」のなかで、それまで読者が育ててきたことばが変化する。そういう瞬間が詩なのだ。
詩人にしても、「舌」で自分の書いたことばの味を確かめながら「十分に達した味わい」を感じたときにだけ、それを詩として提出するのだが。
そういうテーマのもとに、「ことば」を江口は、さまざまに言い換えている。「無花果」では「口の開き方」という表現になっている。
口の開き方
というものが あるらしい
どんなにか しゃべりたくても
いさんでも もの申したくとも
じゅんじゅんと
土の下から
樹液はのぼってくる
「土の下」を「肉体のなかから」と、「樹液」を「感情」と読み替えれば、それはそのまま人間のことばが発せられる瞬間(ことばが口から出てくる瞬間/口の開き方)のことを書いたものであるとわかる。
江口自身、次のように書き換えている。
内側で
熟れていくおもみに耐えかねて
口は
おのずから開きはじめる
感情を抑えきれなくなって、ことばが動く。しかし、感情を爆発させるのではなく、抑えきれなくなったものを、ゆっくりと、なんとか押し殺そうとして、それでも滲み出てしまう感情--そういうときの「十分に達した味わい」のことは、次のように書かれる。
おずおずと
ついに 十字のかたちで
完熟の
みずみずしく あまく
「完熟」の「みずみずしく あまく」、内部からにじんでくるもの。それは「果実」であって、「果実」ではない。だからこそ、次の連で「一語」、さらには「ことば」と言い換えられる。
ひりひりと血の色の
あふれでる一語一語を
ゆびさきにはりつく薄皮で
ようやく つないで
そのとき
もう ことばではないのかもしれない
とろとろ
口の中で 果肉がくずれて
ひとの「肉体」のなかで熟成して、あふれてくる「感情」のことば。それは、もう「ことば」でもない。「一語一語」明確に「意味」をたどれるとしても、ひとは「意味」など味わっていない。あふれ出てくる感情を、そのくずれるような豊かさを、それこそ「口の中」、「舌」、つまり「肉体」そのもので味わう。
「枇杷」という作品では「果肉/こころ(傷つきやすいこころ)」と「果汁/声」が交錯して、その交錯の中に「果実」と「人間の肉体」が入れ代わる。
そっと
指の腹でふれると、わかるだろうか
かすかなうぶ毛だ
尖端にさわった
と、みるみる傷つき
しなびる、こころがあって
むぞうさに
枝からもぎとれば
軸につながる皮がやぶれ
果肉は
しだいに、くろずんでいく
いずれ
皮の剥かれる時は来る
ひりひり
あ、と声も出るだろう
ぽたぽた
てのひらも果汁で濡れるだろう
(谷内注・「もぎとる」の「もぐ」は原文では漢字。)
「果実」と「人間の肉体」の入れ代わりは、それを食べるもうひとりの人間(「枇杷」である私の対話者/恋人/読者)の「てのひら」も濡らす。詩は、読者の「肉体」そのものにも影響してくる。そうであるなら、「声/ことば」も同じように他者に影響する。
「水蜜桃」は、そういう「ことば/詩」を新鮮にたもつことの難しさを書いている。「ことば/詩」はつねに解釈され(誤読され)、汚れていく。私の感想も江口のことば(詩)を切り刻み、傷つけ、汚してしまう類のものだが、どんなに「誤読」されようと生き残る力のあるものが詩である。私はそう思っているので、「誤読」といっしょに詩を紹介することにしている。
どんなに「誤読」されても生き残ることばのことを、江口は「やっかいな」という「否定語」をつかうことで、逆に「肯定」している。
あとは、もう私の「注釈」はなし。全行を引用する。
あらかじめ剥いておくのは
むずかしい
みるみる褐色にやつれてくる
クリーム色の実
剥いて 切り分け すみやかに
食べる
したたり
などと生やさしいものではない
日がな ぬれそぼつ
雨の果実
水、多き心臓のかたち
押せば
たちどころに指の痕
すいみつとう
ひとつ
あばらやの奥に隠し持つ
やっかいな種族
気まぐれに
ミューズに呼び出され
うつそみの
言の葉繁く陽の下に
みるみる褐色にやつれていく
詩集 草蔭 (21世紀詩人叢書) | |
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