詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江口節『果樹園まで』

2015-04-22 15:23:45 | 詩集
江口節『果樹園まで』(コールサック社、2015年04月21日発行)

 江口節『果樹園まで』には「苺」「枇杷」「無花果」と果実の名前のタイトルが並ぶ。果実のことを書いている、ように見えるが、読み進むと「ことば」の「ある状態」を「果実」という「比喩」にしているように思えてくる。
 「柿」という作品は、「ことば」を「舌」と言い換えている。

硬い柿は籠に入れて
しばらく 眼に食べさせる
弾力が出るまで

舌はわがままで 偏狭で
十分に達した味わいしか
認めない

柿、と言うて
詩、と言うて

 この作品は「意味」が強すぎて、それこそ「十分に達した味わい」かどうか評価が分かれるところだろうけれど、江口の今回の詩集のテーマを端的に語っている。
 ことばが「十分に達した味わい」をもつとき、それは詩。
 その十分な味に達したことばを味わうのは、舌ならぬことば自身でもある。
 詩人の書いた「十分に達した(ことばの)味わい」を、読者が自分の「舌」の上で動かして(詩人のことばを肉体で反芻して)、「肉体」のなかに取り入れる。読者は自分の好みにあったものしか認めない「偏狭」な人間だが、そのことばの「味」をうまいと感じ、それを食べるとき、そのとき読者の「肉体」のなかで、それまで読者が育ててきたことばが変化する。そういう瞬間が詩なのだ。
 詩人にしても、「舌」で自分の書いたことばの味を確かめながら「十分に達した味わい」を感じたときにだけ、それを詩として提出するのだが。

 そういうテーマのもとに、「ことば」を江口は、さまざまに言い換えている。「無花果」では「口の開き方」という表現になっている。

口の開き方
というものが あるらしい
どんなにか しゃべりたくても
いさんでも もの申したくとも

じゅんじゅんと
土の下から
樹液はのぼってくる

 「土の下」を「肉体のなかから」と、「樹液」を「感情」と読み替えれば、それはそのまま人間のことばが発せられる瞬間(ことばが口から出てくる瞬間/口の開き方)のことを書いたものであるとわかる。
 江口自身、次のように書き換えている。

内側で
熟れていくおもみに耐えかねて
口は
おのずから開きはじめる

 感情を抑えきれなくなって、ことばが動く。しかし、感情を爆発させるのではなく、抑えきれなくなったものを、ゆっくりと、なんとか押し殺そうとして、それでも滲み出てしまう感情--そういうときの「十分に達した味わい」のことは、次のように書かれる。

おずおずと
ついに 十字のかたちで
完熟の
みずみずしく あまく

 「完熟」の「みずみずしく あまく」、内部からにじんでくるもの。それは「果実」であって、「果実」ではない。だからこそ、次の連で「一語」、さらには「ことば」と言い換えられる。

ひりひりと血の色の
あふれでる一語一語を
ゆびさきにはりつく薄皮で
ようやく つないで

そのとき
もう ことばではないのかもしれない
とろとろ
口の中で 果肉がくずれて

 ひとの「肉体」のなかで熟成して、あふれてくる「感情」のことば。それは、もう「ことば」でもない。「一語一語」明確に「意味」をたどれるとしても、ひとは「意味」など味わっていない。あふれ出てくる感情を、そのくずれるような豊かさを、それこそ「口の中」、「舌」、つまり「肉体」そのもので味わう。

 「枇杷」という作品では「果肉/こころ(傷つきやすいこころ)」と「果汁/声」が交錯して、その交錯の中に「果実」と「人間の肉体」が入れ代わる。

そっと
指の腹でふれると、わかるだろうか
かすかなうぶ毛だ
尖端にさわった
と、みるみる傷つき
しなびる、こころがあって

むぞうさに
枝からもぎとれば
軸につながる皮がやぶれ
果肉は
しだいに、くろずんでいく

いずれ
皮の剥かれる時は来る
ひりひり
あ、と声も出るだろう
ぽたぽた
てのひらも果汁で濡れるだろう
             (谷内注・「もぎとる」の「もぐ」は原文では漢字。)

 「果実」と「人間の肉体」の入れ代わりは、それを食べるもうひとりの人間(「枇杷」である私の対話者/恋人/読者)の「てのひら」も濡らす。詩は、読者の「肉体」そのものにも影響してくる。そうであるなら、「声/ことば」も同じように他者に影響する。

 「水蜜桃」は、そういう「ことば/詩」を新鮮にたもつことの難しさを書いている。「ことば/詩」はつねに解釈され(誤読され)、汚れていく。私の感想も江口のことば(詩)を切り刻み、傷つけ、汚してしまう類のものだが、どんなに「誤読」されようと生き残る力のあるものが詩である。私はそう思っているので、「誤読」といっしょに詩を紹介することにしている。
 どんなに「誤読」されても生き残ることばのことを、江口は「やっかいな」という「否定語」をつかうことで、逆に「肯定」している。
 あとは、もう私の「注釈」はなし。全行を引用する。

あらかじめ剥いておくのは
むずかしい
みるみる褐色にやつれてくる
クリーム色の実
剥いて 切り分け すみやかに
食べる

したたり
などと生やさしいものではない
日がな ぬれそぼつ
雨の果実
水、多き心臓のかたち
押せば
たちどころに指の痕

すいみつとう
ひとつ
あばらやの奥に隠し持つ
やっかいな種族

気まぐれに
ミューズに呼び出され
うつそみの
言の葉繁く陽の下に
みるみる褐色にやつれていく

詩集 草蔭 (21世紀詩人叢書)
江口 節
土曜美術社出版販売
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嵯峨信之を読む(47)

2015-04-22 10:24:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(47)

85 蛇・蛭--その他

 観念が観念のまま「論理」を語るのではなく、観念がイメージになって動いていく。

その歌はまちがつている
魂の中から蛇を追いださずに
夏の小さな死を追いだした
消えてしまつた女よ
その向うにお前の姿をかくした大きな扉がへばりついて
二匹の蛇が錠前のように固く絡み合つている

 「歌」がある。その「歌」は「まちがつている」。なぜなら、「魂のなかから蛇を追いださずに/夏の小さな死を追いだした」というのだが、「蛇」と「死」は具象(生き物)と観念(思考)であり、代替できるものではない。そのために、これだけでは「意味」が追いきれない。
 「歌」があり、「魂」がある。その「魂」のなかには「蛇」がいて「死」は存在しない。
 そのあとに出てくる「女」は「消えてしまつた」のだから、「死」なのか。「魂」から追い出した「小さな死」、それが「女」なのか。
 「蛇」と「女」というと、どうしてもエデンの園を思い出すが、「魂」が「蛇」を追い出さなかったというのは、「欲望」を追い出さなかったということだろうか。「生きる力」を追い出さずに、「欲望の死」を追い出したのか。「欲望の楽しさ」をささやく「歌」は「まちがつている」のに、「まちがい」に気づかずに、「欲望の死/純潔/無垢」を追い出してしまった。最初の「まちがつたいる」は女に対して言っていることばになる。
 そうだとしたら「消えてしまつた女」とは、「欲望を刺戟する女/生きる力を刺戟する女」ではなく、蛇にそそのかされる前の女、「欲望を知らない女」ということになるかもしれない。「純潔の女/無垢な女」と言いなおしてもいいかもしれない。
 「無垢な女」は扉の向うに消えてしまい、その扉には蛇が錠前のように絡み合っている。「無垢な女」を追い出したというよりも、扉のこちら側に入ってこれないように、内側からカギをかけている。
 「固く絡み合つている」「二匹の蛇」とは男と女だろう。「無垢/純潔」の女は消えた。追い出された。魂は「無垢/純潔」の女を拒絶し、欲望の女を受け入れた。二匹の蛇は欲望を生きている。エロチックな幻が欲望を刺戟してくる。「消えてしまつた女」を恋しく思い出しているのではなく、「消えてしまつた女」を、拒絶し、官能を楽しんでいるように読むことができる。欲望を選んだ二人を書いているように思える。
 こう読んでくると、問題が二つ残る。
 一つは、欲望を生きることは間違っているのか(「その歌」はほんとうに間違っているのか)。蛇にそそのかされるままになっている、「その歌」を実行しているなら、「その歌」は「欲望」にとっては「正しい」歌になる。
 もう一つは、なぜ「純潔/無垢」を「死」と呼んだのか。「純潔/無垢」は肯定的な意味で語られることが多い。「死」は逆に否定的な意味で語られることが多い。
 「肯定」と「否定」が、それこそ二匹の蛇のように固く絡み合って、「真実」を閉ざすカギになっている。

 何が間違いで、何が正しいか。それは、わからないのだ。自分をどこに置くかによって、世界の見え方が瞬間的に入れかわってしまう。わからないまま、ことばが動いている。「わからない」ということが、詩なのだ。「わかる」では、論理になってしまう。
 「わからない」けれど、刺戟がある。いろいろなことを考えてしまう。感じてしまう。それが詩なのだ。
 女をそそのかしたエデンの園の蛇も「わからない」存在である。いや、部分的には「わかる」が、それがどういう「結果」をもたらすか、「わからない」。どういう「結果」になるから「わからない」けれど、欲望が刺戟されたことは「わかる」。ひとは、どうしても「遠い先にある結果/わからない何か」ではなく、目の前の「わかる」ことにしたがって動いてしまうのものなのだ。

 このことは、何も聖書の物語のことだけを指しているのではない。
 詩を書くというのは、その「わかる/わからない」の交錯に似ている。インスピレーション。これは、それを受けた人間には「わかる」。そのインスピレーションにしたがってことばを動かしていけば、その結果どういう詩ができるかは、わからない。けれども、いま、急に襲ってきたインスピレーションが「決定的」であることは「わかる」。だから、その「わかる」を手がかりに「わからない」方向へ向かって動きはじめる。
 そういうものが詩なのだから、これを「論理」的に「わかる」ものにかえてみても、それは「わかる」ことにはならない。
 「わからない」まま、一瞬一瞬を「わかる」。その「間違い」を繰り返すしかない。

死によつてしか生きることができないといつた女が
さいご
ほのぬくい野いちごの赤い実を食べた
そして濡れた唇のまま闇のなかへ消えさつた

 「死よって」「生きる」。これは矛盾。でも、「論理的」には矛盾であっても、「感情的」には、こういう表現は「定型」となっている。自分のなかの何かを「生かす」ためには「肉体」としては死ぬしかない。ソクラテスの死は、その典型である。ソクラテスは「感情的」というよりは「論理的」なのだが……。ソクラテスではないふつうのひとは、それを実践できない。また「論理的」にそう感じるというよりも「感情」として、そういうことばに思いを託す。「論理的」に考えると矛盾しているので「わからない」が、その矛盾をことばにしてしまう「激情」、その「激しさ」は「わかる」。わかったからといって、どうすることもできないのだけれど。
 こういう、どうにもならないことを、私は「間違い」と呼ぶ。嵯峨の「まちがつている」ということばに刺戟されて、「間違い」と呼びたい気持ちになっている。
 そういうことを考えながら、そのめんどうくさいあれこれを瞬間的に忘れて、

ほのぬくい野いちごの赤い実を食べた

 この「ほのぬくい」が肉感的でいいなあと思う。はっきりしない、ぬくみ。ほのぬくい裸を連想する。「野いちごの赤い実」は蛇いちご。毒いちご。ほんとうに死ぬかどうか、私は食べて試したことがないので知らないが、毒のぴりぴりした刺戟を思い、何か恍惚としてしまう。次の行に出てくる「濡れた唇」も肉感的だ。
 「死ぬことによつてしか生きることができない」という激しい激情(激しすぎて「精神」と勘違いしそう)と肉感的な表現がからみあっている。
 激しい精神と感情、論理と肉体が、激しさを利用して、互いの領分を越境して融合する感じだ。「対」を構成するものが、越境し、融合し、化学反応し、別の「対」を生み出し、さらに越境するといえばいいのかもしれない。

 そういう激しい運動を見てきたあと(激しいことばの運動を読んできたあと)、

人間の中で時はわけもなく育つが時の中で人間が育つことは難しい

 こういう一行に出会うと、
 うーん、
 とうなってしまう。
 その前の行は、

まちがつてぼくのなかにとどまる者の顔をたしかめるように
ぼくは死者の手から灯りを奪つてくる
照らされた顔を見てぼくは驚く
遠いところでぼくを裏切るものが他ならぬこのぼくだつたのだ
人間の中で時はわけもなく育つが時の中で人間が育つことは難しい

 書き出しの六行とつないでいいのかどうかわからないけれど、私はつないでしまう。「消えてしまつた」のは「無垢な女/死のように純潔な女」ではない、とどまっているのは「欲望の女」ではない。「ぼく」こそが「ぼく」を裏切ってとどまっている。すべては「ぼく」のせいなのに、ひとはだれでもそれを「他人」のせいにするということか。
 この一行を書くために、嵯峨は、どれだけの「時」を必要としたか。どれだけの「行(ことば)」を必要としたか。
                           2015年04月21日(火曜日)
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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破棄されたの詩「ポルトについて」のための注釈(33)

2015-04-22 01:33:51 | 
破棄されたの詩「ポルトについて」のための注釈(33)

「折り畳み椅子」にも故郷はあっただろうか。川に向かって石段を下りていったとき、曲がり角の土産物屋の前で老人が座っていた。通りすぎるときに目が合って「おまえの故郷はどこか」と聞いてきた。立ち止まると「この折り畳み椅子にも故郷はある。おまえにもあるだろう」とつづけた。ポルトガル語はわからないが、なまったスペイン語くらいの気持ちで聞き返した。「そうすると、この折り畳み椅子には兄弟や姉か妹もいたのかい。」「ああ、だれかが産んだことには間違いがない。産んでくれなければ、この世には存在しない。」

聴き間違いがなければ、老人はそう言った。耳の穴の周りに毛がいっぱい生えていたので、私のことばはとどいたかどうかわからない。老人は私を椅子に座らせ、それからコップにポルトワインを注いでくれた。その味がきのうの夜「たばこを吸う犬」というレストランで飲んだワインに似ていると言おうとした。すると「おまえの折り畳み椅子は犬を飼っていたことがあるのかい。」と問いかけてきた。「あ、いつも折り畳み椅子を広げるのを待って、その下にもぐりこんで寝ている。」知らない国のことばなので間違っているかもしれないが、そんな会話をした。家で留守番をしている犬を思い出して、なつかしくなった。

旅から旅へ動いていくとき、「故郷のように安心して休める場所はどこにあるか。自分の折り畳み椅子をもっていると、とてもいいものだ。」ホテルにかえって、ゆっくり辞書を引きながら会話を思い出すと、そういうことを言ったようだ。あのあと、老人はもう一杯ワインを注ぐと店の奥へ引っ込んでしまった。細い階段を太陽の光が白く照らしている。どこかで水道の水を流し、ふたたび止める音がする。階段を下りてきた犬が、「おまえはだれだ、いつもと違う人間がいる」という目で見つめていたなあ。



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