アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(★★★★★)
監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 マイケル・キートン、ザック・ガリフィアナキス、エドワード・ノートン
この映画は「舞台」(芝居)を題材に映画にしているのだが、うーん、おもしろい。「芝居」(舞台)になっているのが刺戟的だ。
ふつうは映画が「芝居」になってしまったら見ていられない。松尾スズキ監督「ジヌよさらば~かむろば村へ~」(★)もその一つだった。台詞で描いておもしろい部分を「映像紙芝居」にしているから興ざめする。芝居を映せば映画になる、芝居ではことばでしか描けなかったところを映像で補えば映画になる、というものではないのだ。それでは映画を「芝居」におとしめている。
この映画は逆。映画の文法を守りながら、「芝居」に昇華し、映画を超えて「芝居」になっている。
「お、芝居だ、舞台だ」と思わせるのは、二つの要素。映像と音(音楽)。あ、映画も映像と音が勝負なのだけれど、その映像と音の処理が「芝居」そのもの。「芝居」の文法を駆使している。
映像からいうと、「長回し」を思わせる切れ目のない映像がこの映画のいのち。どうやって撮影し、編集したのかわからないが、カメラが延々と移動し、映像にとぎれるところがない。まるで舞台の上の役者の演技を見ているよう。舞台では「幕」が降りるまで観客は役者の動きを見つづける。主役から脇役へ、さらに主役へと見ながら視線は動くが、観客の「視界」と中断されない。連続している。その登場人物を視線で追いかけながら「事件」の現場に立ち会っている感じ、視線の「連続」感が延々とつづく。楽屋、舞台、舞台裏、さらに劇場の外まで、カメラはひとつながりで動いていく。「さすらいの二人」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、ジャック・ニコルソン、マリア・シュナイダー主演/★★★★★)のラストシーンのようにカメラが格子(狭い鉄の窓飾り)をくぐりぬけたりもする。この「持続感(連続感)」がたまらない。息がぬけない。これが「芝居」の醍醐味。いいなあ。
本物の「芝居(舞台)」よりもおもしろいのは、その「映像」の視点が「観客席」に固定されないこと。芝居小屋だと、あ、この席ではなくあの席ならもっと役者の顔が見えたのに、悔しいなあ、と思うことがあるのだが、映画だからカメラが自在に動き回って見たい顔を存分に見せてくれる。見たい動きを、間近に見ることができる。「臨場感」がカメラの動きによって強まる。映画の特権を生かしながら、「芝居」の感じを増幅させている。舞台も集中すると、ひとは周囲を見ない。誰かがテーブルの下に隠れるとする。そうすると視線はそのテーブルの下という限られた空間のなかの人物の動きだけを見てしまう。そういう「視線」の動き、観客の意識の動きを、映画ではカメラの演技で再現する。
この映画のカメラ(長回し風の連続感)、アップやロングへの視界の変化というカメラの演技は、芝居小屋で芝居を見ている観客の「視線」の再現なのである。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は鬼才である。この緩急自在の連続した映像見ただけで、もう★5個。この「連続感」に、楽屋のごたごたした「情報」も、舞台小屋(芝居小屋)の通路だの、舞台裏の「情報」も盛り込んで、「連続感」を消そうと工夫しているのもおもしろい。「長回し」なんて思うなよ、と観客を「牽制」している。「技術」なんかを見るなよ、観客の目をそらそうとしている。そのために、映像が、なんともいえず緊張している。雑多で「ごちゃごちゃ」、あるいは「だらだら」しているはずの「映像」なのに、きちんと「絵」になっている。力業である。
音も「芝居」している。いろいろな音がつかわれているが、ドラムが特に効果的である。ストリートミュージシャンが実際に演奏するシーンも出てくるが、その音が聞こえないはずのところでもドラムが聞こえる。メロディーを排除した、そのリズムだけで映像を刺戟する方法が、とても「芝居」的である。映画のバックミュージックというのは、映像に負けまいとしてか(あるいは映像の不足している情感を補おうとするためか)、「音楽情報」が多すぎる。オーケストラの音楽などメロディーだけではなく音の種類まで多彩だ。これでもか、これでもか、と感覚を刺戟してくる。この映画では逆に「音」の情報を少なくすることで、ほかの音を観客に想像させる。舞台の書き割りが「現実」そのものではないことによって観客に「現実」を想像させるように、不完全(?)な音によって、逆に想像力をあおるのである。観客の音の感覚を研ぎすまさせるといえばいいのか。ドラムの音が主人公の感情(激情)の疾走、そのときの心臓の鼓動のように聞こえる。妙な「悲しみ」や「センチメンタル」をあおらず、感情が爆発しそうという感じだけを刺戟し、そのときの感情の「強さ/激しさ」の先にあるものへと観客をつきうごかす。
映画なのに、芝居小屋の特等席にいて、最高品質の芝居を見ている感じになる。
この映像と音に、「芝居」を演じるという「演劇」そのものが加わってくる。「芝居」というのはもともと嘘。嘘と現実が舞台のうえで交錯するのが「芝居」の醍醐味だが、この映画では、登場人物の嘘と現実(虚構と現実/妄想と現実)が交錯するので、さらに「芝居」を見ている感じになる。演じている役者(役どころ)が「バットマン」の主役をやったマイケル・キートンなので、見てる観客の方も、そこに出てくる「バードマン」は「バットマン」と「妄想」しながら、「リチャード」という役ではなく「マイケル・キートン」という役者を見てしまう。そして、これは「マイケル・キートン」の「自伝(?)/自画像」なのだと勘違いする。この嘘をほんとうと言いくるめ、ほんとうを嘘だと言い張る感じが、「見世物芝居」そのものであるのがおもしろい。実在の映画俳優の名前をつかって、「バードマン」という「嘘」を補強(?)するところなど、「見世物芝居(舞台裏芝居)」でもある。ところどころで大笑いしてしまう。「芝居」が、そのときそのときでアドリブで観客を刺戟するのに似ていて、それも楽しい。(私のが見た天神東宝1では、観客はあまり笑わなかったが……。もっと笑うと「芝居小屋」で芝居を見ている感じがもと強くなる。)
観客はいつでも「嘘(芝居)」を見ながら、そこに「役者の本物(地)」を見るものなのである。「悪女だけれど美人だなあ(悪人だけれど美男子だなあ)」とストーリーとは無関係に「役者の存在」を楽しむ。そんな欲望まで、くすぐってくる映画なのである。
あ、書き忘れた。
この映画ではマイケル・キートンは空を飛ぶ。「芝居小屋」では空を飛ぶシーンは「宙づり」で表現される。目の前で役者の肉体が浮かぶのは、それが宙づりとわかっていても、というか、わかっているからこそ興奮する。ここまでやって見せてくれる、という感動である。この「ここまでやってみせてくれる」という感動を、空を飛ぶシーンで再現するのはとてもむずかしい。「宙づり」と「特撮」の違いだね。「宙づり」には「肉体」の危険がともなっているから興奮するが、「特撮」には「肉体」の危険がないから、ぜんぜん興奮しない。この醒めきった映画館の観客をどうやって興奮させるか。これがこの映画のいちばんむずかしいところなのだけれど、とても自然で、「興ざめ」させないところがいいなあ。空高くだけではなく、道路の下(?)というか、トンネルのような低空の飛行をまじえることでマイケル・キートンの「現実」の視線(タクシーに乗って移動しながら、空を飛んでいると妄想している、その視線)をおりこんでいるからだね。細かい部分も、ていねいなのだ。人間の「視線」というものの「欲望」と「現実」を、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは熟知している。そういうことを感じさせる映画である。
(2015年03月11日、天神東宝1)
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監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 マイケル・キートン、ザック・ガリフィアナキス、エドワード・ノートン
この映画は「舞台」(芝居)を題材に映画にしているのだが、うーん、おもしろい。「芝居」(舞台)になっているのが刺戟的だ。
ふつうは映画が「芝居」になってしまったら見ていられない。松尾スズキ監督「ジヌよさらば~かむろば村へ~」(★)もその一つだった。台詞で描いておもしろい部分を「映像紙芝居」にしているから興ざめする。芝居を映せば映画になる、芝居ではことばでしか描けなかったところを映像で補えば映画になる、というものではないのだ。それでは映画を「芝居」におとしめている。
この映画は逆。映画の文法を守りながら、「芝居」に昇華し、映画を超えて「芝居」になっている。
「お、芝居だ、舞台だ」と思わせるのは、二つの要素。映像と音(音楽)。あ、映画も映像と音が勝負なのだけれど、その映像と音の処理が「芝居」そのもの。「芝居」の文法を駆使している。
映像からいうと、「長回し」を思わせる切れ目のない映像がこの映画のいのち。どうやって撮影し、編集したのかわからないが、カメラが延々と移動し、映像にとぎれるところがない。まるで舞台の上の役者の演技を見ているよう。舞台では「幕」が降りるまで観客は役者の動きを見つづける。主役から脇役へ、さらに主役へと見ながら視線は動くが、観客の「視界」と中断されない。連続している。その登場人物を視線で追いかけながら「事件」の現場に立ち会っている感じ、視線の「連続」感が延々とつづく。楽屋、舞台、舞台裏、さらに劇場の外まで、カメラはひとつながりで動いていく。「さすらいの二人」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、ジャック・ニコルソン、マリア・シュナイダー主演/★★★★★)のラストシーンのようにカメラが格子(狭い鉄の窓飾り)をくぐりぬけたりもする。この「持続感(連続感)」がたまらない。息がぬけない。これが「芝居」の醍醐味。いいなあ。
本物の「芝居(舞台)」よりもおもしろいのは、その「映像」の視点が「観客席」に固定されないこと。芝居小屋だと、あ、この席ではなくあの席ならもっと役者の顔が見えたのに、悔しいなあ、と思うことがあるのだが、映画だからカメラが自在に動き回って見たい顔を存分に見せてくれる。見たい動きを、間近に見ることができる。「臨場感」がカメラの動きによって強まる。映画の特権を生かしながら、「芝居」の感じを増幅させている。舞台も集中すると、ひとは周囲を見ない。誰かがテーブルの下に隠れるとする。そうすると視線はそのテーブルの下という限られた空間のなかの人物の動きだけを見てしまう。そういう「視線」の動き、観客の意識の動きを、映画ではカメラの演技で再現する。
この映画のカメラ(長回し風の連続感)、アップやロングへの視界の変化というカメラの演技は、芝居小屋で芝居を見ている観客の「視線」の再現なのである。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は鬼才である。この緩急自在の連続した映像見ただけで、もう★5個。この「連続感」に、楽屋のごたごたした「情報」も、舞台小屋(芝居小屋)の通路だの、舞台裏の「情報」も盛り込んで、「連続感」を消そうと工夫しているのもおもしろい。「長回し」なんて思うなよ、と観客を「牽制」している。「技術」なんかを見るなよ、観客の目をそらそうとしている。そのために、映像が、なんともいえず緊張している。雑多で「ごちゃごちゃ」、あるいは「だらだら」しているはずの「映像」なのに、きちんと「絵」になっている。力業である。
音も「芝居」している。いろいろな音がつかわれているが、ドラムが特に効果的である。ストリートミュージシャンが実際に演奏するシーンも出てくるが、その音が聞こえないはずのところでもドラムが聞こえる。メロディーを排除した、そのリズムだけで映像を刺戟する方法が、とても「芝居」的である。映画のバックミュージックというのは、映像に負けまいとしてか(あるいは映像の不足している情感を補おうとするためか)、「音楽情報」が多すぎる。オーケストラの音楽などメロディーだけではなく音の種類まで多彩だ。これでもか、これでもか、と感覚を刺戟してくる。この映画では逆に「音」の情報を少なくすることで、ほかの音を観客に想像させる。舞台の書き割りが「現実」そのものではないことによって観客に「現実」を想像させるように、不完全(?)な音によって、逆に想像力をあおるのである。観客の音の感覚を研ぎすまさせるといえばいいのか。ドラムの音が主人公の感情(激情)の疾走、そのときの心臓の鼓動のように聞こえる。妙な「悲しみ」や「センチメンタル」をあおらず、感情が爆発しそうという感じだけを刺戟し、そのときの感情の「強さ/激しさ」の先にあるものへと観客をつきうごかす。
映画なのに、芝居小屋の特等席にいて、最高品質の芝居を見ている感じになる。
この映像と音に、「芝居」を演じるという「演劇」そのものが加わってくる。「芝居」というのはもともと嘘。嘘と現実が舞台のうえで交錯するのが「芝居」の醍醐味だが、この映画では、登場人物の嘘と現実(虚構と現実/妄想と現実)が交錯するので、さらに「芝居」を見ている感じになる。演じている役者(役どころ)が「バットマン」の主役をやったマイケル・キートンなので、見てる観客の方も、そこに出てくる「バードマン」は「バットマン」と「妄想」しながら、「リチャード」という役ではなく「マイケル・キートン」という役者を見てしまう。そして、これは「マイケル・キートン」の「自伝(?)/自画像」なのだと勘違いする。この嘘をほんとうと言いくるめ、ほんとうを嘘だと言い張る感じが、「見世物芝居」そのものであるのがおもしろい。実在の映画俳優の名前をつかって、「バードマン」という「嘘」を補強(?)するところなど、「見世物芝居(舞台裏芝居)」でもある。ところどころで大笑いしてしまう。「芝居」が、そのときそのときでアドリブで観客を刺戟するのに似ていて、それも楽しい。(私のが見た天神東宝1では、観客はあまり笑わなかったが……。もっと笑うと「芝居小屋」で芝居を見ている感じがもと強くなる。)
観客はいつでも「嘘(芝居)」を見ながら、そこに「役者の本物(地)」を見るものなのである。「悪女だけれど美人だなあ(悪人だけれど美男子だなあ)」とストーリーとは無関係に「役者の存在」を楽しむ。そんな欲望まで、くすぐってくる映画なのである。
あ、書き忘れた。
この映画ではマイケル・キートンは空を飛ぶ。「芝居小屋」では空を飛ぶシーンは「宙づり」で表現される。目の前で役者の肉体が浮かぶのは、それが宙づりとわかっていても、というか、わかっているからこそ興奮する。ここまでやって見せてくれる、という感動である。この「ここまでやってみせてくれる」という感動を、空を飛ぶシーンで再現するのはとてもむずかしい。「宙づり」と「特撮」の違いだね。「宙づり」には「肉体」の危険がともなっているから興奮するが、「特撮」には「肉体」の危険がないから、ぜんぜん興奮しない。この醒めきった映画館の観客をどうやって興奮させるか。これがこの映画のいちばんむずかしいところなのだけれど、とても自然で、「興ざめ」させないところがいいなあ。空高くだけではなく、道路の下(?)というか、トンネルのような低空の飛行をまじえることでマイケル・キートンの「現実」の視線(タクシーに乗って移動しながら、空を飛んでいると妄想している、その視線)をおりこんでいるからだね。細かい部分も、ていねいなのだ。人間の「視線」というものの「欲望」と「現実」を、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは熟知している。そういうことを感じさせる映画である。
(2015年03月11日、天神東宝1)
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