友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』(ナナロク社、2015年03月01日発行)
友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』のことばに知らないことばはない。たとえば「宇宙船」の2、3連目。
どのことばも知っている。それなのに、ここに書かれていることが「知らない」ことのように思える。ほんとうは「知らない」ことなのに、ことばを知っているために「知っている」と勘違いしている。「知っている」と思おうとして、友部のことばが書いている世界にたどりつけない、ということかもしれない。
「バス」も「バス停」も、街で見かけるバスやバス停ではない。「目に見えないバス」と3連目の最後に書いてある。そうなら「バス停」だって「目に見えない」。「時刻表」もないのだ。「ぼくたちはみんなそれぞれの場所と時刻をみつけなければならない」と書いてあるから。そうすると、それは「比喩」なのか。
「バスとは宇宙船のようなものだった」とは「バス」が「宇宙船」の「比喩」になっている一行だが、それだけではなくすべてが「比喩」なのだろう。
「バナナ」も「リンゴ」も「比喩」。
でも、何の?
友部の「見ているもの」の「比喩」なのだ。「果物屋」で「バナナ」や「リンゴ」を見ていても、それは「ほんもの」ではなく「比喩」。
でも、何の?
それは、たぶん、バナナの比喩であり、リンゴの比喩である。あるいは黄色や赤の比喩、さらには真夜中の比喩なのだ。
えっ、何を言っている? 私自身も、まあ、よくわからないのだが、バナナを見ながらそれをバナナと言いなおしたもの、という感じ。リンゴの方が説明しやすいのでリンゴを例にして言うと、目の前にリンゴがある。それを日本語でリンゴと言う。英語ではアップルと言う。そのときアップルはリンゴを英語で言いなおしたもの。言いなおしたものだから「比喩」なのだ。そして英語で言い直しながら、認識としては「リンゴ」に戻っている。そういう「感じ」の「比喩」なのだ。
別な言い方をすると、そこに「リンゴ」がある。それは、ほんとうにリンゴなのか。アップル(英語)と呼ばれたり、マンサナ(スペイン語)と呼ばれたりする。つまり、そう呼ぶひとが世界にいる。そして、それは「ことば」の問題として言えば、単にそう呼ぶひとがいるということなのだが、あるひとがアップルと呼び、別なひとがマンサナと呼びながら、それが同じ「リンゴ」であると認識するとき、私たちはその果物だけではなく、「他人」の「肉体」をとおっている。それを食べて、味わっている「他人の肉体」をとおって「自分の肉体」と重ね、それを「リンゴ」と理解している。
あ、リンゴでは、うまく言えない。
阿部の詩に直接出て来ないのだけれど、「水」を例にとると説明がしやすい。ここにコップに入った「水」がある。「水」に見える。英語ではウォーター、スペイン語ではアグワ。「名前」を聞いても、それで「水」であることが保証されたわけではない。けれど誰かが目の前でそれを飲んで見せてくれれば、まねをしてそれを飲み(他人の肉体を自分の肉体で反芻し)、それを「水」と確認できる。
「水」はあるときはアルコールかもしれない。ジュースかもしれない。それは「飲む」という「動詞」をとおって「飲み物」になり、「飲み物」から水やアルコールやジュースに分かれてくる。そのとき「水」は「飲み物」の「比喩」、「アルコール」も「飲み物」の「比喩」。--こういう言い方は「文法」ではしないのだけれど、具体的な「肉体」をとおして確認された「こと」を友部は言いなおしている。
「ぼくたちはみんなそれぞれの場所と時刻をみつけなければならない」の「みんな/それぞれ」というのは、私が書いたことばで言いなおせば、日本語/英語/スペイン語のようなもの。バナナはバナナ。リンゴはリンゴ。水は水。なのだけれど「みんな/それぞれ」別の名前でもある。別の名前を「ひとつ」にしているのは、人間の「肉体」。別の名前で呼ばれる「比喩」は「肉体」をとおして、「ひとつ」に戻ってくる。そういう不思議な径路を経て、友部のことばは動いている。
知っているのに知らない、知らないのに知っているというような感じが起きるのは、そのためだ。
この不思議な「比喩」をとおって、では友部はどこへ行こうとしているのか。「宇宙船のバス」に乗ってどこへ行くのか。自分の知っている「バナナ」「リンゴ」から出発して、他人の肉体をとおってまた「バナナ」「リンゴ」へ戻ってきたのだから、行くとするなら友部がとおってきた「他人の肉体」(他人そのもの)へ向かって出発するのだろう、それ以外に行き場はないだろう、と思った。あ、この「他人」というのも「比喩」のようなものかもしれないけれどね。
どうして、この詩から(この詩を読んだだけで)、そんなことが言える?
あ、もちろん、言えない。
どんなふうに言えばいいかわからずに、私は突然書きはじめた。詩集を読みながら、友部の書いていることばは全部知っているのに、何か「知らない」ことばのように聞こえる。新しいことばのように聞こえる。その新しさはどこから来ているのか。新しいと感じるのはなぜだろうかと思いながら読み進み、「遠いアメリカ」という作品の、
という行に出会ったとき、突然、いま書いてきたようなことを感じたのだ。
「バナナ」が「バナナ」になるまで、「リンゴ」が「リンゴ」になるまでには、友部には「距離」が必要だった。自分の知っている「バナナ」「リンゴ」から遠く離れることが必要だった。遠く離れてしまって、新しく発見したものとして「バナナ」「リンゴ」に出会うためには、「他人」という「肉体」に出会うことが必要だった。「他人」と友部から離れたところにいた。その「離れた」というのが「距離」。「離れている」けれど、いっしょにもいる、というのが「距離」。
「水」の例に戻って言うと、目の前に「水」がある。でも、それは飲んでいいかどうかわからない。飲んでいいと了解する、そしてそれを水として受け入れるためには、「他人の肉体」それを「飲んで見せる」という径路が必要であり、その「他人の肉体」を反芻するということが必要だった。自分でありながら、いったん他人になる。他人でありながら、水を飲んで見せてくれたひとは、そのとき友部だった。断絶したものをつなぐ「肉体」の「運動」(動詞/飲む)が必要だった。
そして、このときの「自分」と「他人」を隔てながらつないでいるも、「肉体の運動」を可能にしているのが「距離」なのだ。「距離」がつくりだす「場」なのだ。
自分ひとりでは到達できない何か、他人と出会い、他人の肉体を潜り抜けることで共有する何か、共有された「こと」が友部のことばを鍛えている。そこには友部という「我」が動いているのではなく、他人と共有した「無我(純粋な肉体/いのち)」のようなものが動いている。「無我」が引き寄せる「比喩」が動いている。
それが「誰もが知っていることば」となっている。「誰もが知っている」というのは無数のひとの「無我(純粋ないのち)」をとおっているということだ。
無数のひと(無数の肉体)の「無我(純粋ないのち)」をとおるのであれば、そこには「個性」がない?
いや、そんなふうに「無数の無我」をとおる、とおることができるということ自体が「個性」である。「我」を張る方がはるかに簡単な(?)個性の主張であり、「我を捨て」、出会ったひとと同じ「肉体」になり、ことばを動かすというのは、困難な個性のあり方だ。美しい「和音」は自己主張であると同時に他者との共同作業なのだ。
何か、そんなことも思った。
こんな考えも、それでは「ぼくには距離が必要だった」という行から、突然閃いたのかというとそうでもない。あと出しじゃんけんのようだが、「街の反対側の風が吹く」の、
という二行に刺戟されて、いま書いたようなことを思ったのだ。「言葉では伝えられないこと」という表現に、「誰に/伝えられないか」ということを思ったのだ。書かれていない「誰か」が、ここにはている。「誰」を省略しているのは、「誰か(他人)がいる」ということは友部にとってはわかりきったことだからである。わかりきっているから書く必要を感じない。そのために、それが省略されてしまう。(こういう省略されてしまうことばを、私は「キーワード」と呼んでいる。これは繰り返し書いていることなので、説明を省略する。)
「誰か」(自分ではない人間)という存在に「伝える」ということが、友部のことばの動き方の基本なのだ。「誰か」と「ことば」を共有する。そのとき、「無我」になり、他人の「肉体」をくぐる。そういうことが「起きている」。「起こそうとしている」。そのときとる方法が「バナナ」を「バナナ」という「比喩」にする、「リンゴ」を「リンゴ」という「比喩」にするという方法なのだ。自分の知っているものを捨て、他人をとおってきて、もう一度、そこにあるものを「これはバナナ、これはリンゴ」と新しいものとして発見する方法なのだ。
友部の書いているバナナ、リンゴは「新しく発見されたバナナ」「新しく発見されたリンゴ」なのだ。「新しく発見された」が省略されている。「新しく発見された」という「性質」が、その「比喩」のなかに隠されているのだ。
しかし、私の書いているのは「詩の感想」ではないね。私は「詩の感想」を書くふりをして、人間とことばの関係を考えていると言ってしまいたいのだが、そう言ってしまうと大風呂敷を広げることになるので、「詩の感想」を書いているというのだが、こういうことも、まあ、書く必要はないね。でも、あまりにも詩からかけ離れていることを書いたようなので、自己弁護。
詩に戻ろう。「無我」になって「他人の肉体(純粋のいのち)」をとおり、「比喩」として「生まれる」という「実践」として、たとえば「新しい雨」がある。その書き出し。
友部が目指しているのは「ぼく」になることではない。「雨」になること。そして、その「雨」は「君」が生きている「この街」に降る雨だ。「君」は「無我としてのぼく」を「雨」に見るだろう。その「雨」に濡れるだろう。
いいなあ。
友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』のことばに知らないことばはない。たとえば「宇宙船」の2、3連目。
ぼくはバスに乗り損ねてここに来た
バスには停留所もなく出発時間も決まっていなかった
ただ夜、夜とだけ記されていて
ぼくたちはみんなそれぞれの場所と時刻をみつけなければならない
バスとは宇宙船のようなものだった
バナナは真夜中でも黄色かった
リンゴは真夜中なのに赤かった
ぼくは果物屋の前にいた
ぼくが見つけた場所はそこだった
目に見えないバスが近づいてくる
どのことばも知っている。それなのに、ここに書かれていることが「知らない」ことのように思える。ほんとうは「知らない」ことなのに、ことばを知っているために「知っている」と勘違いしている。「知っている」と思おうとして、友部のことばが書いている世界にたどりつけない、ということかもしれない。
「バス」も「バス停」も、街で見かけるバスやバス停ではない。「目に見えないバス」と3連目の最後に書いてある。そうなら「バス停」だって「目に見えない」。「時刻表」もないのだ。「ぼくたちはみんなそれぞれの場所と時刻をみつけなければならない」と書いてあるから。そうすると、それは「比喩」なのか。
「バスとは宇宙船のようなものだった」とは「バス」が「宇宙船」の「比喩」になっている一行だが、それだけではなくすべてが「比喩」なのだろう。
「バナナ」も「リンゴ」も「比喩」。
でも、何の?
友部の「見ているもの」の「比喩」なのだ。「果物屋」で「バナナ」や「リンゴ」を見ていても、それは「ほんもの」ではなく「比喩」。
でも、何の?
それは、たぶん、バナナの比喩であり、リンゴの比喩である。あるいは黄色や赤の比喩、さらには真夜中の比喩なのだ。
えっ、何を言っている? 私自身も、まあ、よくわからないのだが、バナナを見ながらそれをバナナと言いなおしたもの、という感じ。リンゴの方が説明しやすいのでリンゴを例にして言うと、目の前にリンゴがある。それを日本語でリンゴと言う。英語ではアップルと言う。そのときアップルはリンゴを英語で言いなおしたもの。言いなおしたものだから「比喩」なのだ。そして英語で言い直しながら、認識としては「リンゴ」に戻っている。そういう「感じ」の「比喩」なのだ。
別な言い方をすると、そこに「リンゴ」がある。それは、ほんとうにリンゴなのか。アップル(英語)と呼ばれたり、マンサナ(スペイン語)と呼ばれたりする。つまり、そう呼ぶひとが世界にいる。そして、それは「ことば」の問題として言えば、単にそう呼ぶひとがいるということなのだが、あるひとがアップルと呼び、別なひとがマンサナと呼びながら、それが同じ「リンゴ」であると認識するとき、私たちはその果物だけではなく、「他人」の「肉体」をとおっている。それを食べて、味わっている「他人の肉体」をとおって「自分の肉体」と重ね、それを「リンゴ」と理解している。
あ、リンゴでは、うまく言えない。
阿部の詩に直接出て来ないのだけれど、「水」を例にとると説明がしやすい。ここにコップに入った「水」がある。「水」に見える。英語ではウォーター、スペイン語ではアグワ。「名前」を聞いても、それで「水」であることが保証されたわけではない。けれど誰かが目の前でそれを飲んで見せてくれれば、まねをしてそれを飲み(他人の肉体を自分の肉体で反芻し)、それを「水」と確認できる。
「水」はあるときはアルコールかもしれない。ジュースかもしれない。それは「飲む」という「動詞」をとおって「飲み物」になり、「飲み物」から水やアルコールやジュースに分かれてくる。そのとき「水」は「飲み物」の「比喩」、「アルコール」も「飲み物」の「比喩」。--こういう言い方は「文法」ではしないのだけれど、具体的な「肉体」をとおして確認された「こと」を友部は言いなおしている。
「ぼくたちはみんなそれぞれの場所と時刻をみつけなければならない」の「みんな/それぞれ」というのは、私が書いたことばで言いなおせば、日本語/英語/スペイン語のようなもの。バナナはバナナ。リンゴはリンゴ。水は水。なのだけれど「みんな/それぞれ」別の名前でもある。別の名前を「ひとつ」にしているのは、人間の「肉体」。別の名前で呼ばれる「比喩」は「肉体」をとおして、「ひとつ」に戻ってくる。そういう不思議な径路を経て、友部のことばは動いている。
知っているのに知らない、知らないのに知っているというような感じが起きるのは、そのためだ。
この不思議な「比喩」をとおって、では友部はどこへ行こうとしているのか。「宇宙船のバス」に乗ってどこへ行くのか。自分の知っている「バナナ」「リンゴ」から出発して、他人の肉体をとおってまた「バナナ」「リンゴ」へ戻ってきたのだから、行くとするなら友部がとおってきた「他人の肉体」(他人そのもの)へ向かって出発するのだろう、それ以外に行き場はないだろう、と思った。あ、この「他人」というのも「比喩」のようなものかもしれないけれどね。
どうして、この詩から(この詩を読んだだけで)、そんなことが言える?
あ、もちろん、言えない。
どんなふうに言えばいいかわからずに、私は突然書きはじめた。詩集を読みながら、友部の書いていることばは全部知っているのに、何か「知らない」ことばのように聞こえる。新しいことばのように聞こえる。その新しさはどこから来ているのか。新しいと感じるのはなぜだろうかと思いながら読み進み、「遠いアメリカ」という作品の、
ぼくには距離が必要だった
という行に出会ったとき、突然、いま書いてきたようなことを感じたのだ。
「バナナ」が「バナナ」になるまで、「リンゴ」が「リンゴ」になるまでには、友部には「距離」が必要だった。自分の知っている「バナナ」「リンゴ」から遠く離れることが必要だった。遠く離れてしまって、新しく発見したものとして「バナナ」「リンゴ」に出会うためには、「他人」という「肉体」に出会うことが必要だった。「他人」と友部から離れたところにいた。その「離れた」というのが「距離」。「離れている」けれど、いっしょにもいる、というのが「距離」。
「水」の例に戻って言うと、目の前に「水」がある。でも、それは飲んでいいかどうかわからない。飲んでいいと了解する、そしてそれを水として受け入れるためには、「他人の肉体」それを「飲んで見せる」という径路が必要であり、その「他人の肉体」を反芻するということが必要だった。自分でありながら、いったん他人になる。他人でありながら、水を飲んで見せてくれたひとは、そのとき友部だった。断絶したものをつなぐ「肉体」の「運動」(動詞/飲む)が必要だった。
そして、このときの「自分」と「他人」を隔てながらつないでいるも、「肉体の運動」を可能にしているのが「距離」なのだ。「距離」がつくりだす「場」なのだ。
自分ひとりでは到達できない何か、他人と出会い、他人の肉体を潜り抜けることで共有する何か、共有された「こと」が友部のことばを鍛えている。そこには友部という「我」が動いているのではなく、他人と共有した「無我(純粋な肉体/いのち)」のようなものが動いている。「無我」が引き寄せる「比喩」が動いている。
それが「誰もが知っていることば」となっている。「誰もが知っている」というのは無数のひとの「無我(純粋ないのち)」をとおっているということだ。
無数のひと(無数の肉体)の「無我(純粋ないのち)」をとおるのであれば、そこには「個性」がない?
いや、そんなふうに「無数の無我」をとおる、とおることができるということ自体が「個性」である。「我」を張る方がはるかに簡単な(?)個性の主張であり、「我を捨て」、出会ったひとと同じ「肉体」になり、ことばを動かすというのは、困難な個性のあり方だ。美しい「和音」は自己主張であると同時に他者との共同作業なのだ。
何か、そんなことも思った。
こんな考えも、それでは「ぼくには距離が必要だった」という行から、突然閃いたのかというとそうでもない。あと出しじゃんけんのようだが、「街の反対側の風が吹く」の、
言葉は一つの方向を向く
すると言葉では伝えられないことが起きてくる
という二行に刺戟されて、いま書いたようなことを思ったのだ。「言葉では伝えられないこと」という表現に、「誰に/伝えられないか」ということを思ったのだ。書かれていない「誰か」が、ここにはている。「誰」を省略しているのは、「誰か(他人)がいる」ということは友部にとってはわかりきったことだからである。わかりきっているから書く必要を感じない。そのために、それが省略されてしまう。(こういう省略されてしまうことばを、私は「キーワード」と呼んでいる。これは繰り返し書いていることなので、説明を省略する。)
「誰か」(自分ではない人間)という存在に「伝える」ということが、友部のことばの動き方の基本なのだ。「誰か」と「ことば」を共有する。そのとき、「無我」になり、他人の「肉体」をくぐる。そういうことが「起きている」。「起こそうとしている」。そのときとる方法が「バナナ」を「バナナ」という「比喩」にする、「リンゴ」を「リンゴ」という「比喩」にするという方法なのだ。自分の知っているものを捨て、他人をとおってきて、もう一度、そこにあるものを「これはバナナ、これはリンゴ」と新しいものとして発見する方法なのだ。
友部の書いているバナナ、リンゴは「新しく発見されたバナナ」「新しく発見されたリンゴ」なのだ。「新しく発見された」が省略されている。「新しく発見された」という「性質」が、その「比喩」のなかに隠されているのだ。
しかし、私の書いているのは「詩の感想」ではないね。私は「詩の感想」を書くふりをして、人間とことばの関係を考えていると言ってしまいたいのだが、そう言ってしまうと大風呂敷を広げることになるので、「詩の感想」を書いているというのだが、こういうことも、まあ、書く必要はないね。でも、あまりにも詩からかけ離れていることを書いたようなので、自己弁護。
詩に戻ろう。「無我」になって「他人の肉体(純粋のいのち)」をとおり、「比喩」として「生まれる」という「実践」として、たとえば「新しい雨」がある。その書き出し。
君にとってはなつかしい街でも
ぼくにとっては新しい
ぼくは新しいこの街を歌う
歌ってこの街の雨になる
まだことばにならない声で歌う
ぼくは新しいこの街の雨になる
友部が目指しているのは「ぼく」になることではない。「雨」になること。そして、その「雨」は「君」が生きている「この街」に降る雨だ。「君」は「無我としてのぼく」を「雨」に見るだろう。その「雨」に濡れるだろう。
いいなあ。
バス停に立ち宇宙船を待つ | |
友部 正人 | |
ナナロク社 |