詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井啓子「みり」記事のタイトルを入力してください(必須)

2015-04-02 11:03:09 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「みり」(「かねこと」84 、2015年03月30日発行)

 詩の感想(批評)を書くとき、どんなふうに書くか。私は結論(?)を考えない。この詩がおもしろい。この詩について書きたい。でも、どんなふうに、何を書けばいい? わからないまま書きはじめる。ときにはこんなふうにして時間潰しをしながらことばが動きはじめるのを待っている。
 新井啓子「みり」の書き出し。

アスファルトの路面にあめがのっている
なんみりだろう

 これが、気になる。一行目は「わかる」。雨が降っている。アスファルトが濡れている。見たことがある光景である。そういう光景を私は覚えている。きょうは晴れているし、私の部屋からはアスファルトは見えないが、ここに書かれていることが「わかる」。
 二行目はどうだろうか。路面の雨の「かさ(嵩)」が何ミリか想像している。「意味」は「わかる」。「わかる」が私は驚く。えっ、雨って「ミリ」で測るけれど、それはアスファルトの上の「かさ」じゃないよなあ。「ミリ」がわかるくらい降ったら大雨だよなあ。
 変だなあ。一行目も「わかる」と書いたが「あめがのっている」の「のっている」が変だなあ。「のっている」(乗る/載る)という動詞を雨を主語にしてつかったことはないなあ。「のる」のは固形物だよなあ。雨は水。流動するものは、たとえば瓶につめてなら「のる」が可能だが、そのままでは「のる」は難しいなあ。
 書いてある「情景」が見なれているせいか、そのまま読んでしまうが、これはとても変な日本語だぞ。「新井語」だぞ。ここに、きっと詩があるぞ、と思う。
 でも、それをどう語ればいいのか、私はまだわからない。「日本語」を「新井語」にしている秘密はどこにあるのかな。みつかるかな。探し出せるかな。

あめがふっているときは
波やしぶきがあり
でこぼこしている

 大雨のとき、アスファルトの水は溝にまで流れきれない。風が吹けば波も立つ。車が走れば飛沫が飛ぶ。「でこぼこ」というかどうかはわからないが、まあ、そういう情景も見たことがある。

あめがあがったときは
ひくいところへ
ざわざわ流れていく

 雨が降っているときも流れていくのだけれど、雨があがったときは雨の補給(?)がないので「流れ」が目立つということかな。

あま水といっても
木ぎれやレシートが混ざっていて
泥水のときもある

木ぎれはふらふら押されていく
レシートは波にのっていく
厚みのみりがちがうから

 あ、一連目の「なんみり」は雨の「かさ」だったが、これは「木ぎれ」の「厚さ」、「レシートの厚さ」。それが雨の「かさ(ミリ)」より小さいと「もの」は浮く。そして流れていく。しかし、「もの」の厚さが雨の「かさ」より大きいと、つっかかる。「もの」の底が路面にぶつかり、浮かずに、押されながら流れる。
 うーん。そうなんだろうけれど、こんなこと、考えないなあ。「厚みのみりがちがう」というのは、そのとおりかもしれないけれど、うーん。こういう「考え」を私は「体験」したことがない。一行目の「なんみりだろう」も、私は「考える」(想像する)ということをしたことがない。
 私がしたことがないことを、新井はしている。ことばを読むことで、その場に立ち会い、私はどぎまぎしている。こんなことをするひとって、どうなってるんだろう。なぜ、新井はこんなことを考えたのだろう。

みりは毛と書くのだそうだ
あめ水には犬の毛も混じっている
からまって
すぐになにかにつかまりたがる

 ここで、私は「あっ」と叫ぶ。「みりは毛と書くのだそうだ」。少し思い出した。割、分、厘、毛、だな。思い出したけれど、この「思い出した」は、いま部屋にいてこうやってワープロを打ちながら雨が降った日のアスファルトの路面を思い出す、アスファルトにあふれる大雨の情景を思い出すというのとはちがう。雨の情景/アスファルトの情景を思い出すのは「頭」ではなく「目」。そしてそのとき聞こえていた音(車が走る音、飛沫をあげる音)を思い出す「耳」も働いているかもしれない。けれど「みりは毛」を思い出すのは「頭」。「論理」が思い出している。
 これが、きっと新井のことばに感じた違和感(詩)なのだ。
 雨の日のアスファルト。路面の雨。「なんみりだろう」。それは測れるかもしれない。けれど、そんなものは誰も測らない。「なんみりだろう」は、肉体では感じることができない「論理」のことば、「論理」の文法なのだ。
 「論理」の文法が、「肉体」で掴み取っている「情景」に紛れ込んでいる。木切れとレシートでは「厚み」が違うから流れ方(波にのる感じ)が違うというときの「厚み」ということば。そこにある「論理」。レシートに「厚み」があるなんて、言われればそうだけれど、思っていないでしょ。日常では。
 へええっ、新井は「論理的」な人間なんだ。
 そう思った瞬間、「あめ水には犬の毛も混じっている」。そうかもしれないけれど。そんなこと気にする? 雨上がりに。私は気にしないなあ。
 いや、そうじゃなくて、ここはさあ、「みりは毛と書く」ということばのなかに「毛」が出てきたから、その「毛」をつかって、もう一度「論理」を「情景」にもどしているんだよ、と私のなかのもうひとりの私が反論している。
 そうなんだよなあ。
 そして、ここがいちばん「おかしい」。つまり「おもしろい」。魅力的。
 「みりは毛」というのは「頭(論理)」世界。「犬の毛」は「論理(頭)」世界ではないなあ。犬の毛を見る。犬の毛に触る。ぬけた犬の毛は犬の毛どうしでからまる。それから何かに絡み付く。見たことがある。(私の家には犬がいるので「見たことがある」どころではなく、いつも見ている。)
 で、ここから「肉体」がぐいっと、ぬぅっと、あらわれる。

繊毛 剛毛 根毛 羽毛 ●
鼻毛 スネ毛 胸毛 髭

つうっと伸びた毛髪のように
アスファルトのうえではなく
でこぼこの
あめのうえをすべっていきたい
         (谷内注・●は「髪」の「友」が「鼠」になっ漢字、たてがみ?)

 「毛」がたくさん出てくる。この「毛」の出方も、完全に「肉体」とつながっているかというと、そうでもない。「繊毛」や「根毛」は「植物」だし、「羽毛」「たてがみ」は鳥や獣。「毛」という「論理」が呼び寄せたもの。そういう「頭」が働いた後「肉体」が「頭」を乗り越えてあらわれる。「鼻毛 スネ毛 胸毛 髭」。女にも「鼻毛 スネ毛」はあるだろうけれど、ひとつながりのことばが呼び寄せるのは男だろうなあ。
 男を呼び出しておいて、それを乗り越えて、最後に出てくる「毛髪」の人間は女、新井ということになるのかな?
 あ、ちょっと脱線しそう。脱線してもおもしろいのかもしれないけれど、それはちょっと置いておいて……。
 私がこの詩から受け取ったもの、刺戟的に感じたのは、「みりは毛と書くのだそうだ/あめ水には犬の毛も混じっている」にあらわれている「頭(論理)」と「肉体」の不思議な絡み合いだ。それは「アスファルトの路面にあめがのっている/なんみりだろう」という書き出しにすでにひそんでいる。「のっている」という変な動詞のつかい方の中に予兆のようにして隠れている。それが「混じる」とか「押される」とか「つかまりたがる」の動詞と交錯しながら、「肉体」の「心情」のようなものをはみださせる。そして最後に「でこぼこの/あめのうえをすべっていきたい」となる。
 この「でこぼこ」も「なんみり」と同じように「頭(論理)」が呼び出す現実なのだけれど(アスファルトのでこぼこがあって、そのうえの水のでこぼこがある。水のでこぼこはアスファルトの反映なのだから)、こういう微妙な「頭(論理)」と「肉体」の交錯が新井のことばを動かして、そこにいままでなかった「ことば(詩)」をつくり出しているんだなあ、と思った。
遡上
新井 啓子
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破棄された詩のための注釈(21)

2015-04-02 00:32:39 | 
破棄された詩のための注釈(21) 

「その角」はケヤキ通りにある書店(「2001年宇宙の旅」の監督の名前がついている書店)を過ぎたところにある交差点のことである。花屋を巻き込むようにして左に曲がると、夏は海から風が吹いてくる。花屋では季節が顔を出し過ぎるので、詩人は「ドラッグストア」と書いて時間の色を消している。

「その角」を曲がって「物語」は海の方へ駆けて行ってしまったのだが、そう書いてしまうのはだから、センチメンタルすぎる。左手の公園の坂を上り、いぬふぐりの淡い桃色を見つめた視線が遊歩道に落ちて、散らばったままだったと嘘を書いた。しかし、「淡い桃色」という音が気に入らなくて、その二連目は傍線で消された。

三連目は「その角」を曲がって、八台の車が止められる駐車場の横を通り、路地をひとつ渡ると古い市場へ歩いていく。ヨーロッパの言語で「季節を売る店」と呼ばれる何軒かが、手書きの値札をならべている。店番のお爺さんはラジオでなつかしい歌を聴いている。そのメロディーをハミングした声が、そこを通るたびによみがえる。

音は消える。しかし記憶は消えない。そして、それは「物語」の一部になりたがる。皮の厚い甘夏カン。その重さを手で計っていた。その、掌のまるみ(まるく包むような)やわらかな指のひらいた形。その指に対して何事かを言ったお爺さんの声も。そしてお婆さんのお爺さんを叱る声が。「いぬふぐり」の二連目を消した理由は、ここにもある。

ほんとうは海風が吹いてくる道を歩きつづけたところにある誰も知らない大きな木について書きたかった、と詩人は手紙に書いている。幹に掌を押し当てると、木の中を流れる水のつめたさが掌にやってくる。ふるさとを思いながら、そんな嘘をついたとき「ほんとうだ」と帰って来た声。それを忘れることができない「物語」を。




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