詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(15)

2015-04-09 11:49:00 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(15)(思潮社、2014年09月05日発行)

 12月に「14」を書いて以来なので、かなり長い中断になる。なぜ中断したかというと、私に「歴史感覚」というものがないからである。北川は「荒地」の詩人たち、そのことばを「時代」と関連させながら書いている。これはことばについて書くときの「必然的」方法なのだと思うが、私は、これが「苦手」である。
 「苦手」を「苦手」にしておいたままで感想を書くことは、北川の書いていることをねじまげることになってしまう。そう思って中断したのだが、いま再開するのは、いっそう思いっきりねじまげてしまおうと思うからである。
 思い切って「誤読」を押し進めようと思う。
 きょう読むのは、

 Ⅱ「荒地」の詩的世界 鮎川信夫とその周辺
 「荒地」の詩的世界

 そこに、こんなことばがある。

 初期「荒地」の詩人たちが、敗戦を迎えたのは二十代の半ばであったが、彼等の戦後感覚は、単に第二次大戦に根ざすものではなく、第一次大戦後のヨーロッパの現代意識にもとづくものであるといわれている。このことが彼等の詩的世界に基本的な性格を与えている。鮎川信夫も「僕たちが戦前に於いてすでに戦後的であったということは、第一次大戦後のヨーロッパ文学の影響によるものである」(「幻滅について」)と述べている。( 318ページ)

 うーん、どうして鮎川たちは第一次大戦後の「日本文学」ではなく「ヨーロッパ文学」の影響を受けたのか。第一次大戦から第二次大戦へ向かっていくときの「日本文学」に対して「批判的」だった、その動きに与したくなかった、ということなのか。その一方、その動きを批判すること(ことばにすること)は日本の状況においては「危険」だったから、それができなかったということなのか。
 そうだとしても、それではなぜ、「第二次大戦後」の動きよりも、「第一次大戦後のヨーロッパの現代意識」の方に動かされたのか。「第二次大戦後」の動きの方が新しいだろうになあ。
 これについては、

初期「荒地」の詩にとって、破滅的な感情や、死のイメージは、けっして彼等の個人的な傾向とか、プチブル的焦燥で説明されるものではない。戦前から戦後にかけての時代が厖大な死の影を宿していたがために、彼等の内面は鋭くそれを反映したのであり、(略)破滅することを主題にすること以外に、自由を内的に確保することのできなかった過酷な時代にどうしようもなく、それを内面化せざるをえなかった「荒地」の詩人たちは、そこにすぐれた想像力の方法を示しているわけである。( 351ページ)

 と、北川は「説明」してはいるのだけれど……。

 文章の随所に「思想」ということばが出てくる。この「思想」ということばとそのまわりに書かれることばの関係にも、私は少し引っ掛かってしまう。

「荒地」の詩人たちは(略)イギリス現代詩に対する深い造詣を基礎にして二つの課題をもったと思われる。その一つは、厖大な犠牲を払って手に入れた戦争体験を、一つの思想的原質にまで主体化することによって、戦後の現実状況と対応する内部の混沌とした世界に、想像力の方向と意味を与えようとすることである。     ( 321ページ)

 「思想的原質」と「内部の混沌」の関係が私にはわかりにくい。戦争体験が鮎川たちに影響した。鮎川たちの「内部(思想?)」は戦争体験によって「混沌」としている。これは、わかる気がする。だれでも異常な体験をすると「内部(思想/精神)」は混乱する。混沌としてしまう。「思想」がゆらぐ。その「混沌とした内部(思想になりきれていない思想/思想以前の思想)」を、どうやって建て直すか。
 「思想的原質」と北川は書いているが、思想に「原質」というものがあるのか。
 「戦後の現実状況」を何を手がかりに見ていくか、その見方が「意味」であり「想像力」であり、そういう「見方(見る方法)」をとおして「思想」がつくられていくのではないのだろうか。「思想」というものは、現実をどうやって「見る」か、「想像する」か、という「動詞」(生き方)のなかから少しずつ形になってくるのであって、「原質」なんて、ないのではないだろうか、と私は思ってしまう。「原質」というべきものがあるとしたら、それは「内部の混沌とした世界」そのものではないのだろうか。

 以下は、読みながら「傍線」を引いた部分と、傍線を引きながら考えたこと。ただ、並列させて書いていく。

 北村太郎の「墓地の人」について触れた部分。

「この詩人における「詩」は現実の世界で数えられるものでなくなる。「死者の棲む大いなる境」は、生が惨めさと卑小さをもった存在である時、そうした人生を超えるような永遠な、超時間的な、形而上学的な世界である。( 323ページ)

 「形而上学」と「思想」とは区別されているのだろうか。同じものだろうか。同じものだとすると、ここでは「人生」と「形而上学(思想)」を対比し、「思想」を「人生を超える」ものと定義していることになる。この「思想」優位の考え方に、私は、つまずく。「思想」って何?と思ってしまう。
 北村への評価の一方、北川は木原孝一の「詩の弱さ」を指摘して、「幻影の時代Ⅱ」を引きながら次のように書く。

木原の詩には、戦争の体験が重層化されたいメージになることによって、体験を超えた一つの思想の意味を背負うといった充実した時間が感じられないのである。( 328ページ)

 「体験を超えた思想」ということばは「思想」が「体験」より上位(?)にあるという印象を呼び起こす。そうなのだろうか。また「イメージ」という表現も、私には、不思議に聞こえる。戦争体験をイメージにするということが、よくわからない。
 木原の詩には、

硫黄島の「死」はあるけれど、この詩人の内部の「死」のイメージはないのである。( 328ページ)

 とも書かれている。
 北川は「体験」よりも、「イメージ」と「思想」を上位に置いている。「イメージ」が「思想」を明確にするということか。
 そうであるなら、(と、端折って書くと)、「ヨーロッパの文学(イメージ)」を引き継ぎながら、「荒地」の詩人たちは日本の現実と向き合うための「思想」を作り上げた、ということになるのだろうか。
 「イメージ」と「肉体」の関係がよくわからない。「戦争体験」と「肉体」の関係がよくわからない。「死」はしきりに語られるが、それは自分の肉体で体験したものではなく、他人の死であり、肉体で追認できない「イメージ」だ。それよりも「肉体」そのものがくぐりぬけ、いまもつづいている「生」そのものの「動詞」とどうなっているのか。
 「動詞」がつかみにくい。「動詞」はどこにあるのだろうか、と思ってしまう。
 
 次の文章にも「思想」と「形而上学」ということばが関連して出てくる。鮎川信夫の「詩論の基本的性格」は……、と北川は書く。

彼の詩論の基本的性格は、政治的効用生、教育的啓蒙性から「詩」を解放し、さらに、ことばの芸術性だけに価値をもとめるのでもなく、「現代に於いてもなお魂の問題の所在を明きらかにし、精神の救いにつながる形而上学的な価値の担い手としての詩を考えたいのである」(「何故詩を書くか」)ということを明確にした点にあるだろう。従って鮎川詩論における詩の思想性というのは、詩の外部から思想性を賦与するといったものではなく、徹底的に内的な自由の問題として、あるいは悩める魂の問題につながる形而上学的な価値の問題として考えられているのである。

 「内的な自由の問題」「悩める魂の問題」と「形而上学」「思想」は緊密につながっている。そして、それはまた「破滅」「敗北」という形で詩になっているのが「荒地」の詩なのだということだろう。「破滅」「敗北」「反逆」のイメージのなかに「戦争体験」(内的危機感)を共有するということなのか。「内的危機感」が「思想」なのか、「内的危機感」が掴み取るイメージが「思想」なのか。「内的危機感」と「イメージ」が交錯する「場」が「形而上学」の「場」なのか。「思想」という「できごと」なのか。
 よくわからないが、田村隆一の「四千の日と夜」に触れて、北川は、次のように書く。

この詩人が一篇の詩を生むためには、世界に対する愛着を断ち切り、既成の価値観を破壊しなければならない。そうすることで、この世界では死者となっている存在や見えない関係性を明きらかにし、現実とは別な新しい価値観や関係を甦らせようとするのである。( 337ページ)

 「新しい価値観」というのは「思想」のことだろうなあ。

 こうやって読んできて、思ったことを脈絡もなく書いてきて、気になるのは「思想/形而上学/イメージ」ということば。「破滅/敗北/反逆」ということば(名詞)。それから「第一次大戦後のヨーロッパ文学」という「存在」。それは、私には何か「肉体」とはかけ離れた(日本とヨーロッパが離れている)もの(こと)に感じられる。
 「イメージする(想像する/想像力を働かせる)」「破滅する/敗北する/反逆する」という動詞にして、読み直せば違ってくるかもしれない。「荒地」の詩のなかに出てくるさまざまな「名詞」を「動詞」に変換しながら読み直せば、「思想」が違った形でみえてくるかもしれないなあ。「荒地」が「歴史」ではなく、「いま/ここ」とつながるものになるかもしれないなあと、ぼんやり感じた。
北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社
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明らかなこと

2015-04-09 00:06:20 | 
らかなこと

明らかなことは、この椅子から数歩離れた窓に西日が来ていること。
いまはガラスに触れて自分の色を探している。
あるものはガラスの厚みのなかにとどまり、あるものは横にすべり、
あるものはガラスをくぐりぬけて部屋の隅まで椅子の影を伸ばす。

明らかなことは、ベランダの花が色を主張することをやめるということ。
静かな影のなかに花びらの影を重ねて、色をしまいこむ。
明らかなことは、そのときの変化が美しく見える。
明らかなことは、その変化を教えてくれたことばは
きのうという時間にになって窓の外に来ているということ、
去っていく西日みたいに。



*

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