渋谷美代子「東川下から」(つづき)(「YOCOROCO」3、2015年03月15日発行)
渋谷美代子「東川下から」のつづきの感想(というよりも、新しい感想)を書いてみる。きのう書いたこととまったく同じになるか、まったく違ったものになるか。書いてしまったら私は書いたことを忘れてしまうので、見当がつかないが……。
台風が今夜にも北海道に上陸するというその日。「東川下のバス停」でバスを降りると台風の前触れの風が吹いてくる。
いくつかの「声」がまじっている。突風にあおられる。その突風は「コノタワケガ!」と言っている。引用では省略した部分で、「わたし(渋谷)」は「気取った」ことを考えていた。気取って、油断していた。それで突風のためによろめいた。そういうとき、父親か誰かが「コノタワケガ!」という風に注意する(父親から注意される)ことが何度もあったのだろう。そういうことを思い出し「ハイ、ハイ、」と返事している。
書かれていないが、そこには渋谷ではないひとがいる。渋谷ではないが、もう渋谷の「肉体」にしみ込んでしまった他人(父親、と仮定しておく。母親かもしれない)がいる。渋谷の「肉体」は渋谷以外の誰かとしっかり結びついている。
そういう渋谷自身の「肉体」のあり方が書かれたあと、
ふと見るともなしに見た風景が描かれている。風の強さによろけ、洗濯物の心配をしたのは一瞬だけで、すぐにそのことは忘れベランダにいる男に視線が奪われてしまう。「アヤシイ動き」をしている。その「アヤシイ」を「目をこら」して見つめると、男の様子がわかってくる。たばこを吸おうとしているらしい。風が強いのでなかなか火が点けられない。
それだけなのに、なぜか、おかしい。
そんな男など「足を踏ん張って目をこら」して見なくてもいいでしょ? でも、見てしまう。ただ見るだけではなく「足を踏ん張って」。だって、風が強いのだから、と渋谷は言うかもしれないが、風が強いなら自分のことを考えるのが優先順位として上だと思うが、そこは「足を踏ん張る」ということで乗り切って、男を見てしまう。
そうすると、渋谷が「足を踏ん張って」がんばっているように、男も何やら「苦労して」いるらしい。「足を踏ん張る」という「肉体」の動きがなかったら、男の「苦労」は見えてこなかったかもしれないなあ、と思う。「足を踏ん張っ」たとき、渋谷はしらずしらずに「男の肉体」の何かと共感している。「肉体」でつながって、男になってしまっている。「コノタワケガ!」と言った父親のことばを思い出すとき、渋谷は単にことば(声)だけではなく、そこにいる父親の「肉体」も思い出し、「肉体」そのものを感じている。つながっている。そういう感じで、ベランダの男を「身近に」実感している。この「身近」を指して、私は「男になる」と言っているのだが……。「身近/実感」は「わかる」ということでもある。
ただ見るのでなく、男になっているので、男がたばこに火を点けるために、「風で吹き消されるから 次第に仕切り板にすり寄って」いくのが「わかる」。ほんとうは違うことをしているかもしれないが、「足を踏ん張って」見ると、男も「足を踏ん張って」何かをしているように見えてしまう。見えていることが「肉体」そのものの「動き」として「わかる」。わかってしまう。「次第に仕切り板にすり寄って」の「次第に」まで、「わかる」。いやあ、おもしろいなあ。「次第に」なんて、見ている渋谷には「どうでもいい時間」の経過である。「次第に」といったって、それは「他人の時間」。渋谷にとって「次第に」なんて関係がない。けれど「次第に」と渋谷は書いてしまう。男のなかで「時間」がどんなふうに動いているか、時間をどんなふうにつかっているかが「わかる」のだ。
この「他人の理解の仕方」がとてもおもしろい。「次第に」のなかで渋谷と男が重なる。渋谷は「次第に」男になっていく。
「火を点けているらしい」「必死、らしい」と「らしい」が繰り返されているから、これは「想像」。でも、ほとんど確信、事実。「必死、らしい」読点「、」は断定したあと、わざと「らしい」をつけくわえるために挿入されたものだが、この「呼吸」も、とてもおもしろい。
すっかり「男」になってしまって、男のことがわかっているのに、「、」をはさみ「らしい」をつづけ、「男の肉体」から渋谷は少し離れる。男になってしまって、それが、ほらやっぱり、なってしまったままではいやだから、ちょっと離れる。それが「、らしい」。その呼吸、そのことば。
そしてベランダしかたばこを吸えない男を「ベランダ族」と呼び、そういう風潮を批判したあと、
「山田風太郎」という別の男が出てくる。「ベランダの男」から少し離れて(離れるために)、別な人間のことをひっぱり出してくる。しかも「時代」の違う男。時代も男も違うのだが「たばこを吸う」ということが共通している。
あ、これはしかし、逆に言うべきなのだなあ。
「たばこを吸う」という「行為(動詞)」が、いまは「ベランダの男」になってあらわれているが、昔は「山田風太郎の日記」となってあらわれている。いや、違った。その「山田風太郎」が「いま」渋谷といっしょになって、ベランダの男を見ている。ベランダの男の「苦労」を見ている。
渋谷自身は「いま/ここ」で「たばこを吸う」わけではないのだが、「たばこを吸う」という「動詞(行為)」のなかで、ベランダの男と山田風太郎と渋谷が、重なり、また離れている。「ひとり」になりながら、渋谷が「ベランダの男の苦労」を生み出し、「山田風太郎の苦労」を生み出していると言えばいいのか。
言い換えると。
渋谷が「いま/ここ」にいなければ、渋谷がことばを動かさなければ、「ベランダの男(の苦労)」も「山田風太郎(の苦労)」も存在しない。その存在しないものが、渋谷によって生み出されている。台風の前の強風によって、肉体をあおられた拍子に、視線が動き、そういうものを生み出した。
この「生み出した」ものが、大それた発明品ではないので、「生み出した」という感じはあまりしないかもしれないけれど、私には「生み出した」という感じで見えてくる。
何といえばいいのか……。
ベランダの男にしろ、山田風太郎にしろ、まるで自分の産んだ子供を見るような愛着というが「肉体のつながり」がそこに漂っているからである。渋谷のことばに、奇妙な愛情がある。無関係なはずの人間なのに、「コノタワケガ!」と父親が渋谷に言うように、何か「愛情」をこめて、二人を軽蔑している。「遠くから見るとちょっとコッケイ」というような具合に。
「愛情の手触り」のようなものが、ベランダの男も山田風太郎も渋谷が「生み出したもの(男)」のように感じさせるのかもしれない。常識的な「時系列」では山田風太郎が渋谷を「生み出す(比喩ですよ)」ことはあっても、渋谷が山田風太郎を「生み出す」ということはないのかもしれないが、それは「二元論的な見方」であって、「二元論」を捨ててしまえば、「時間」に「前(先)」も「後ろ」もない。「いま」だけがあり、「いま」のなかに「過去」も「未来」も溶け込んでいる。「いま」から「過去」や「未来」が「生み出される」だけなのだから、渋谷が山田風太郎を「生み出す」ということがあってもかまわないのだ。
で、渋谷が「生み出す」ものは「ベランダの男」や「山田風太郎」という「人間」だけではない。「たばこを吸う」という「動詞」も「生み出している」のだ。「たばこ」が渋谷の「肉体」のすぐそばまでやってきて、渋谷の肉体に働きかける。
ベランダからバス停までたばこの匂いがほんとうに流れてきたのか。そうではなく、たばこを吸う男の苦労(ベランダの男/山田風太郎の苦労)を「肉体」で引き受ける(そういう「苦労」を生み出す--産んだ子供の行為を母親が引き受けるようなもの)ので、「肉体」のなかで、それまで眠っていた感覚(嗅覚)が目覚め、それが「匂い」を生み出すのだ。
最初、書こうと思っていたことからどんどん違った方向にことばが進んでしまった感じがするが……。「傑作」とだけ書けばよかったのかもしれないが、誰も読まない「だらだら」とした感想がどうしても書きたかった。わけのわからない感想がどうしても書きたかった。渋谷の「肉体」が他人の「肉体」とぶつかりあいながら、結びつき、一つになって「世界」を新しくしていく。その感じがいきいきしていて、とてもおもしろい。
*
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渋谷美代子「東川下から」のつづきの感想(というよりも、新しい感想)を書いてみる。きのう書いたこととまったく同じになるか、まったく違ったものになるか。書いてしまったら私は書いたことを忘れてしまうので、見当がつかないが……。
台風が今夜にも北海道に上陸するというその日。「東川下のバス停」でバスを降りると台風の前触れの風が吹いてくる。
ちょっと気取って歩いていると
ぶぁっは(コノタワケガ!
後ろから風の棍棒
(ハイ、ハイ、
いくつかの「声」がまじっている。突風にあおられる。その突風は「コノタワケガ!」と言っている。引用では省略した部分で、「わたし(渋谷)」は「気取った」ことを考えていた。気取って、油断していた。それで突風のためによろめいた。そういうとき、父親か誰かが「コノタワケガ!」という風に注意する(父親から注意される)ことが何度もあったのだろう。そういうことを思い出し「ハイ、ハイ、」と返事している。
書かれていないが、そこには渋谷ではないひとがいる。渋谷ではないが、もう渋谷の「肉体」にしみ込んでしまった他人(父親、と仮定しておく。母親かもしれない)がいる。渋谷の「肉体」は渋谷以外の誰かとしっかり結びついている。
そういう渋谷自身の「肉体」のあり方が書かれたあと、
今朝、干して行った洗濯物は大丈夫かな
八棟のベランダを見上げると
三階の人影のアヤシイ動き、ん?
足を踏ん張って目をこらすと、男で
苦労してタバコに火を点けているらしい
風で吹き消されるから 次第に仕切り板にすり寄って
片腕で囲って必死、らしい
ふと見るともなしに見た風景が描かれている。風の強さによろけ、洗濯物の心配をしたのは一瞬だけで、すぐにそのことは忘れベランダにいる男に視線が奪われてしまう。「アヤシイ動き」をしている。その「アヤシイ」を「目をこら」して見つめると、男の様子がわかってくる。たばこを吸おうとしているらしい。風が強いのでなかなか火が点けられない。
それだけなのに、なぜか、おかしい。
そんな男など「足を踏ん張って目をこら」して見なくてもいいでしょ? でも、見てしまう。ただ見るだけではなく「足を踏ん張って」。だって、風が強いのだから、と渋谷は言うかもしれないが、風が強いなら自分のことを考えるのが優先順位として上だと思うが、そこは「足を踏ん張る」ということで乗り切って、男を見てしまう。
そうすると、渋谷が「足を踏ん張って」がんばっているように、男も何やら「苦労して」いるらしい。「足を踏ん張る」という「肉体」の動きがなかったら、男の「苦労」は見えてこなかったかもしれないなあ、と思う。「足を踏ん張っ」たとき、渋谷はしらずしらずに「男の肉体」の何かと共感している。「肉体」でつながって、男になってしまっている。「コノタワケガ!」と言った父親のことばを思い出すとき、渋谷は単にことば(声)だけではなく、そこにいる父親の「肉体」も思い出し、「肉体」そのものを感じている。つながっている。そういう感じで、ベランダの男を「身近に」実感している。この「身近」を指して、私は「男になる」と言っているのだが……。「身近/実感」は「わかる」ということでもある。
ただ見るのでなく、男になっているので、男がたばこに火を点けるために、「風で吹き消されるから 次第に仕切り板にすり寄って」いくのが「わかる」。ほんとうは違うことをしているかもしれないが、「足を踏ん張って」見ると、男も「足を踏ん張って」何かをしているように見えてしまう。見えていることが「肉体」そのものの「動き」として「わかる」。わかってしまう。「次第に仕切り板にすり寄って」の「次第に」まで、「わかる」。いやあ、おもしろいなあ。「次第に」なんて、見ている渋谷には「どうでもいい時間」の経過である。「次第に」といったって、それは「他人の時間」。渋谷にとって「次第に」なんて関係がない。けれど「次第に」と渋谷は書いてしまう。男のなかで「時間」がどんなふうに動いているか、時間をどんなふうにつかっているかが「わかる」のだ。
この「他人の理解の仕方」がとてもおもしろい。「次第に」のなかで渋谷と男が重なる。渋谷は「次第に」男になっていく。
「火を点けているらしい」「必死、らしい」と「らしい」が繰り返されているから、これは「想像」。でも、ほとんど確信、事実。「必死、らしい」読点「、」は断定したあと、わざと「らしい」をつけくわえるために挿入されたものだが、この「呼吸」も、とてもおもしろい。
すっかり「男」になってしまって、男のことがわかっているのに、「、」をはさみ「らしい」をつづけ、「男の肉体」から渋谷は少し離れる。男になってしまって、それが、ほらやっぱり、なってしまったままではいやだから、ちょっと離れる。それが「、らしい」。その呼吸、そのことば。
そしてベランダしかたばこを吸えない男を「ベランダ族」と呼び、そういう風潮を批判したあと、
今よりはまだ視力があった頃
山田風太郎の戦中・戦後の日記(二冊)を読んだことがあるが
月に一回か二回のタバコの配給券を貰うのに
朝、暗いうちから並んだ、とか
のぞみ80本巻く/○○では紅茶を巻いて吸っている由/煙草屋に
数千の人行列す/などなど
生活必需品並の御苦労(なんてたって夢の紫煙だもんね
お国の方も 昭和二十一年一月にはもう
「PEACE」(第二次、らしい)を発売する、という
ウルトラサービスで呆っ気にとられたが
あの頃は あの頃
ベランダの人 と同じで
あれがふつーだったんだろな
遠くから見るとちょっとコッケイナなだけで
「山田風太郎」という別の男が出てくる。「ベランダの男」から少し離れて(離れるために)、別な人間のことをひっぱり出してくる。しかも「時代」の違う男。時代も男も違うのだが「たばこを吸う」ということが共通している。
あ、これはしかし、逆に言うべきなのだなあ。
「たばこを吸う」という「行為(動詞)」が、いまは「ベランダの男」になってあらわれているが、昔は「山田風太郎の日記」となってあらわれている。いや、違った。その「山田風太郎」が「いま」渋谷といっしょになって、ベランダの男を見ている。ベランダの男の「苦労」を見ている。
渋谷自身は「いま/ここ」で「たばこを吸う」わけではないのだが、「たばこを吸う」という「動詞(行為)」のなかで、ベランダの男と山田風太郎と渋谷が、重なり、また離れている。「ひとり」になりながら、渋谷が「ベランダの男の苦労」を生み出し、「山田風太郎の苦労」を生み出していると言えばいいのか。
言い換えると。
渋谷が「いま/ここ」にいなければ、渋谷がことばを動かさなければ、「ベランダの男(の苦労)」も「山田風太郎(の苦労)」も存在しない。その存在しないものが、渋谷によって生み出されている。台風の前の強風によって、肉体をあおられた拍子に、視線が動き、そういうものを生み出した。
この「生み出した」ものが、大それた発明品ではないので、「生み出した」という感じはあまりしないかもしれないけれど、私には「生み出した」という感じで見えてくる。
何といえばいいのか……。
ベランダの男にしろ、山田風太郎にしろ、まるで自分の産んだ子供を見るような愛着というが「肉体のつながり」がそこに漂っているからである。渋谷のことばに、奇妙な愛情がある。無関係なはずの人間なのに、「コノタワケガ!」と父親が渋谷に言うように、何か「愛情」をこめて、二人を軽蔑している。「遠くから見るとちょっとコッケイ」というような具合に。
「愛情の手触り」のようなものが、ベランダの男も山田風太郎も渋谷が「生み出したもの(男)」のように感じさせるのかもしれない。常識的な「時系列」では山田風太郎が渋谷を「生み出す(比喩ですよ)」ことはあっても、渋谷が山田風太郎を「生み出す」ということはないのかもしれないが、それは「二元論的な見方」であって、「二元論」を捨ててしまえば、「時間」に「前(先)」も「後ろ」もない。「いま」だけがあり、「いま」のなかに「過去」も「未来」も溶け込んでいる。「いま」から「過去」や「未来」が「生み出される」だけなのだから、渋谷が山田風太郎を「生み出す」ということがあってもかまわないのだ。
で、渋谷が「生み出す」ものは「ベランダの男」や「山田風太郎」という「人間」だけではない。「たばこを吸う」という「動詞」も「生み出している」のだ。「たばこ」が渋谷の「肉体」のすぐそばまでやってきて、渋谷の肉体に働きかける。
あっ、タバコの匂い
エーッ、こんなことまで? くん、くん、
ベランダからバス停までたばこの匂いがほんとうに流れてきたのか。そうではなく、たばこを吸う男の苦労(ベランダの男/山田風太郎の苦労)を「肉体」で引き受ける(そういう「苦労」を生み出す--産んだ子供の行為を母親が引き受けるようなもの)ので、「肉体」のなかで、それまで眠っていた感覚(嗅覚)が目覚め、それが「匂い」を生み出すのだ。
最初、書こうと思っていたことからどんどん違った方向にことばが進んでしまった感じがするが……。「傑作」とだけ書けばよかったのかもしれないが、誰も読まない「だらだら」とした感想がどうしても書きたかった。わけのわからない感想がどうしても書きたかった。渋谷の「肉体」が他人の「肉体」とぶつかりあいながら、結びつき、一つになって「世界」を新しくしていく。その感じがいきいきしていて、とてもおもしろい。
暗い五月―渋谷美代子第二詩集 (1967年) | |
渋谷 美代子 | |
思潮社 |
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谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
クリエーター情報なし | |
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
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