ウッディ・アレン監督「マジック・イン・ムーンライト」(★★)
監督 ウッディ・アレン 出演 アイリーン・アトキンス、コリン・ファース、エマ・ストーン
台詞の多い映画は苦手だなあ。この映画は特に最後の最後が叔母(アイリーン・アトキンス)がコリン・ファースを説得する会話ではなく、コリン・ファースが自分で答えを出すように方向性を与えるだけという「芸術的」なことばなので、あ、これを映画でやるのか……と驚きながら、困ったなあ、と感じるのである。演技も説得するのではなく、「無関心」風を装い、判断するのはコリン・ファースという具合に、仕向ける。そして、この台詞を、アイリーン・アトキンスが「見せる」。その演技も、とてもすばらしい。すばらしいのだが、私は困惑する。困ってしまう。英語がすらすらわかるわけじゃないからなあ。
また、こんなに台詞がおもしろい作品なら「芝居」の方に向いているかもしれないとも思う。「映画」で「見る」には台詞が多すぎる。
でも、不思議と「芝居」を見ている気持ちにはならない。「映画」を見ているという気持ちは消えない。なぜかな?
象徴的な「台詞」がある。エマ・ストーンが「私をきれいだと感じたことはないのか」とコリン・ファースに聞く。これに対して、コリン・ファースは「夕日の光のなかで、きれいに見える」とこたえる。強い光ではなく、陰った光。
そして、このことばどおり、エマ・ストーンは「翳り」のなかにいることが多い。屋外のシーンでも、顔に光が正面からあたるシーンは少なく、木立の影(翳り)のなかや逆光のような感じでいることが多かったように思える。
きっとウッディ・アレンは、この翳りのなかで動くエマ・ストーンの表情(目の力)にインスピレーションを受けて、この映画をつくったんだろうなあ。そのために「霊媒師」というようなあやしげな役を与え、さらに、その「翳り」よりももっと陰湿な哲学狂い(文学狂い?)のコリン・ファースの役どころを考えたんだろうなあ(痩せて、陰気臭さが増したように見えたが、減量したのかな?)。コリン・ファースの陰気臭さの前ではエマ・ストーンの「翳りのなかの美」は「光のなかの美」のように錯覚するからねえ。
この「翳りのなかの美」、さらにそれを引き立てる陰気臭さというのは「舞台」ではなむりかもしれない。芝居(舞台)の光はどうしても人工的になる。自然な「翳り」、空気の質感と、そこにいる人間の表情の微妙な変化を描き出すのは「舞台」ではむりだね。
そして、この「翳り」を北欧(たとえば映画の最初に出てくるベルリン)ではなく、南仏を舞台にして撮るところがウッディ・アレンらしい。あくまで「明るい光の翳り」にこだわっている。
で、そういう意味では「映画」でしかないのだけれど、これではまるでプライベートフィルムという印象がしないでもない。ウッディ・アレンがエマ・ストーンに求婚するためにつくった映画という感じがしないでもない。
プライベートな感じを楽しみたいひと、台詞のおもしろさを味わいたい、英語が堪能なひと向けの作品かな。
(KBCシネマ1、2015年04月15日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ウッディ・アレン 出演 アイリーン・アトキンス、コリン・ファース、エマ・ストーン
台詞の多い映画は苦手だなあ。この映画は特に最後の最後が叔母(アイリーン・アトキンス)がコリン・ファースを説得する会話ではなく、コリン・ファースが自分で答えを出すように方向性を与えるだけという「芸術的」なことばなので、あ、これを映画でやるのか……と驚きながら、困ったなあ、と感じるのである。演技も説得するのではなく、「無関心」風を装い、判断するのはコリン・ファースという具合に、仕向ける。そして、この台詞を、アイリーン・アトキンスが「見せる」。その演技も、とてもすばらしい。すばらしいのだが、私は困惑する。困ってしまう。英語がすらすらわかるわけじゃないからなあ。
また、こんなに台詞がおもしろい作品なら「芝居」の方に向いているかもしれないとも思う。「映画」で「見る」には台詞が多すぎる。
でも、不思議と「芝居」を見ている気持ちにはならない。「映画」を見ているという気持ちは消えない。なぜかな?
象徴的な「台詞」がある。エマ・ストーンが「私をきれいだと感じたことはないのか」とコリン・ファースに聞く。これに対して、コリン・ファースは「夕日の光のなかで、きれいに見える」とこたえる。強い光ではなく、陰った光。
そして、このことばどおり、エマ・ストーンは「翳り」のなかにいることが多い。屋外のシーンでも、顔に光が正面からあたるシーンは少なく、木立の影(翳り)のなかや逆光のような感じでいることが多かったように思える。
きっとウッディ・アレンは、この翳りのなかで動くエマ・ストーンの表情(目の力)にインスピレーションを受けて、この映画をつくったんだろうなあ。そのために「霊媒師」というようなあやしげな役を与え、さらに、その「翳り」よりももっと陰湿な哲学狂い(文学狂い?)のコリン・ファースの役どころを考えたんだろうなあ(痩せて、陰気臭さが増したように見えたが、減量したのかな?)。コリン・ファースの陰気臭さの前ではエマ・ストーンの「翳りのなかの美」は「光のなかの美」のように錯覚するからねえ。
この「翳りのなかの美」、さらにそれを引き立てる陰気臭さというのは「舞台」ではなむりかもしれない。芝居(舞台)の光はどうしても人工的になる。自然な「翳り」、空気の質感と、そこにいる人間の表情の微妙な変化を描き出すのは「舞台」ではむりだね。
そして、この「翳り」を北欧(たとえば映画の最初に出てくるベルリン)ではなく、南仏を舞台にして撮るところがウッディ・アレンらしい。あくまで「明るい光の翳り」にこだわっている。
で、そういう意味では「映画」でしかないのだけれど、これではまるでプライベートフィルムという印象がしないでもない。ウッディ・アレンがエマ・ストーンに求婚するためにつくった映画という感じがしないでもない。
プライベートな感じを楽しみたいひと、台詞のおもしろさを味わいたい、英語が堪能なひと向けの作品かな。
(KBCシネマ1、2015年04月15日)
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