詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウッディ・アレン監督「マジック・イン・ムーンライト」(★★)

2015-04-15 23:37:41 | 映画
ウッディ・アレン監督「マジック・イン・ムーンライト」(★★)

監督 ウッディ・アレン 出演 アイリーン・アトキンス、コリン・ファース、エマ・ストーン

 台詞の多い映画は苦手だなあ。この映画は特に最後の最後が叔母(アイリーン・アトキンス)がコリン・ファースを説得する会話ではなく、コリン・ファースが自分で答えを出すように方向性を与えるだけという「芸術的」なことばなので、あ、これを映画でやるのか……と驚きながら、困ったなあ、と感じるのである。演技も説得するのではなく、「無関心」風を装い、判断するのはコリン・ファースという具合に、仕向ける。そして、この台詞を、アイリーン・アトキンスが「見せる」。その演技も、とてもすばらしい。すばらしいのだが、私は困惑する。困ってしまう。英語がすらすらわかるわけじゃないからなあ。
 また、こんなに台詞がおもしろい作品なら「芝居」の方に向いているかもしれないとも思う。「映画」で「見る」には台詞が多すぎる。
 でも、不思議と「芝居」を見ている気持ちにはならない。「映画」を見ているという気持ちは消えない。なぜかな?
 象徴的な「台詞」がある。エマ・ストーンが「私をきれいだと感じたことはないのか」とコリン・ファースに聞く。これに対して、コリン・ファースは「夕日の光のなかで、きれいに見える」とこたえる。強い光ではなく、陰った光。
 そして、このことばどおり、エマ・ストーンは「翳り」のなかにいることが多い。屋外のシーンでも、顔に光が正面からあたるシーンは少なく、木立の影(翳り)のなかや逆光のような感じでいることが多かったように思える。
 きっとウッディ・アレンは、この翳りのなかで動くエマ・ストーンの表情(目の力)にインスピレーションを受けて、この映画をつくったんだろうなあ。そのために「霊媒師」というようなあやしげな役を与え、さらに、その「翳り」よりももっと陰湿な哲学狂い(文学狂い?)のコリン・ファースの役どころを考えたんだろうなあ(痩せて、陰気臭さが増したように見えたが、減量したのかな?)。コリン・ファースの陰気臭さの前ではエマ・ストーンの「翳りのなかの美」は「光のなかの美」のように錯覚するからねえ。
 この「翳りのなかの美」、さらにそれを引き立てる陰気臭さというのは「舞台」ではなむりかもしれない。芝居(舞台)の光はどうしても人工的になる。自然な「翳り」、空気の質感と、そこにいる人間の表情の微妙な変化を描き出すのは「舞台」ではむりだね。
 そして、この「翳り」を北欧(たとえば映画の最初に出てくるベルリン)ではなく、南仏を舞台にして撮るところがウッディ・アレンらしい。あくまで「明るい光の翳り」にこだわっている。
 で、そういう意味では「映画」でしかないのだけれど、これではまるでプライベートフィルムという印象がしないでもない。ウッディ・アレンがエマ・ストーンに求婚するためにつくった映画という感じがしないでもない。
 プライベートな感じを楽しみたいひと、台詞のおもしろさを味わいたい、英語が堪能なひと向けの作品かな。
                      (KBCシネマ1、2015年04月15日)
                      



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渋谷美代子「朝のお告げ」「東川下から」

2015-04-15 11:41:42 | 詩(雑誌・同人誌)
渋谷美代子「朝のお告げ」「東川下から」(「YOCOROCO」3、2015年03月15日発行)

 渋谷美代子「朝のお告げ」の感想を書きたいのだが、どう書いていいのか、困っている。

肩のあたりがさむいなあ、と思うのと
(時には半身 氷の下だったり
懐かしい背がうっすら遠のいてゆく
気配とが ほとんど同時で
そんな目覚めのあとはきまって風邪だ
いや、風邪気の方が先にあって 微熱も出ていて
悪寒がするから死者なのか

 風邪かなあと思って目覚めたときの、夢と目覚めの感じを書いている。特別に新しいことを書いているわけではないと思う。特別に新しいわけではないから、書いていることがそのまま「わかる」。あ、こういう感じ、あるなあ、と思い出す。
 それだけなのかなあ。
 違うなあ、この文体の、妙に「正確」な感じ、適正を少し超える度の強さの眼鏡をかけて世界を見たときのような「くっきり」感じ、その、わざと「くっきり」見えるために、世界が少しずれて見える感じ(複視というのか、世界が二重に見える感じ)、片目をつぶれば何でもないのだけれど、両眼で見るときに起きる、ごつごつ、くらくらした感じはどこからくるのかなあ。
 「ほとんど同時」の「同時」のせいかもしれない。「複視」の比喩をつかって言いなおすと、複視というのは左右の目に度数の違うレンズをつける(眼鏡のレンズの度数が左右で違う)と起きる。少しの違いなら起きないが、度数が「2」違うと確実に起きる。脳が左右の目の情報を処理しきれない。そういうときの「同時」を感じさせる。風邪の感じと死者の夢が「同時」にあらわれて、脳を刺戟する。度数が違うために、一方の目には「夢」の方が、他方の方には「微熱」の方が見え、それが交錯する。
 「ひとつのもの」を見ているわけではないから、この「複視」の「比喩」はおかしい。うーん、そうかもしれない。けれど「死者(他人)」と「微熱(自分の肉体)」を「同時」に見るのではなく、「死者は自分の肉体とつながっている存在(いのちがつながっている死んだ肉親)」、「微熱は自分の肉体に生じた現象」というふうにとらえ直すと、そこには「自分の肉体」というものが共通する。「自分の肉体」を度数の違うレンズ越しに見たために起きた「複視」ということもできると思う。
 そして、この「同時」の「複視」を感じたあと、脳の方は「先」をめぐって「いまおきていること」を整理しようとする。「微熱」が出ていて、その影響で「死者」を思い出したのかもしれないと考え直す。「死者」が夢に出てきたから、寒けを感じ、それから風邪を引いたというよりも、「微熱(体調の変化)」が脳に影響を及ぼし、死者の夢を招いたと考える方が「現代的(理論的?)」ではあるかもしれない。
 あ、でもどちらが「論理的」がどうかは、実は、私は関心がない。
 「同時」と言ったあと、その「同時」のなかにも「先/あと」を見極めようとする「論理指向」のことばの動きが、渋谷の詩を特徴づけているんだろうなあと感じた。そういうこおに興味がある。「同時」でやめずに、「同時」というのはありえない、どちらかが「先」。それをはっきりさせたいという欲望の強さが、また「比喩」にもどるのだが、眼鏡の「適正を超えた度数」のレンズを思わせる。そんなに明確にしなくて、すこしぼやけた方が(見えないものがある方が)、脳的には楽なんじゃないかなあ、と思うのである。それを考えてしまうのが渋谷なのだなあ。
 渋谷の詩の、なんとも脳を緊張させることばの強さは、そういうところからきてるんだろうなあ、と私の「感覚の意見」は言うのである。

 「東川下から」は台風が近づいた日に、ふだんでも風の強い「東川下のバス停」でバスを降りたときのことを書いている。

今朝、干して行った洗濯物は大丈夫かな
八棟のベランダを見上げると
三階の人影のアヤシイ動き、ん?
足を踏ん張って目をこらすと、男で
苦労してタバコに火を点けているらしい
風で吹き消されるから 次第に仕切り板にすり寄って
片腕で囲って必死、らしい

 「目をこらすと」がおかしいねえ。そんなもの(男がたばこを吸おうとしていること)なんか、目をこらしてみなくてもいい。その男が「次第に」仕切り板にすりよっていく。その動きを「次第に」なんて克明に脳に情報として与える必要はない。それよりも、洗濯物が心配なんじゃなかったのかなあ。そっちの方が「生活」にとって切実でしょ?
 でも、考える必要はないのだけれど、この、どうでもいいことのなかをことばが動いていく--そこに詩がある。「複視」の「ずれ」というか、くっきり見えすぎる世界の困惑がある。脳がこまっている感じがとてもおもしろい。「必死、らしい」なんて「必死」かどうかはどうでもいいし、それが「らしい」か「ほんとう」かなんて、もっとどうでもいいのに、そこまでことばが動いて行ってしまう(洗濯物から「ずれ」ていってしまう)ところが、とてもおもしろい。「ずれ」ながら、「ずれる」ことで、世界が「ずれ」たままくっくりしてくるところが、おかしい。
 この妙にくっきりと「ずれ」てしまったところから、渋谷の詩は山田風太郎の「戦中・戦後日記」の方へ動いていく。片方の目で「死者」を見て、他方の目で「微熱」を見たように、片方の目でベランダの男を見て、他方の目で山田風太郎の日記を見る。そのとき、その二つをつないでいるのは「たばこを吸う」という「行為/動詞/肉体」である。知らない男(たぶん)と山田風太郎を「肉体(動詞)」で「ひとつ」にしてしまうと、その「ひとつ」をうながした渋谷自身の「肉体」がそれに巻き込まれるようにして、

あっ、タバコの匂い
エーッ、こんなところまで? くん、くん、

 と動いてしまう。
 視力(ベランダの男を見る/山田風太郎の日記を読む)が、「肉体/動詞(たばこを吸う)」をとおって、「嗅覚」まで覚醒させた。「肉体」を動かすと、それまで動いていなかった「肉体」が動き出して、別の世界が広がる。世界が新しくなる。
 こういうことが「同時」と「先/あと」、「次第に」ということばによってつきうごかされる。「次第に」というのは時間の経過を表わすことばであり、それは「先」ではなく「あと」に属する。「同時」のなかには「先」と「あと(次第にを含む)」があり、その「時間」の「結合」と「分裂」を明確すぎるくらい明確に書くところに渋谷のことばの不思議なおかしさがあるんだろうなあ。

 (私はいつも「結論」を想定せずに、ただ書きはじめる。だから、途中で書きたいことが変わってしまって、てんやわんやになるちことがある。今回もそうだなあ。何が書いてあるか、わかりにくいと思う。私もはっきりとはわかっていないから、それがそのままことばの動きになって、ごちゃごちゃなのだ。
 書きはじめたときは「朝のお告げ」の方がおもしろいと思ったが、書いている途中から「東川下から」の方がおもしろいと感じはじめた。あした、「東川下から」について書き直そうかな、とふと思っている。私は一日40分、ただ一気に書くだけなので、あしたはまた気分がかわり、ほかのことを思うかもしれないが……。
 私の「日記」は無視して、ぜひ「YOCOROCO」を読んでみてください。佐藤裕子の詩もおもしろい。)

暗い五月―渋谷美代子第二詩集 (1967年)
渋谷 美代子
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破棄された詩「けやき通り」のための注釈(29)

2015-04-15 01:11:37 | 
破棄された詩「けやき通り」のための注釈(29)

「並んでいる」ということばがつかわれているのは、木がそれまで見てきた木というものはかってに生えているものだったからである。強い衝撃で暗闇に突き落とされたあと、気がついたとき、木は木が並んでいるのに気づいた。

「高い木が並んでいる」と言いなおされたのは、木が並んでいるだけではなく高さがそろっていることに気づいたからである。枝はいずれもビルの三階の高さから斜めに伸びている。横に広がると切られてしまうので、斜めに伸びることを自然におぼえたのだった。

「高い」は「上の方」と書き直されると、そこではざわざわとした騒ぎが始まった。幼さが、あたりにもやのようなものを吐き出し、少しでも早く緑の色を濃くしようと競っているのがわかった。木は、その木の欲望をなつかしく感じた。

「なつかしい」とは「おぼえている」ということばといっしょに動いている。木は、ほかの木のことは忘れてしまったがその木のことをおぼえている。その木は「水が石にぶつかり、飛び越しながら流れている」と言い、そこから春が始まった。

木は、「流れる」ということばに誘われて、枝がつつみこむ道の下を走る車は何を頼みにしているのだろうと疑問に思った。「信号の指図は短調で、止まれと進めを繰り返すだけである」と書いたところで、木のことばは中断した。信号に止まる車のように。

詩の中断について私が知っているのは、木が「どうしても鳥の世話がしたいのだ」ということばを書きたくなったと思ったからだ。「止まる」ということばが鳥を空から呼び出したのだ。だが、どこにも「とまる」鳥はいない。枝は、その軽さに苦しんでいる。







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