監督 ポール・トーマス・アンダーソン 出演 ホアキン・フェニックス、ジョシュ・ブローリン、オーウェン・ウィルソン、キャサリン・ウォーターストーン、リース・ウィザースプーン
ポール・トーマス・アンダーソンをはじめて知ったのは「ブギー・ナイツ」。びっくりしたが、今回の「インヒアレント・ヴァイス」にも、うーん、うなってしまった。
「インヒアレント・ヴァイス」って何のこと? 英語に疎い私にはわからない。映画の中で、私立探偵ホアキン・フェニックスの元の恋人が自分のことがそう呼ばれていたという具合に説明される。「字幕」も出てきたが、私にはなじみのない「日本語」だったのか、まったくおぼえていない。
こんなふうに、何かわからないまま感想を書く(批評をする)のはいいかげん?
私はそうは思っていない。あれこれ資料(パンフレットとかメディアに書かれている情報)を取り寄せて、それをもとに「説明」をくわえても、それは私が見たことではない。私は「インヒアレント・ヴァイス」って何かわからないまま、この映画を見た。見終わったあとも、わからない。それでも、わかることがある。その、わかること(わかったつもりになっていること)について私は感想を書く。
「ブギー・ナイツ」の場合、ポルノ映画をつくっているという、わりと「わかりやすい」内容だったが、だからといって、そこに描かれていることのすべてがわかるわけではない。ストーリーも、巨根の男がスカウトされてポルノスターになり、やがて落ちぶれるという「概略」はおぼえているが、感動はストーリーとは無関係。
同じように、今回の「インヒアレント・ヴァイス」の場合、不動産業の男が誘拐される(精神病院に強制入院させられる)という事件が起きて、それを私立探偵が調査してみると、ドラッグがらみの組織が裏で動いている、ということがわかるというストーリーはあるのかもしれない。しかし、感動は、そんなストーリーとは関係がない。
私がびっくりし、感動するのは、映像の情報量の多さと的確さ(濃密さ)である。1970年代のロサンゼルス(中心街ではなく、はなれた場所?)のヒッピー文化(なつかしいことばだなあ)が、「未整理」のまま、ずっしりした重量感で描かれる。登場人物のひとりひとりが70年代のままなのである。ホアキン・フェニックスのアフロヘアやモミアゲからのびる髭も「演技」といえば「演技」なのだが、「演技」を超えて「現実」になっている。マリフアナ、ドラッグ、セックスも「小道具」を超えて「現実」になっている。
何を、どう撮れば、こんな具合に「現実」になるのか。
いま書いたことと矛盾したことを書くことになるが、ポール・トーマス・アンダーソンの映画では、カメラは演技をしない(極力カメラの演技を抑える)で、役者にたっぷりと演技をさせる。演技を超えて、そこに生きている人間にしてしまう。
象徴的なのがホアキン・フェニックスが最初の方で電話で話す「おばさん」。おばさんは、化粧に忙しい。うまくいかない。「アイラインに集中しないといけないので、電話を切るね」。うーん、このおばさん、映画にする必要はないなあ。けれど、そこに出てきて「自己主張」する。そうすると、ストーリーとは無関係に、こういう女がいるなあ、と思う。いまとなってはけばけばしいアイシャドー、アイラインだが70年代は、そういう顔をした女がいた。その人たちは、こんなふうに真剣に化粧していたのだということが、わかる。ストーリーとは無関係に、生きている人間がそこにいると思ってしまう。おばさんは、ストーリーとは無関係に生きてしまう。(不動産業者の情報をホアキン・フェニックスに与えるという形でストーリーに関係しているという見方もあるかもしれないが、そこで語られる情報など、おばさんではなくても提供できるだろう。情報とは無関係に、おばさんが化粧している、化粧しているのでもう電話を切りたいと言っていることが、映画なのだ。)
「小道具」で言えば(小道具の方が説明がしやすいので、小道具で説明するのだが)、「ネクタイ」。不動産業者のクロゼットにはネクタイがたくさんぶら下がっている。ネクタイの絵は、女のヌード。どうやら男が関係した女らしく、ネクタイの一本一本の図柄が違う。違う女が描かれている。これは「小道具」が存分に「演技」している。一本一本が時間をもって、生きている。
さらに、たとえば殺人課の警部オーウェン・ウィルソンが日本人が経営する食堂でパンケーキを食べるシーン。バックに坂本九の「見上げてごらん夜の星を」が流れている。効果音としてではなく、実際にその店で流れている音楽として。その音楽が、その店を出るとき「上を向いて歩こう」に変わっている。歌が変わることで、その店内にいた「時間」がそのまま映画の中に描かれる。「小道具」が「時間」を演技しているのである。「小道具」が「時間」を生きているのである。
登場人物のすべてが、そういう調子で描かれる。ストーリーを動かすために演技をするというよりも、「時間」がそこにあり、その「時間」を人間が生きているということをあらわすために演技している。何もしなくても「時間」は過ぎるが、その何をしなくても過ぎてしまう感じを「肉体」そのもので表現する。そういうストーリーそのものとは無縁の演技を、ポール・トーマス・アンダーソンは役者に要求し、役者はそれに応えている。
役者たちは会話をするが、その会話のほとんどは、「なんだ、こいつ。何を考えてるんだ」というような思いを互いに抱きながら「時間」をすごす会話である。「会話」によってストーリーが進む(動く)部分もあるが、たいていは「無為/むだ」の「時間」がそこにある。ホアキン・フェニックとリース・ウィザースプーンがピザを食べ(食べたのかな?)、そのあとじゃれ合っているシーンなどセックスがあるわけでもなく、なんともいえず「むだ」。化粧しているおばさんのシーンのように「むだ」。「むだ」なんだけれど、その「むだ」がきちんと映像になって充実しているところが、もう、映画だなあ。映画しているなあ。「むだ」なのに飽きさせない。逆に、視線を強烈に引き込んでしまう。まいってしまう。「純文学」の「映画」なのだ。「描写」を読ませる「映画」なのだ。人間の「存在感」を描いた映画なのだ。存在感を描くことで「映画」になっている作品なのだ。
「演技しないカメラ」について書いておく。最初の方にホアキン・フェニックの住む家、階段、海が映し出されるが、この映像がとても奇妙。両脇に家があり、そのあいだが坂道(階段)になっているらしい。中央に手摺りのようなものが見える。「絵」になっていない。印象的な「美しさ」がない。「美しさの構図」からはみ出てしまった「むだ」な映像である。で、「構図の美しさ」が「絵」から排除されてしまうと、そこには「もの」の「存在感」だけが残る。カメラはカメラであること(印象的な映像をつくりだすこと)を拒否して、そこにある「もの」に対して、かってに存在感を主張しろ、と言っているのである。
こういう映画を見ると、その映画が描いている「街」と「時代」へさまよいこんで、そこを登場人物たちといっしょに生きている感じになる。こういう感じは「総合芸術」と呼ばれる「映画」ならではの体験である。
必見!
(「ユナイテッドシネマキャナルシティ13」4スクリーン、2015年04月22日)
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