詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広田修『ZERO』

2015-04-06 09:35:30 | 詩集
広田修『ZERO』(思潮社、2015年03月25日発行)

 広田修『ZERO』を読みながら「論理」というものについて考えた。私は「論理」というものを信じていない。「正しい」とは思っていない、と言い換えた方がいいのか。あるいは「疑っている」と言い換えた方がいいのか。「論理」の運動は信じているが、「論理の結論」を信じていないと言い換えた方がいいのか……。
 そんな私が広田修の詩を読むと、ことばはどんな反応を起こし、どんなふうに動いていくか。
 「窓」という作品。

(1)建物に窓があることによって、①内側と外側は窓の面に和声を張ることができる。②外の光は死に場所を見つけることができる。③建物は不要な密度を排泄することができる。④植物の有機的な欲情は建物の無機的な怒りに威嚇される。

 ここでは①②③④という「箇条書き」が、あたかも「建物」について何事かが分析されているように「偽装」される。ひとつひとつが「正しい」かどうかは問題ではない。四つ並列されることで、それぞれが「正しい」何かであると「偽装」される。
 これは「論理」そのものの運動なのか。あるいは、何かを「分析(分類)」すると、それは複数の存在(視点、論理)になるという「数学」があるだけなのか。一個の饅頭を半分にすると二つ、さらに二つにすると四つになる。それぞれは個別の側面から眺めることができる。「分析」なのか「分類」なのか、よくわからないが、ようするに「分ける」のである。
 「分ける」と「分かれる」。「分ける/分かれる」という「日常」が、ここでは、「日常」ではつかわない表現でおこなわれている。そして、その「非日常」は説明されずに「断言」される。

①内側と外側は窓の面に和声を張ることができる。

 窓によって「内側」と「外側」が生まれる。生み出される。(「分節される」というとかっこよくなるのだが、私は「分節する」ということばを、これからはつかわずに書いてみようと思うので、「生み出される」というのである。--これは、この「日記」を読んでくれている人のための補足。私自身の、戒めの補足。)「内側/外側」という「分け方」は「日常」には頻繁におこなわれる。そのために、その「分け方」を「肉体(ふつうは、肉体といわずに「頭」というかもしれない)」は無意識に受け入れ「正しい」と思う。その「正しい」という思い込みを利用して、広田は「和声を張ることができる」と唐突に「断言する」。「内側/外側」という「前提」が正しければ、その後の「結論」は当然「正しい」というわけである。この「前提が正しければ結論は正しい」というのは「論理の暴力」なのだが、この「論理の暴力/断言の暴力」を詩と呼ぶと、広田の書いていることは、とてもわかりやすくなる。「論理の暴力/断言の暴力」とは「非論理」ということでもある。「論理」ではないものが詩であると、広田は「論理」を利用しながら語るのである。「論理」を「偽装」しながら、その「論理」を否定することで詩を生み出す。
 ②は、外の光は死に場所「内側に」を見つけることができる。
 ③は、建物は不要な密度を「外側に」排泄することができる。
 と①でつかわれた「内側」「外側」を補えば、①の「論理の偽装」の上塗り(?)、あるいは繰り返しであることがわかる。
 ④は「有機的」と「無機的」が「内側/外側」の「分析(分類)」に呼応している。
 この「分析/分類」を繰り返すという運動を利用して、「論理」を偽装し、そこに「和声」「死」「密度」「欲情/怒り」を組み合わせ、「偽装論理」を隠し、「断言」を浮かび上がらせる。ことばの「反復」は「論理」を偽装生産する装置(方法)である。

 私は最初に書いたように、「論理(論理が導き出す結論)」というものを疑う人間である。多くの人々も疑っていると思う。疑っているが、言うと「頭が悪い、こんなこともわからないのか(現代詩がわからないのか)」という反応が返ってくるので、こわくて言えない。私は「頭が悪い」ということを自覚しているので、「頭が悪い」と言われても気にならない。平気である。だから、広田の作品は「論理を偽装して、断言を詩である」と言っているだけ、と、とりあえず書く。
 こういう批判は、広田はすでに承知しているのだろう。(1)を反復して、補足して、拡張する形で詩を展開する。反復、拡張のなかで、より複雑な詩を展開してみせる。長くなるので(私は目が悪く、長く書いていると文字が散らばって見えてくるので、簡単に書くために)、最初の部分だけを引用する。

(1)①私は窓を開け、外へと手を通すことで、内側と外側との和声にリズムを添える。私の手の皺のリズムは光の呼吸に均しい。そのリズムに合わせて、窓には無数の空間が集まってきては面になる。

 最初の「論理/分析(分類)」に「私」を参加させることで、それを「現実」にする。最初に書かれたものが「素粒子論」のような「論理物理学」だとすれば、いま書かれたのは「実証物理学」(実験)のようなものである。「論理(架空)」が「人間」によって「現実」になる。「論理」を「私(人間)」が反復することで、それを「事実」であると主張する。もちろん、これも「ことば」のうえでのことなので、一種の「偽装」である。
 「論理」はどこまでも「偽装」が好きなのである。
 「偽装論理」は反復によって「偽装」を隠す。
 これは「反復」が「論理」を「正しい」ものと偽装するということである。
 広田は①だけではなく、引用はしないが②③④についても、「反復」している。「反復」しながら、それを「拡張」している。「拡張」できるのは、その「論理」が「正しい」からである。「間違っている」論理は「拡張」できない。「間違った論理は破綻する」。破綻せずに「拡張」できているのだから、ここに書かれている「論理」は「正しい」。さらに、その「論理の結論」である「和声」も「正しい」。
 その「断言」が「論理」ではない、「論理」を逸脱しているということによって、詩であると主張するのが広田の作品(ことばの運動)なのだが、その「論理の運動」自体が「非論理」であることの方が、「結論」よりも詩的である。--と書いたら、何やら循環構造のはまり込みそうだが。

 もうひとつ、わかりにくい(?)作品で広田のことばの運動の特徴を見てみる。「音楽の道」。その冒頭。

)鳥が叫んでいた、音楽の道。(僕はその先に小屋があって、小屋はビルの一階になっていることを知っている。沙漠の拡大は羞恥心により妨げられている。ビルの屋上から沙漠は始まった。音楽が細く放射していく、僕の眼球。小屋の中、椅子の上にはもう一つの椅子があり、鳥の叫び声を保存している。モンシロ鳥。僕は道の脇の木々に、幹の曲がり具合について尋ねる。幹がどれだけ社会へと曲がっているか。鳥の色を記憶しようと力んでみたら、鳥の記憶が色になって細く放射していく、僕の眼球。

 このことばの運動も「反復」によって、そこに「論理」があるかのように装っている。反復し、拡大しを、反復しながら外部へ拡大(拡張)していくことで、内部を濃密にする、と広田は言うかもしれない。内部を外部へ反復しながら拡大(拡張)すると内部は空疎になるか。そうではなく、それは次々に何かを生み出すというエネルギーが反復構造によって保証されるのである。--などと書いても、私は、それを「信じて」書いているわけではない。ことばは、正反対のことを平気で書くことができる。だから、「外部へ拡張していく」と読むか「内部を充実させて行く」と読むかは、ベクトルの向きの違いにすぎなくて、そこには「論理は偽装できる」という「論理の問題点」があるだけなのだ。
 こういう詩を、どう読むか。私は、「動詞」に注目しながら読む。

 「叫んでいた」「知っている」「妨げられている」「始まった」「放射していく」「保存している」「尋ねる」「曲がっている」「記憶しよう」「力んでみる」、もう一度「放射している」

 「放射している」(放射する)ということばが反復されているが、他の「動詞」も、それぞれがそれぞれと接続することで、それぞれを「反復」しているのである。「僕」という「肉体」が「動詞」を「反復」することで、そこにある「世界」を「外側」にあるものではなく「内側」にあるものにする/「内側」から「底側」に出て行きながら「世界」を拡張するという構造を生み出すのである。
 「僕」は何かが(名詞が書かれているが、あえて「何かが」と名詞を除外してみる)「叫んでいた」のを「知っている」。その「叫び」は何かを「妨げられている」ことに対する抗議、怒り、悲しみ(感情の爆発)である。何か、いままで違ったことが「始まった」。始まったものは、その「内側」から「外側」へと何かを「放射していく」。「放射される」何かは「内側(内部)」に「保存」されていたものであるし、「放射された」何かは「外側(内側とは違う場/外部/他者)」に「保存される」。「放射」される前(保存されているとき)は何であり、放射されたあと(保存されたあと)、それは何になるか、「尋ねる」。放射される前と放射されたあと、それはどんなふうに違ったか(曲がったか/曲げられたか)。そういう「事実(世界のあり方)」を「記憶しようと力んでみたら」、僕から何かが「放射していく」。
 「外側」から何かが「僕」の「内側」に入ってきて、入ってきたことを自覚すると何かが「僕」の「内側」から「外側」に「放射していく」。「ひとつながりの運動」が見える。運動する「肉体」が見える。(「頭」が見える、というひともいるかもしれないが、私は「肉体」を見る)。その「運動」の瞬間瞬間、その「運動」が生み出すのものは「鳥」だったり「小屋」だったり「ビル」だったり「椅子」だったりする。そういう「もの(存在)」の断片を集めて、そこから「世界」がどういうものであるか判断することもできるが、動いていく「肉体」に焦点を絞った方が、広田のことばは「論理運動/運動する論理」ととらえる方が、私にはなじみやすい。つまり「誤読」しやすい。
 こんなふうに、私はどんな詩も「動詞」を中心にして「誤読」するのである。広田は「眼球」と「視力」を自己の中心にすえているので、私の読み方は「誤読」なのはわかっているが、あえてそう読むのである。

 もう一篇「詩」という作品についても書いてみたいと思ったが、時間がなくなった。あした書くかもしれない。やめてしまうかもしれない。

zero
広田 修
思潮社
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破棄された詩のための注釈(25)

2015-04-06 01:03:18 | 
破棄された詩のための注釈(25)

「三つ」ということばがあった。「こころには三つの仕事がある。愛する。憎む。悲しむ。」それを消した瞬間、漠然とした不安に詩人は襲われた。いま消しても、これから先も必ずあらわれてきて、それを消しつづけなければならない。

「一つ」ということばがあった。不意に襲ってきた不安を無効にするためには、「こころには三つの仕事がある。愛する。憎む。悲しむ。」ということばを、いま書いてしまえばいいのだ。「一つ」はすでに起きてしまっている。

「二つ」ということばがあった。「こころには三つの仕事がある。愛する。憎む。悲しむ。」は「二つ」のこころに同時に生まれた。そう知ることは、概念にとって、けっして消すことのできない愉悦である。
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