詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

破棄されたの詩のための注釈(35)

2015-04-27 10:59:49 | 
破棄されたの詩のための注釈(35)

   私を追い越した男が、路地を曲がったところで脇の階段をのぼっていく
   のぼり口に水道の蛇口が星の光を集めて滴をたらしている
   それは誰の光なのだろう
   あれは誰の階段なのだろう、もう誰もいないし、誰かがのぼった気配もない

一行目。「追い越した男」は「前を歩く男」の方がよかったかもしれない。前を歩く男の絶望というものはいつでも刺戟的である。「前」というのは実際の通りであることもあれば、その人の人生でもある。ある男色家の手紙によると「絶望は背後から見ると、まるで人を誘っているかのようにまっすぐである」。いつか剽窃して詩に書いてみたいと思うが、「まっすぐ」が伸びていかない。この詩でも「曲がる」という動詞が動き、絶望が奇妙な欲望に変わってしまった。

二行目。ことばは存在しないものに輪郭を与えるという哲学のために書かれた一行。形而上学的な意味を含まないと詩ではないと考える詩人のために、そういう注釈をつけたくて書いた。「たらしている」ということばのあとに、意識のなかでは「音が響く」と書いてあったのだが、それはやはり意識のなかで消されてしまった。ことばがねじれすぎるのを避けるためと、つぎの「光」への移行が、ことばの飛び越しになってうるさいからである。

三行目。「誰の」ということばは「ひと」を近づける。そこに誰もいなくても、「誰の」ということができる。「誰の椅子だろう」「誰の窓だろう」と書くだけで、椅子や窓といっしょに、そこにいただろう人間の人生が見えてくる。斧で叩ききった木を荒縄で結んだだけの椅子。路地から見上げると顔の下半分だけが見える窓。そう書くと、「誰の」はさらに濃密になる。

「誰の」と書くことで、私は「前を歩く男」に自分を近づけるのである。

四行目。「誰の階段だろう」は意識のなかで「あの男の階段なのか」から、肉体を動かすことで「私の階段」にかわり、その変化のなかで私は私ではなくなる。「階段をのぼる男は誰の肉体なのだろう」と言い換えることができる。私が私ではなくなる。その「裏切り」。それをことばにしたい欲望にとらわれる。欲望が私を裏切っている。そうことばを動かしていくとき、人間のいちばん大きな欲望とは絶望することである、ということばがどこからともなくやってくる。



*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之を読む(52)

2015-04-27 09:59:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(52)

91 死の海

 「死海」からヒントを得て書いたのか。塩分濃度が高く、人間のからだが浮いてしまうという海。

死の近くの海は
たれも見たものがない
海は途方もなく暗く深い
その海水の一滴一滴はひとをただちに盲目にするほど塩辛い
ぼくらはその海水を頒ち持つていて
朝夕 垂直の背骨をそれで磨き立てる

 「海水(塩分の強い水)」を「頒ち持つ」とは「涙」をさして、そう言っているのだろう。「涙」ということばが思い浮かぶのは、その直前に「盲目」ということばがあり、また二行目に「見る」という動詞があるためかもしれない。「目」がことばのなかを動いているために「涙」を連想してしまう。
 「塩辛い」の「辛(から)い」は「辛(つら)い」でもある。つらいとき、ひとは涙を流す。その涙が「垂直の背骨を磨き立てる」。つらさ、苦労がひとを育てると読むと、人生訓のようでもある。

強く逞ましくなつたその背骨が
すべてを焼きつくす太陽
すべてを吹きとばす大風にむかつて
ぼくらを荒野にひとり立たせるのだ

 これは人生訓の繰り返しになる。
 しかし、その次の行はどうだろう。

そして最後に死がやつてきたときぼくらは静かに海の中にはいることができる

 人生訓を超えている。あるいは、ずれている、というべきなのか。人生ではなく、人生を通り越して、死と対面している感じがする。「こんなふうにして生きなさい(つらくても我慢していきなさい、そうすれば背筋ののびたまっすぐな人間になれる」というような「声」はこの一行からは聞こえてこない。
 さらに最後の三行。

深夜
野のはてに
燐光を放ちながら背骨はするどく直立する

 死に向き合い、「直立する」嵯峨が見える。死は、嵯峨をまっすぐにするものの象徴なのだと思う。死を意識しながら「直立する」。このときの「直立」は「孤立」かもしれない。少なくとも「孤立」を恐れずに、嵯峨は立っている。ことばを、詩を書いている、と感じる。

 死と向き合った生、死と生は「対」になっている。
 「対」の意識はこれまで読んできた作品の中にあらわれていたが、次の作品にも「対」がある。
 (次の作品からは「多嶋海」という章。)

92 多嶋海

それは何かのまちがいかも知れない
沈黙でしやべつているひろい海

 「沈黙」と「しやべつている(しゃべる)」が「対」。「沈黙」が「しゃべる」というのは矛盾である。矛盾だから「まちがい」とも言える。しかし、嵯峨は「かも知れない」というだけで、断定はしていない。
 「矛盾(まちがい)」としてしか言い表すことのできなことがあるのだ。
 「沈黙でしやべつている」。その場に立ち合うと「沈黙」がうるさく感じられるだろう。「沈黙」が煩すぎて、何も聞こえない。

なにもかももうとつくに過ぎ去つているのに
すべてはいま始まつたばかりのようだ

 「過ぎ去つた(終わった)」と「始まつた」が「対」になっている。
 「対」はその接点に注目すれば「矛盾/衝突」(まちがい)になるが、「対」は必ずしも接しているとはかぎらない。「対」その存在、二つの存在のあいだに「間」がある、巨大な隔たりがあることもある。
 「生」と「死」という「対」のあいだには、広いのか狭いのかわからない。接していてるのか離れているのかわからない。
 遠く離れて存在していると思う「対」も、同じように、接している/離れていると「方便」で言うだけのことであって、実際にどんな「間(ま)」がそこにあるのかは、たいていはわからない。
 そのわからない「間」をことばで埋めて、そのことばで何かを「実感」させるのが詩なのだろう。「対」(二つの存在の組み合わせ)が詩であるというよりも、離れた存在(二つ)の「間(ま)」のなかを動くことばが詩なのだろう。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする