詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(51)

2015-04-26 11:28:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(51)

89 不死鳥

 「続・小品」のことばと通い合うものがある。

不死鳥は
砂と鉱石と小草のあいだから生まれる
深い井戸からたえず水を汲みあげている無一物の男よ
足もとに咲く薊の花を踏みにじれ
悔恨の薊の花を踏みにじれ
そして愛のコロナでおまえの棺を飾れ

 「不死鳥」は「無一物の男」である。「無一物の男」に「不死鳥になれ」と呼びかけている詩だ。
 「不死鳥」は炎の中から生まれ宙を飛ぶ。その姿と「深い井戸」が向き合う。水を汲み上げる姿が「非対称」の「対称」になる。「非」は単純な「対称」よりも強烈に「対称」を意識させる。「非対称」の形で向き合ったものが、それぞれの「直喩」になる感じだ。矛盾しているが、矛盾によって、その存在(あり方)が強烈に輝く。
 こういう「論理の暴力」というのか、「感覚の錯乱の暴力」というのかわからないが、激しい対立の、その「激しさ」を引き受けて、

足もとに咲く薊の花を踏みにじれ

 ということばが生まれる。花を踏みにじる。そう乱暴が「非対称」の「暴力」を突き破るのだ。美しい薊の花は「悔恨の」ということばで、「非対称」になる。「非対称」を「踏みにじる」という動詞の暴力が美しい。
 「おまえ」のなかにある何かを踏みにじれ。殺してしまえ。そうして、その死んだもののなかからおまえは不死鳥として甦れ、そう嵯峨は自分自身を励ましている。

90 ピラミッド

 この詩はなんだろう。私にはわからない。感じるところがない。

ぼくに注意してくれるものも
おなじ流沙の上に立つ
ふたりとも内部に傾くピラミッドを持つているが
諸々の地方の千の川にその影を落している

 「ふたり」というから「ぼく」と「注意してくれるもの(者)」がいるのか。どうも「二人目」の印象が薄い。「傾くピラミッド」という存在もイメージしにくい。ピラミッドは傾きようがない形をしているように私には思える。「内部に傾く」の「内部」が重要なのかもしれないが……。
 「川にその影を落としている」をピラミッドが川面に自分の姿を映していると読めば「傾く」は逆さまに映る(逆像)で映るピラミッドになるが、川面は「外部」であって「内部」ではない。その「矛盾」につまずいてしまう。
 嵯峨が書いている「川」は「内部」の存在なのか。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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法橋ひらく『それはとても速くて永い』

2015-04-26 10:35:52 | 詩集
法橋ひらく『それはとても速くて永い』(書肆侃侃房、2015年03月20日発行)

訪れることはないだろう(ザルツブルグ)靴音がきっと冷たい

 この歌で二つのことが気になった。
 一つは(ザルツブルグ)の処理の仕方。
 一首のおもしろさは「音」にこころが動いていることである。行ったことがない外国の都市。それを思うとき、ひとは、どう反応するのだろうか。写真を見たり、本を読んだりして、その都市のことを考えることが多いと思う。
 法橋は「音」に反応している。都市の名前。ザルツブルグという音。音に反応しているから、それにつづいて「靴音」が出てくる。そして、その耳に「冷たい」という触覚が紛れ込む。この感覚の変化、移行が「肉体」の内部を広げ、同時に未知の都市の空間と時間を広げる。さまざまな情景が、ぱっと目に浮かぶ。ザルツブルグへは、私は行ったことがないのだけれど……。靴音が似合う石だたみの通り、夜霧、古い路面電車などを「異国」を想像してしまう。
 音が不思議に美しい。不思議な美しさにあふれる音だ。濁音と促音(ツ)、「ル」の繰り返し。カタカナで書いてしまうと七文字になるが、音(母音)は七つはないと思う。この表記と実際の音の「ずれ」、日本語にない感覚が「冷たい」という印象になるのかな? 「肉体」をつつむというよりも、「肉体」に突き刺さってくる感じが、「冷たい」に通じるのかなぁ。よくわかないが、聴覚に触覚(皮膚感覚)が反応し、触覚から聴覚に何かがかえってくる。それが先に書いた石だだみだの夜霧だのという「視覚の風景」をも広げる。この感覚の連携がおもしろい。
 おもしろいのだけれど、違和感が残る。
 私は「音読(朗読)」というものをしない。しないけれど、ことばは「音」で伝えるものだと思っている。法橋のこの歌は、どう読むのだろう。括弧を、どう「音」にして伝えるのだろう。括弧は何のために書いたのだろう。現地に行っていない、現地で発音される「ザルツブルグ」という音を聞いていない。それは「架空の音」という意味で括弧のなかに入れたのかな? でも、その「架空」を括弧だけで処理していいのかな?
 (ザルツブルグ)という括弧付きの表記もそうなのだが、どこかで「視覚」が強引に音に割り込んでくる感じがある。音の動きが紛れ込んできた「視覚」のために、音が音になりきれていない。そんな感じがする。
 一首を貫く「音」がない--そう感じてしまう。
 これは、もう一つの気がかりと重なる。
 私は「きっと」ということばにもつまずいてしまった。もしかすると、(ザルツブルグ)という表記の仕方よりも「きっと」という音でのつまずきの方が大きいかもしれない。「きっと」につまずいて、その瞬間に(ザルツブルグ)の音を囲んでいる括弧に目が行ったのかもしれないなあ。つまずいて倒れるとき、つまずいた石とは別のものに目が行ってしまうのに似ているかな?

靴音がきっと冷たい

 これは「靴音がきっと冷たい(だろう)」と「だろう」が省略されている。「だろう」は「訪れることはないだろう」と「だろう」がすでに書かれているから省略したのか。省略したのだろう。
「だろう」は推測のことばである。法橋は、ザルツブルグを歩く靴音を想像している。そして想像で「冷たい」と感じている。その感じたことを「きっと」で強調している。
 なぜ「きっと」と強調しなければならなかったか。
 こころから「冷たい」と感じていないからだ。明確に感じていないからだ。「冷たい」は「実感」の強さをもっていない。だからこそ、「きっと」と強調する必要があったのだ。
 このふいに紛れ込んだ「弱さ」(実感の欠落)が音の響き(強いはずの響き)を壊している。
 「靴音が冷たいだろう」の「だろう」を省略して、それが「想像」であることを隠しながら、一方で「きっと」と強調する。そこにある「矛盾」が、この一首を弱くしているように感じる。
 「きっと」で「強調」するのではなく、もっと「肉体化」すれば(肉体の実感を紛れ込ませてしまえば)印象が違ってくるのだと思う。「冷たい」とはどういうことか。靴音が石だたみの凹凸を這っているのか。靴音が夜霧の大通りのなかで反響し、その反響が空虚を広くするのか。あるいは、いっしょに歩いてきた恋人が噴水の前で別れるのか。
 法橋の歌には、「肉体」の動きが欠落している。その「欠落」を「きっと」で隠している。「きっと」と書けば、それで「事実」になると思っている。
 その「きっと」のように、(ザルツブルグ)の括弧は、何かを強調するという「意味」が共通している。強調が(ザルツブルグ)の括弧だけならよかったのかもしれないが「きっと」ということばによって強調が繰り返されたために、強調ではなくなってしまった。しつこくなった。奇妙な形で括弧が浮いてしまった、ということになるのか。

開かれたままの図鑑の重たさよ虹のなりたち詳細すぎる

 「開かれたままの図鑑の重たさよ」はとてもおもしろい。図鑑はきっと手に持っているのではなく机の上かどこかにある。だから、それは実際には「重たさ」を肉体には伝えない。けれど、肉体はその重さをおぼえている。立ち読みしたときの瞬間的な「開かれた図鑑の重たさ」をおぼえていて、それは机の上にあっても甦る。この上の「五七五」だけで詩があるのだが、それを「虹のなりたち」で引き継ぐとき、「重たさ」を感じた肉体が途切れてしまう。「頭」のなかの、架空のできごとになってしまう。
 「靴音がきっと冷たい」の「きっと」のように「頭がつくりだす強調」によって嘘になってしまう。「虹」だけでも事件なのに、わざわざ「なりたち」というものを持ち出して「事件」を強調することで、そこにある「事実」が、開かれた図鑑の重たさが嘘になってしまう。「重たさ」にはもっと凡庸なものの方がしっくりなじむだろう。「肉体」で知っているものの方がなじむだろう。
 「虹のなりたち」という音、特に「なりたち」がそれまでの音とあわないし、「詳細すぎる」も「開かれたまま」という平易なことばの響きとあわない。極端に言い切ってしまうと、上の句と下の句では「文体」があわない。
 「イメージ」が強すぎて、架空の視覚が肉体を裏切っている。イメージが肉体として消化されきっていない。せめて「詳細すぎる」ではなく、その「詳細さ」をどう読んだか、それをことばにしないと「重たさ」と向き合わない。「重たさ」は肉体が感じている。「詳細さ」は「頭」が感じている。「肉体」と「頭」が分離している。
 (ザルツブルグ)と「きっと冷たい」も「肉体」と「頭」の分離だったんだろうなあ。「ザルツブルグ」は耳に響いてくる確実な「音」だったのに(だからこそ、足音を思い出させたのに)、それを括弧でくくってしまうとこで「肉体」から切り離した。その切断を「冷たい」という触覚(肉体)でつなぎなおしたのはいいのだけれど、「きっと」という「頭」の判断(念おし)で、ほんとうはつながっていないということを明るみに出してしまったということかなあ……。

途中から夢とわかって視ていたよ郵便ポスト打つ雨粒を

 これは「途中から夢とわかって視ていたよ郵便ポスト打つ雨粒を(視ていたよ)」とおなじ動詞が肉体の内部で反復されるで、音の響きが強くなって、気持ちがいい。ただし、この歌も「を」が倒置法を強調していて、そこが嘘っぽい。「雨粒」に焦点が当たってしまうのが、嘘っぽい。
 「文学なんて嘘」とわりきれば、まあ、それはそれでいいのだけれど。

それはとても速くて永い (新鋭短歌シリーズ)
法橋ひらく
書肆侃侃房
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