詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(46)

2015-04-21 10:56:52 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(46)

84 言(こと)の葉(は)のまにまに--外六篇

 この詩にも「対」が登場する。書き出しの四行は、その「対」が複雑に交錯し、美しい「和音」になっている。

ぼくから絶えまなく去つていくものに
いつはてるともなく夜はつづく
ただひとり行きつかなかつた永い旅路とは何であろう
地に低くあるものは闇のように求めあう

 「絶えまなく」と「いつはてるともなく」は「同じ」意味である。「去つていく」は「離れていく」であり、「分離」を意味する。それは「つづく」という意味の対極にある。「絶えまなく」と「いつはてるともなく」は「同じ」意味が「対」になり、「去ていく」と「つづく」は「反対」の意味が「対」になっている。
 さらに「去つていく」は「行きつかなかつた」とも「対」になっている。「去ってはいく」がそれは「行きつかない」のだから完全に「去った(分離した)」とは言えない。完全な「去る/分離する」は去って行ったものが「ぼく」以外の何かと結びつくときだろう。それまでは「去る」は完結しない。「ぼく」と「何か」のあいだに、どっちつかずの状態で漂っている。
 そして「去つていく」は「求めあう」とも「対」になっている。この「対」は「同じ」意味の「対」ではない。反対のものが向き合って、「ぼく」と「何か」のあいだにある、どっちつかずの状態に緊張感を与えている何かを「求める」だけではなく、求め「あう」。そこには二人(二つ存在)がいて、「ひとつ」をつくっている。。この緊張感が詩である、とも言うことができる。
 この緊張感のなかで「夜」と「闇」が、また交錯している。「夜」は「去つていく」ということばのある行に属するわけではないが、行の「領域」を超えて、交錯する。「つづく」と「永い」も同じである。
 ことばは交錯しながら「ひとつ」の何かを言おうとしている。「ひとつ」の何かを言おうとしているのに、そのことばは「ひとつ」になれずに散らばって出てくる。そのばらばらは完全なばらばらではなく、みな「ひとつ」の「場」をとおることで何か共通したものをあらわしている。
 はっきりとは名づけられない、その「場」を嵯峨がとおるとき、ことばが「対」になりながら生まれてくる。詩になって生まれてくる。
 同じような「対」は、

死はひとびとから何を奪い
何を充たそうとするのか

おまえの姿はいつも舞いあがる砂塵の最後に消え
また砂塵の先頭に現われる

どんなに長く生きようとしても
一瞬しか生きられない

 という行にも見られる。(注・引用は、それぞれ別の「断章」からの引用である。連続した行ではない。)「奪う」と「充たす」、「最後」と「先頭」、「永く」と「一瞬」。
 さらには、

そしてかれらは生きるために死ぬのだとおもう

 のように「生きる」と「死ぬ」が一行のなかで「対」になっているものもある。
 これらのことばは、すべて「入れ換え」可能である。

死はひとびとの何を充たし
何を奪おうとするのか

おまえの姿はいつも舞いあがる砂塵の先頭に消え
また砂塵の最後に現われる

どんなに一瞬を生きようとしても
永くしか生きられない

 最初に引用した二行も、

ぼくからいつはてるともなく去つていくものに
絶えまなく夜はつづく

 と言い換えることもできる。
 言い換えることもできるが、そういうことばを選んでいないのは、一種の「音楽」の感覚である。「意味」だけではことばは動かない。
 こういう不思議をそのまま体験する(味わう)のが詩を読むということなのだろう。
小詩無辺
嵯峨 信之
詩学社
コメント
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