詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(44)

2015-04-19 11:16:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(44)

82 広大な国--その他

 五つの断章から成り立っている。「広大な国--その他」というタイトルだが、一篇の詩のように思える。「夜も昼もない広大な国」「ぼくが生涯歩きつづけてもついに横断することのできない広大な国」とは「死の国」かもしれない。生きているから「死の国」を横断することはできない。しかし、生きているから、想像力で「死の国」を歩くのである。

村々の上の大きな立雲
地平線をかぎるように遠く延びている大森林
村びとたちは水泡のようにつぎつぎに暗い森の中へ呑みこまれていつた
ぼくはそれを眺めながらただひとり別の路をとつた
そしていつのまにか夜も昼もない広大な国を歩いていた
ぼくが生涯歩きつづけてもついに横断することのできない広大な国を

約束をしたわけではない
大きな暗星の上で
ふたりは偶然出会つたのだ
もはや声の輝かしい葉を失つていても
ふたりはくる日くる日を大切にした
夜は血のながれの源へ沈めた錨を探しにいつた
そして幻の大きな船が広大な海の上を漂流しているのを見た

 この詩でいちばんわかりにくいのは「ふたり」だろう。「ひとり」は「ぼく」だが、出会った「もうひとり」は誰なのか。「死の国」の「死」だろうか。「死」を人格化しているのだろうか。
 私は「路」と思って読んだ。
 「ぼく」と「路」は偶然出会った。その路は「広大な国」のなかにある路である。「死」へつづく路であり、「死の国」の路である。死へつづくから、すでにその路は死の国にある。死の国の領土であると言えるのかもしれない。明確な区分けはない。
 ことばは一つの意味やイメージだけを背負っているのではなく、ことばのなかに定義できない形で何かが混じりあっている。そして、その混じりあったものを嵯峨は混じりあったまま見ている。見方によって「死の国」になったり、「路」になったりする。
 「路」と「ぼく」は「一体化」している。「ひとり」ということもできるし、「ふたり」と言うこともできる「あり方(存在の仕方)」であると思う。

夜は血のながれの源へ沈めた錨を探しにいつた

 この一行は「ふたり」は探しに行った、と読めるが、ことばのとおりに「夜」を主語にして、夜は探しに行ったと読むこともできるだろう。ぼくと路が一体になった、その路をとおって、錨を探しに行った。このとき、ぼく、路、夜が一体になっていると考えればいいのかもしれない。「ふたり」ではなく「三人」になっている。そして、「夜(三人)」が漂流している船を見た。
 「源(源流/水源)」はたいていは山奥なのだが、この詩は逆に「海」にたどりついている。「錨」が呼び寄せたのか。あるいは「ぼく」と「路」、さらに「夜」が「一体(ひとつ)」になったように、源と海は「一体(ひとつ)」になっているのかもしれない。路を歩く、路が歩く、夜が歩くという、その「歩く」が生み出した存在なのだ。
 そのとき「船」は船であって、船ではない。それは「夜」が生み出した船なのだ。夜だから見ることができた船、つまり夜の別の姿であるとも言える。「ぼく/路/夜/船」は、別々のことばで語られている(名づけられている)が、ほんとうは「ひとつ」である。ほんとうは「ひとつ」なのだが、ある瞬間ある瞬間、別の「形」になって生み出されている何かなのだ。
 詩はいつでも遠い存在(生と死/源と海)を結びつけたもの。あらゆる存在を結びつける「場」があって、その場が刺戟を受けると、そこに何かが生み出される。反対のものがぴったりとくっつく形で生み出される。生み出されるは、そして、たとえば「生」と「死」、「源」と「海」というようなかけ離れた「存在」だけではなく、「生」と「死」という「結びつき(関係)」こそが生み出されるのだ。「生と死」というときの「と」が生み出される言ってもいい。

 「ふたつ」の存在を結びつける。「ふたつ」を出会わせる。そう読み直せば、「ふたりは偶然出会つたのである」という一行の書こうとしていることに近づけるかもしれない。「ふたり」が出会って「ひとり」になる。「ひとりとひとり」の「と」になる。

生まれることも
死ぬことも
人間への何かの復讐かもしれない

 「誕生」と「死」、その対極のものが「人間」という存在のなかで結びついている。それは分離できない。人間は、生まれ、死んでゆく。矛盾している。なぜ死ぬために生まれなければならないのか。なぜ生まれたのに死ななければならないのか。この「矛盾」が抱え込む疑問は確かに人間への「復讐」かもしれない。

この問いは世々うけつがれて
かつて一度も答えられたことがない

 人間に答えられないから、「復讐」。でも、ひとは答えたい。詩人は、嵯峨は、答えたい。だから詩を書く。「論文」ではなく、矛盾を矛盾のまま受け入れてくれる詩を書くのだろう。

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破棄されたの詩のための注釈(32)

2015-04-19 01:26:01 | 
破棄されたの詩のための注釈(32)

「コップの灰色」ということばが、「絵」を呼び出した。テーブルの上のコップは、そうやって「過去」へ入っていく。「過去」とは人間の内部のことである。という比喩をとおるので、絵の中のコップの内部に入った水がつくりだす屈折は青くなる。一方、テーブルの上に投影されたコップの内側の輪郭と、コップの左側の白い光は塗り残した紙の色である。

さらに注釈をつけると、塗り残しについて聞かれたとき、セザンヌは「ルーブルでふさわしい色が見つかったら、それを剽窃して塗る」と答えた、という「注」をつけたくて、一連目を書いたのである。それはしたがって「事実」の描写ではない。捏造である。(一説に、セザンヌのことばは「ふさわしい色が見つかるまで塗り残しておくだけだ」。)

さらに注釈をくわえるなら、「絵」にしておもしろいのは「コップの灰色」ではない。つかいこまれた手袋や革靴の皺。鉛筆だけで何度も線を重ねながら黒い面にしてゆく。ひたすらリアリズムを追求するとき、皺は「内部」に起きたことを「外部」として刻む、一種の「罰」にかわる。顔のように、意識的に装うことができない。そういう苦悩が絵にでてしまう。

だからこそ「コップの灰色」にこだわるだとも言える、と書けば、これはもう「注釈」を逸脱することになる。無機質なものであっても、選びとられた瞬間から、そこに指紋のようなものが付着する。「内部/外部」は最初から最後まで一貫して存在するわけではない。そのつど「内部/外部」として世界にあらわれてくる、という注釈を書くためには四連目はどうあるべきだったのか。




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