詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陶山エリ「白湯と春」

2015-04-11 12:09:51 | 現代詩講座
陶山エリ「白湯と春」(現代詩講座@リードカフェ、2015年04月01日)

白湯と春   陶山エリ

二日酔いはよく知らないけれど
白湯を白湯を
やたらとうぜんのように求めてくる

ぬるい\温い(形)液体の温度が冷めたり暖まったりして、適温から外れている

冷水から白湯になったひと
熱湯から白湯になったひと
体温になりたいひと
めんどくさいような怠惰のような思わせぶりのような
有り難がられている
さゆさゆ、さゆをどうぞどうか

約束が破られたあとに言葉も破られると語っていたこともおぼえていないだろうけれど
二日酔いはよく知らないから
もれなく写経できてしまうくらいにおぼえているけれど
うやうやしく飲み干すそののどぼとけは山門に佇むひとのよう
よりいっそう無味が曝される罪深いぬるさに気づくことなく

視線からそっと体温を消すときは息を吐きながら
吐ききる 無を みていたい

もう戻れないんだね春は
扉をうっかり開いてしまったようで

風になりすまし白湯が
白湯の頬を撫でていくとき
この薄い感情をできるだけ深く突き刺したい

 この詩にも、いろんな感想がでた。
 「おもしろい詩。リズムがある。「冷水から白湯になったひと/熱湯から白湯になったひと」はわからないけれど、おもしろい」
 「有機的な感じ。「のどぼとけ」ということばが印象的。何かをおぼえているが、もどれない。それを思い出している。何か自立している印象がある」
 「批判的な詩。「もう戻れないんだね春は/扉をうっかり開いてしまったようで」の2行がいい。幻惑的な感じもする」
 「騙されている気がする。書いている以上のことを想像する。わかりたいという気持ちになる」
 「いらいらしている詩かもしれない」
 「白湯と春は反対のことばのように思える。悲しい感じがするが、意味がつかめない」
 「白湯と春というタイトルの組み合わせが独特。白湯と春のぬるい感じを組み合わせている「冷水から白湯になったひと/熱湯から白湯になったひと」「視線からそっと体温を消すときは息を吐きながら/吐ききる 無を みていたい」の2行がおもしろい」
 「いままでとは違った感じを書こうとしているようだ。「うやうやしく飲み干すのどぼとけ」の一行はあやしげ」
 「最後の一行に考えさせられた」
 受講生の何人かが、それぞれ印象的な行をあげているが、思わず「この行が好き」といいたくなる魅力にあふれている。
 それと関係していると思うが、その発言のなかの、

書いている以上のことを想像する。わかりたいという気持ちになる

 ということばが、詩以上に印象的に残った。
 詩を読むというのは、書いていることを「正確に」理解するということとは違うような気がする。作者が書いている以上のこと(以外のこと?)を読み取ってしまう。私はこれを「誤読」というのだが、書かれていることばに誘われて、作者の「肉体」がおぼえていることを無視して、読んでいるひとの「肉体」がおぼえていることが動き出す。自分の「肉体」にひきつけて読んでしまう。そのとき、ひとは詩を感じている、詩を生きているのだと思う。
 この詩は、作者によれば「春がきちゃったんだなあ、もどれないんだなあ」ということを書いた、ということだが……。
 私が思い浮かべるのは、二日酔いの男が「白湯が飲みたい」と言っているのを、女が醒めた感覚でみている状況である。「さゆを、どうぞ」「さゆを、どうか」と男は二日酔いで苦しみながら言っている。ちょっと、うるさい。めんどうくさい。男は白湯を求め、女はその男がめんどうくさい。二人のあいだに、ちょっとした「ずれ」のようなものがある。
 この「ずれ」を「白湯」の定義(辞書から引用したのだろう、(形)という部分までそのまま引かれている)を借りて「適温から外れている」と言っている。
 「適温」の「適」は「適切」の「適」。「適切な状態」から「外れている」。その「外れた」状態を、作者はなんとなくいやな感じでみている。感じている。作者が求めている「適切」とは違う状況にいるのだ。

冷水から白湯になったひと
熱湯から白湯になったひと
体温になりたいひと

 この三行は男の変化と重ね合わせられているのだろう。「体温になったひと」というのは、二日酔いとは違うね。酔いの残っていない(あるいは酔っていない)、ふつうの、いつもの状態。男は「体温」にもどりたいと思っている。それで白湯を求めている。
 三連目は、受講生のひとりが言っているように、とても批判的な視線が生きた連である。「批判的」ということばがぱっとでてきたのは、そのひとに、あ、こんなふうに男を見たことがあるのだなということを思い起こさせる。陶山の書いてることを引き受けて、それを味わうというよりも、そのことばのなかに自分の体験(肉体)を投げ入れて、自分自身のそのときの気持ちを思い出しているのだ。
 四連目は、三連目を言いなおしたものだ。もっと批判をこめている。怒りをこめている。それが「罪深い」ということばになっている。その「罪」に「無味」や「破る」ということばが交錯する。「無味」の「味」は「意味」の「味」であり、「約束が破られたあとに言葉も破られる」というような「意味」を感じさせることばも、いまは「無(意)味」である。なぜなら、男はそう語ったことを忘れている。
 ところが作者(女)はそれをはっきりとおぼえている。とても強い(熱い)「意味」だったはずのものが「ぬるく」なっている。意味が無意味になるときの「なまぬるい」感触のようなものが、ここでは語られていることになる。
 そういうことが「写経」「仏(のどぼとけ)」「山門」「罪」という、仏教と罪を関連づけたようなことばのなかで動いている。

 後半は、男に対する「批判」というよりも、女(作者)の気持ちをもう一度いいなおしたものだろう。男を批判的に見つめながら、何を感じていたか。肉体はそのときどう動いたか。

視線からそっと体温を消すときは息を吐きながら
吐ききる 無を みていたい

 これは、なかなか怖い行である。男を見つめる視線から「感情」を消す。温かい思いを消す。愛情が冷める。それを「体温を消す」と表現している。興奮しているとき、落ち着くために、ゆっくりと「息を吐く」。深呼吸する。そのときのように、男を見ながら、自分のなかの感情(熱い気持ち)を沈める。そして「感情」を「無」にする。息を吐ききってしまえば「無」になる。それを「みてみたい」。「みてみたい」といってしまうのは、まあ、未練のようなものかもしれない。
 で、

もう戻れないんだね春は
扉をうっかり開いてしまったようで

 これは男に言っているいうよりも、自分自身に言い聞かせている。もう、二日酔いの醜い男を見たあとでは、昔のように熱い気持ちで男に接することはできない。「意味」のあることばを言ったことを忘れている男とはいっしょにいられない。「春がきちゃったなあ」と作者は書いたときの気持ちを言ったが、「きちゃった」(してしまった)という「完了」の思いが「開いてしまった」の「しまった」のなかにある。

 最後の三行は、むずかしい。「終わってしまった」(完了)を感じながら、「終わらせたくない」という気持ちがあるのかもしれない。「終わってしまった」とことばにすること自体、「終わってしまっていない」ということかもしれない。ほんとうに終わってしまっていたら、ことばになどしない。

風になりすまし白湯が
白湯の頬を撫でていくとき
この薄い感情をできるだけ深く突き刺したい

 「白湯」(何もふくまない湯)、「無味」のものは、「薄い感情」と言い換えられている。「終わってしまった」のにまだ「薄い」ものが残っている。その「薄い」と「深く」が拮抗して、詩を印象づける。「薄い」なら「深く」突き刺さなくても、「浅く」突き刺すだけで充分なのだが、「薄い」からこそ「深く」突き刺したい。「深く」突き刺すことで、その「薄い」を「厚い」にかえて、とどめを刺したい、という激しい気持ちが「薄い感情」とは違うところにある。

 私のいま書いたことは、陶山が「書いている以上(以外)」のことかもしれない。「書いている以上(以外)」のことを勝手に「捏造」し、私は陶山をわかったつもりになる。陶山はこう感じている、と勝手に思っている。
 こういうことは、面と向かってことばにすると、作者の反応が見えてしまうので、その場で言うことはなかなかむずかしい。私は勝手気ままに、ただ自分の読みたいように読むのが好きなので、ここに書いた感想のほとんどは講座では言わなかったことである。
 詩を好きなひとといっしょに誰かの詩を読む。そのとき、思いもかけないことばが誰かから出てくる。それを手がかりにして、読み方をさらにすすめていく、というのは楽しい。感じていること、言いたことが、瞬間瞬間にかわっていく。私の感想も変わるが、参加しているひとの感想も変わる。そのとき、そこに、「書かれた詩」とは別の「詩」がある。それがおもしろい。



 次回は5月13日(水曜日)午後4時から。福岡市中央区、地下鉄南薬院駅近くの「リードカフェ」で。参加申し込みは書肆侃侃房(←検索)の田島さんに電話、あるいは私宛のメール(panchan@mars.dti.ne.jp)まで。

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