佐藤裕子「-射手座生まれ-」(「YOCOROCO」3、2015年03月15日発行)
佐藤裕子「-射手座生まれ-」は、出産(誕生?)とその後を書いているのか。あるいは誕生のなかに含まれる死を書いているか。喜び(祝福)だけではない「異質」がひそんでいる。誕生(死)の瞬間を見ようとして、そのまわりに集まってくる親族(あるいは医者たち)の欲望がなまなましく感じられる。
出産(誕生/あるいは死)ということを思ったのは「満月」と「朔の月」からの連想である。出産(誕生)も死も、潮の満ち引きと関係があると言われる。月の形の変化は、そのまま潮の満ち引きとつながる。宇宙の呼吸に合わせて、潮が動き、いのちが動いている。
それは「俗説」かもしれないが、この詩には(詩のことばには)、そういう「俗説」というか「世間」の無意識をたどってきた(ひとの「肉体」をとおってきた)ことばが、何か不思議な手触りで動いている。
「満月」に対して「朔の月」(始まりの月、最初の月)という対比。私は「朔の月」という表現をつかったことがない(聞いたこともない)ので、「朔の月」が「新月」を指しているかどうかはっきりとはわからないのだけれど、まあ「新月」に近いものだろうと想像している。「朔の月」というのは古い言い方なのだろうと思い、そこに「世間」の「肉体」というものを感じるのだが……。
で、そのことばが何ともなまなましく感じられるのだが、そして「生」と「死」という矛盾したものを同時に感じてしまうのはなぜかというと。
「満月」と「朔の月」の描写が異質だからである。口を開く。丸い口の形。それが「満月」というのなら「満月」だが、佐藤は単純に描写していない。「口蓋を開き」というのは口のなかの暗闇が見えるということである。「満月」なのに明るくない。暗い。そして「口蓋を開き」だから満たされているわけではない。そこには「無」がある。他方「朔の月」(新月)の方は唇を閉ざしているので「口蓋の奥(闇)」は見えない。唇を閉ざして、その「月」の形が細いとき(一文字のとき)の方が、闇(空虚)は存在しない。一行目からして、何か矛盾を秘めた形でことばが動いている。
これが魅力的であり、また、こわい。
いよいよ出産(誕生)/死というときに、集まってきたひとたちは「事件」を取り囲んで、狭まる。「身を乗り出す」と自然にその「円陣」は狭まる。「事件」の瞬間を見ようとする。その「視線」を破るようにして「声」が誕生する。赤ん坊が生まれたときの泣き声(いのちの始まりの声)か、それとも死んでいくときの最後の息の音か。
誕生と死を結びつけるのは不吉でよくないことなのかもしれないが、なぜか、私は死を感じる。死は、実際の死(たとえば老人の死)ではなく、生まれてくる赤ん坊自身の死かもしれない。「羊水時代の終焉」という意味での、比喩としての「死」かもしれないが。赤ん坊の元気な泣き声は、生まれた喜びなのか、羊水を去らなければならなかった悲しみなのか。区別はつかない。その区別のなさが「始まりと変わらぬ」ということばのなかにある。
これは胎児が羊水の海を、産道を回転しながらとおってくる様子を書いたものだろう。拳で固く握っているのはなんだろう。「羊水時代の死」か、それとも「新しく始まるいのち」か。「古の海水」の「古」ということばが、逆に「新しい」何かを想像させる。「古」は、「満月」と「朔の月」、「口蓋の開いた」闇(空虚)と「閉ざした唇」の充実の対比のように、「古」の対極にある何かを想像させる。
ことばは常に両極端を結びつけながら運動している。
だから「固く拳で握り」というのも、一方で握っていたものを手放したということを含んでいる。「羊水のなかでのいのち」(生き方)を赤ん坊は手放してもいるのだ。
ここには「分娩台」がじかに出てくる。それが「直」であるだけに、逆に「比喩(暗喩)」のようにも感じてしまう。出産の瞬間を集まってきた人たちが見ているのではない、と感じさせてしまう。「嬰児」なら蒙古斑がある(とは限らないが)。けれど死んでゆく人間なら、もう蒙古斑は消えている。「蒙古斑のない嬰児」は、「嬰児」ということばとは逆に「死者」を連想させる。
この「無言」の緊張は、私には臨終の緊張なのだけれど。「息を渡す」「渡された息を受け取る」というのは、死者のかわりに生きていくという感じなのだけれど、赤ん坊がはじめて空気を吸い込み、吐き出すときは、どんな「息」の受け渡しをしているのか。
この一連目の最後の四行は、臍の緒が切られ、赤ん坊が誕生した、羊水の海から「上陸」したということを語っているのだろうが、「外科用鋏」などとわざわざ書いているところが、やはり不気味である。「上陸」もただ「上陸」というのではなく「上陸の試み」と「試み」がついているところが、奇妙な手触りとなって残る。
私のような読み方は「誤読」なのだろうけれど、(佐藤の意図にそぐわないかもしれないが)、こういう「誤読」を引き寄せる力のあることばが詩なのだと思う。どんな「誤読」もまねかないことば、一種類の「正解」しか許さないことばというのは詩ではないのだと思う。
あ、これでは詩の紹介というより、私の「誤読」の自己弁護になってしまうか。
詩はこのあと五ページつづく。緊張と矛盾は休むことがない。あとは「YOCOROCO」で読んでください。
*
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
佐藤裕子「-射手座生まれ-」は、出産(誕生?)とその後を書いているのか。あるいは誕生のなかに含まれる死を書いているか。喜び(祝福)だけではない「異質」がひそんでいる。誕生(死)の瞬間を見ようとして、そのまわりに集まってくる親族(あるいは医者たち)の欲望がなまなましく感じられる。
満月は口蓋を開き朔の月は唇を結び
いついずこからともなく集まった者たち
身を乗り出すたびに円陣は狭まり
机上のことばを押し退ける始まりと変わらぬ呼び声
出産(誕生/あるいは死)ということを思ったのは「満月」と「朔の月」からの連想である。出産(誕生)も死も、潮の満ち引きと関係があると言われる。月の形の変化は、そのまま潮の満ち引きとつながる。宇宙の呼吸に合わせて、潮が動き、いのちが動いている。
それは「俗説」かもしれないが、この詩には(詩のことばには)、そういう「俗説」というか「世間」の無意識をたどってきた(ひとの「肉体」をとおってきた)ことばが、何か不思議な手触りで動いている。
「満月」に対して「朔の月」(始まりの月、最初の月)という対比。私は「朔の月」という表現をつかったことがない(聞いたこともない)ので、「朔の月」が「新月」を指しているかどうかはっきりとはわからないのだけれど、まあ「新月」に近いものだろうと想像している。「朔の月」というのは古い言い方なのだろうと思い、そこに「世間」の「肉体」というものを感じるのだが……。
で、そのことばが何ともなまなましく感じられるのだが、そして「生」と「死」という矛盾したものを同時に感じてしまうのはなぜかというと。
「満月」と「朔の月」の描写が異質だからである。口を開く。丸い口の形。それが「満月」というのなら「満月」だが、佐藤は単純に描写していない。「口蓋を開き」というのは口のなかの暗闇が見えるということである。「満月」なのに明るくない。暗い。そして「口蓋を開き」だから満たされているわけではない。そこには「無」がある。他方「朔の月」(新月)の方は唇を閉ざしているので「口蓋の奥(闇)」は見えない。唇を閉ざして、その「月」の形が細いとき(一文字のとき)の方が、闇(空虚)は存在しない。一行目からして、何か矛盾を秘めた形でことばが動いている。
これが魅力的であり、また、こわい。
いよいよ出産(誕生)/死というときに、集まってきたひとたちは「事件」を取り囲んで、狭まる。「身を乗り出す」と自然にその「円陣」は狭まる。「事件」の瞬間を見ようとする。その「視線」を破るようにして「声」が誕生する。赤ん坊が生まれたときの泣き声(いのちの始まりの声)か、それとも死んでいくときの最後の息の音か。
誕生と死を結びつけるのは不吉でよくないことなのかもしれないが、なぜか、私は死を感じる。死は、実際の死(たとえば老人の死)ではなく、生まれてくる赤ん坊自身の死かもしれない。「羊水時代の終焉」という意味での、比喩としての「死」かもしれないが。赤ん坊の元気な泣き声は、生まれた喜びなのか、羊水を去らなければならなかった悲しみなのか。区別はつかない。その区別のなさが「始まりと変わらぬ」ということばのなかにある。
古の海水をはきながら固く拳で握りながら
長い道は回転していくことを知っている
これは胎児が羊水の海を、産道を回転しながらとおってくる様子を書いたものだろう。拳で固く握っているのはなんだろう。「羊水時代の死」か、それとも「新しく始まるいのち」か。「古の海水」の「古」ということばが、逆に「新しい」何かを想像させる。「古」は、「満月」と「朔の月」、「口蓋の開いた」闇(空虚)と「閉ざした唇」の充実の対比のように、「古」の対極にある何かを想像させる。
ことばは常に両極端を結びつけながら運動している。
だから「固く拳で握り」というのも、一方で握っていたものを手放したということを含んでいる。「羊水のなかでのいのち」(生き方)を赤ん坊は手放してもいるのだ。
視線の集中を産出した医師が分娩台の抽斗から
蒙古斑のない嬰児を取り出すような手際良さ
ここには「分娩台」がじかに出てくる。それが「直」であるだけに、逆に「比喩(暗喩)」のようにも感じてしまう。出産の瞬間を集まってきた人たちが見ているのではない、と感じさせてしまう。「嬰児」なら蒙古斑がある(とは限らないが)。けれど死んでゆく人間なら、もう蒙古斑は消えている。「蒙古斑のない嬰児」は、「嬰児」ということばとは逆に「死者」を連想させる。
無言に込める張り詰めた間
渡す息をただ渡すためだけに渡された息を受け取る
この「無言」の緊張は、私には臨終の緊張なのだけれど。「息を渡す」「渡された息を受け取る」というのは、死者のかわりに生きていくという感じなのだけれど、赤ん坊がはじめて空気を吸い込み、吐き出すときは、どんな「息」の受け渡しをしているのか。
琺瑯質で光る臍帯は薄緑を帯び
外科用鋏の握りに添えた何本もの手が
対の鋭角を触れ合わせる
上陸の試みを記録するディスプレイのイルカ
この一連目の最後の四行は、臍の緒が切られ、赤ん坊が誕生した、羊水の海から「上陸」したということを語っているのだろうが、「外科用鋏」などとわざわざ書いているところが、やはり不気味である。「上陸」もただ「上陸」というのではなく「上陸の試み」と「試み」がついているところが、奇妙な手触りとなって残る。
私のような読み方は「誤読」なのだろうけれど、(佐藤の意図にそぐわないかもしれないが)、こういう「誤読」を引き寄せる力のあることばが詩なのだと思う。どんな「誤読」もまねかないことば、一種類の「正解」しか許さないことばというのは詩ではないのだと思う。
あ、これでは詩の紹介というより、私の「誤読」の自己弁護になってしまうか。
詩はこのあと五ページつづく。緊張と矛盾は休むことがない。あとは「YOCOROCO」で読んでください。
*
谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。