北川透『現代詩論集成1』(16)(思潮社、2014年09月05日発行)
詩の破壊力について 田村隆一論
私の書いている「感想」は、北川の書いていることを正確に紹介するためのものではないし、また北川の書いていることを批判するためのものではない。北川が書いたことばを手がかりに、私は私の考えたことを書いている。一種の「ことばの暴走」である。北川の文章を読んでいると、さまざまなことを考えてしまう。それは北川の考えを踏まえているわけではない。私は、ただ「考えたい」のであって、「結論」を求めていないから、そういう書き方をするのである。
きょう読む「詩の破壊力について 田村隆一論」の冒頭は刺戟的である。『四千の日と夜』について書かれたものである。
「詩の観念」とは詩にあらわれる(詩から読み取ることのできる)観念のことだろう。その観念には「広さ」と「深さ」がある。そして北川は「広さ」ではなく「深さ」に感動している。なぜ「深さ」に感動するかといえば、それは「存在の基底を揺るがし」、「基底」だと思っているもの(こと/「視える」基底」)をおし開き(開示し)、それよりも「深い」と教えてくれる(開示してくれる)からである。
「視えなかった」基底が見えてくる、見せてくれる--そういう力に北川は感動している。
これは説得力のある表現だ。見えなかったものが見えるようになると感動する。
そう理解した上で、私は、ここに書かれている北川のことばを自分なりに点検し、自分なりに考えてみたい。
まず「観念」とは何だろう。「視える」ということばを手がかりにすると、「見える(と、私は言い換えてみる)」ものが「現実/日常」、「見えない」ものが「観念」かもしれない。「観念」は具体的には視力に働きかけてこない。ことばの運動によって、その「動き」が「頭」につたわってくるもののことである。そのひとの「ことば」を動かしている何か基本的な「あり方」のようなものかもしれない。その「観念」が「深い」と、自分の「基底」の「浅さ」が見えるようになる(感じられるようになる)。そして、もっと「深い」ことばの動かし方があるとわかり、それに感動するということなのだろう。
これはこれで「わかる」のだが(「わかる」と私は勘違いするのだが)、でも、それは「広い」観念に出会ったときもそうなのではないだろうか。自分が見渡せない遠くまで見渡せる「広い」観念に出会ったときは、「存在の境界線(国境のようなもの/枠/領域の限界)」を揺るがされ、その「領域」がはるかに広いものであることを開示され、やはり感動するのではないだろうか。
なぜ、簡単に「深さ」の方に北川は感動したのかな? 北村太郎が「深さ」を書いていたからと言えばそれまでなのだが、私は、ここでちょっと疑問をもつのである。というか、あ、そうか北川は「広さ」よりも「深さ」の方に感動する思考の持ち主なのだな、と感じるのである。
この「深さ」のこと、開示された「深い世界」を、先の引用につづく文章のなかで、北川は「異教の世界」と呼んでいる。(「異数の世界」となっているが、たぶん、誤植だろう)。さらに、「想像力」によって、「ぼくらの安定した存在感を破壊」し、「非在のなかへ、不可視の世界へ飛び立つ」と言っている。「安定した存在感を破壊し」とは「存在の基底を揺るがす」を言いなおしたものだろう。
おもしろいのは、そうやって広がる世界を、北川が「異教の世界」ととらえていること。(私は信じているといえの宗教をもたないので、「異教」については深入りしないことにする。私にとって何が「異教」であるか、それが言えないから。)さらに、先には「基底/深さ」と呼ばれていたのに、ここでは「飛び立つ」という動詞がつかわれていることである。「基底/深さ」なら「潜る」という「動詞」で動いていくと思うのだが、北川は「飛び立つ」と書いている。
「深さ」とは北川にとって、単に「現実」の「基底」の方向(地下の方向)を指すだけではなく、同時に「空」の方向も指していることがわかる。「垂直方向」が無意識に指向されている。「広さ」が「水平」なのに対し、「垂直方向」へ世界を開いていく「観念」というものが思い描かれ、その「垂直方向」の開示のあり方に感動しているということがわかる。(そして、この「深さ(下)」に対して「飛び立つ(上)」という意識に、北川の指向している「思想」あるいは「メタフィジカル(形而上学)」の「上」が重なってくると私は感じている。--これについては、あとで触れるかもしれない。)
なぜ、北川がこうした運動に感動するかというと、
と「自由」と結びつけて語られている。自分の監視手いる限界(枠/拘束された状況)を超えて動いていくのが「自由」。「自由」を感じるから、北川は感動し、その感動をことばにしている。なるほど、わかりやすい。
この文章でおもしろいのは、ここでは先には「無視」された「広さ」が「より広い」という形で、「より深い」と並列されていることである。無意識に「広い/深い」を並列したのか、意識的に並列したのかはわからないが、並列しながらも重点は「深さ」に置かれているのかもしれない。しかし、「広さ」が並列されるにしろ、北川の指向は「深さ」を、あるいはその垂直方向の対極の「高み(高さ/飛び立っていく領域)を指している。
天(飛び立っていく領域/空)はたいてい障害物もなく「開かれている」。だから、「開く」という運動が問題になる「垂直方向」はどうしても「底(基底)」になる。「深さ」を「大地」を掘るようにして開いていく。私たちの「現実」の「足元(土台)」を掘り返していく。
そして、その「深さ」の「開示のあり方」にかかわってくるのが「想像力」というものである。ここまでは、なんとなく「わかる」。つまり、私は「こんなふうにして誤読することができる」と書くことができるのだが……。
その「想像力」を定義している部分が、うーん、うならされる。うなってしまう。
北川の書いている「文脈」を無視して私の感想を書けば、私にとって想像力とは「喰うこと(生きること)」と密接なものだと思う。どうしたら、あそこにあるものを「喰う(喰って生きる)」ことができるかと関係していると思う。ところが北川は「喰うことの意味づけを否定する働き」という。うーん、「観念的」だ。非現実的だ。何のことか、さっぱりわからない。
人間の生活(状況)を「拘束する(制約する)」ものを「開示する」とき、その「現実」から「喰って生きる」ということが除外されていては、「生きていけない」。状況に拘束される(制約される)のは「喰って生きなければならない」からであり、「喰う」ことを除外しているなら「拘束(制約)」というものは起きないのではないかな?
「形而上学」もいいけれど、「形而下学」を抜きにしては、人間の存在が成り立たないと思う。
「私有/所有」ということばで書かれていることも、私には何のことかわからない。何かを自分のものにしたい、つまり「私有」の欲望と結びついて「想像力」というのは動くと思うが、北川はそうではない、と定義している。
「現実(存在/実在/視えるもの)」と「観念(非在?/視えないもの)」と「想像力」ということばの「関係」が、どうも、私にはとらえにくい。わからない。だから、私は北川の「文脈」を読み、それを理解するというよりも、わかったつもりになるところで立ち止まりながら(わからないところで立ち止まりながら)、ごちゃごちゃと自分のことばを動かしてみとるのだが……。
わからないまま、私は、北川は詩を、「現実」と「観念」と「想像力」のぶつかりあう「場」と考えているのだろうと推測する。見えてる「現実」を「想像力」で破壊し、「現実」の基底にある「観念」の変更をせまる。基底を支えている「観念」と思われているものを破壊し、新しい「観念」を提示する(開示する)のが詩であると考えているのだと想像する。このとき「新しい観念」とは「新しい思想」と呼びかえてもいいのかもしれない。
北川は、こうした文章のあとで、北村太郎の「三つの声」をとりあげて、次のように書く。
「日常的な生の拒絶」とは「喰うことの意味づけを否定する」を言いなおしたものであろう。「直截的な隠喩」とは「想像力」のことだろう。「事実と事実の内側にこびりついた存在」とは「(ぼくらが無意識的に信じていた)存在の基底」のことだろう。「自立したメタフィジカルな世界」とは「観念(深い観念/形而上学/思想/哲学)」のことだろう。
「日常(現実)」の「基底」を「想像力(隠喩)」によって破壊し、それまでは見えなかった意識下の存在の本質を描く。「深い」ところにある「存在の本質(メタフィジカル/思想/哲学)」をあきらかにするのが詩ということになるのだろう。そして、そうやって発見(開示)された「メタフィジカルな世界」を北川は「言葉の海」( 350ページ)と呼んでいるのだが……。
わかりやすく(私の読み方が「正しい」と仮定しての「わかりやすい」なのだが……)、あ、そうなのか、と思わず引き込まれるのだが、一方で、私は「暗喩」と簡単に語られていることばにつまずく。
「暗喩」あるいは「比喩」とは何だろうか。
「比喩」が生まれてくるのは、どういう状況だろうか。「比喩」を生み出すとき(あるいは「比喩」に呼び出されてしまうとき)、私たちはどんなふうに動いているのか。
たとえば「あなた」を「バラの花」という「比喩」にするとき、「あなたは美しい」と「バラの花は美しい」が「美しい」という用言といっしょに動いている。「あなた」という「人間の現実(基底)」がいったん破壊され(人間であることを無視され)、「美しい」という用言にまで掘り下げられ(深められ)、その「深み」で「バラの花」を掴み取り、ふたたび「あなたのいる現実」へとあらわれてきて、そのときに「あなたはバラの花」という比喩になる。「あなた」を「バラの花」として「生み出す」。
こういうことはあらゆる「比喩」の基本的な運動だと思う。そのときの「用言」の働きをもっとことばにして描出しないと、「隠喩」を語ったことにならないのではないか、と疑問が残る。「現実のことばの世界」を破壊したときにあらわれる「基底」のさらに「深み」にある世界を「言葉の海」という「比喩」にしてしまっては、「現実の基底」を「破壊する」という運動の、「言葉の海」での動きがつかみとれない。そう思ってしまう。
「言葉の海」という「比喩」と「基底」を「開示する」という運動との関係も考えてみなければならない。「言葉の海」は「基底」と結びつけて考えるなら、たぶん「言葉の海底(あるいは海中)」ということになるのだと思う。海面の下の「巨大な海の内部」のことを言っているだと思う。「言葉の空(宇宙)」といわずに「言葉の海」というとき、そこには「海に潜る(下へ行く)」という運動が無意識に重ねられていると思う。そして、「海底(海中)」から何かをつかみとって「浮上」する垂直の、上方向の運動が「飛び立つ」(自由)へと結びつくのだと思うが、途中に「喰うことの意味づけを否定する働き」という文章(ことば)があるために、私は、その運動が「肉体」から離れてしまっているように感じ、それを追うことができなくなる。
北川が「状況」を語るとき、「肉体」はどこにあるのだろうか、それが、私にはわからなくなるときがある。
これは「荒地」の詩人たちが第一次大戦後のヨーロッパの思想状況を引き継いだというような「評価」についても感じることである。そのとき詩人たちの「肉体」はどこにあるのだろうか。その「肉体」と第一次世界大戦後は、どこでつながるのか。
詩の破壊力について 田村隆一論
私の書いている「感想」は、北川の書いていることを正確に紹介するためのものではないし、また北川の書いていることを批判するためのものではない。北川が書いたことばを手がかりに、私は私の考えたことを書いている。一種の「ことばの暴走」である。北川の文章を読んでいると、さまざまなことを考えてしまう。それは北川の考えを踏まえているわけではない。私は、ただ「考えたい」のであって、「結論」を求めていないから、そういう書き方をするのである。
きょう読む「詩の破壊力について 田村隆一論」の冒頭は刺戟的である。『四千の日と夜』について書かれたものである。
ぼくは詩の観念の広さよりも深さについて、圧倒的な感動におそわれたのである。詩の観念の深さとは何だろう。それは、ぼくの存在の基底を絶えず揺るがすことによって、僕らの生が視えるものよりも、はるかに深いものであるということを開示してみせることに他ならない。( 345ページ)
「詩の観念」とは詩にあらわれる(詩から読み取ることのできる)観念のことだろう。その観念には「広さ」と「深さ」がある。そして北川は「広さ」ではなく「深さ」に感動している。なぜ「深さ」に感動するかといえば、それは「存在の基底を揺るがし」、「基底」だと思っているもの(こと/「視える」基底」)をおし開き(開示し)、それよりも「深い」と教えてくれる(開示してくれる)からである。
「視えなかった」基底が見えてくる、見せてくれる--そういう力に北川は感動している。
これは説得力のある表現だ。見えなかったものが見えるようになると感動する。
そう理解した上で、私は、ここに書かれている北川のことばを自分なりに点検し、自分なりに考えてみたい。
まず「観念」とは何だろう。「視える」ということばを手がかりにすると、「見える(と、私は言い換えてみる)」ものが「現実/日常」、「見えない」ものが「観念」かもしれない。「観念」は具体的には視力に働きかけてこない。ことばの運動によって、その「動き」が「頭」につたわってくるもののことである。そのひとの「ことば」を動かしている何か基本的な「あり方」のようなものかもしれない。その「観念」が「深い」と、自分の「基底」の「浅さ」が見えるようになる(感じられるようになる)。そして、もっと「深い」ことばの動かし方があるとわかり、それに感動するということなのだろう。
これはこれで「わかる」のだが(「わかる」と私は勘違いするのだが)、でも、それは「広い」観念に出会ったときもそうなのではないだろうか。自分が見渡せない遠くまで見渡せる「広い」観念に出会ったときは、「存在の境界線(国境のようなもの/枠/領域の限界)」を揺るがされ、その「領域」がはるかに広いものであることを開示され、やはり感動するのではないだろうか。
なぜ、簡単に「深さ」の方に北川は感動したのかな? 北村太郎が「深さ」を書いていたからと言えばそれまでなのだが、私は、ここでちょっと疑問をもつのである。というか、あ、そうか北川は「広さ」よりも「深さ」の方に感動する思考の持ち主なのだな、と感じるのである。
この「深さ」のこと、開示された「深い世界」を、先の引用につづく文章のなかで、北川は「異教の世界」と呼んでいる。(「異数の世界」となっているが、たぶん、誤植だろう)。さらに、「想像力」によって、「ぼくらの安定した存在感を破壊」し、「非在のなかへ、不可視の世界へ飛び立つ」と言っている。「安定した存在感を破壊し」とは「存在の基底を揺るがす」を言いなおしたものだろう。
おもしろいのは、そうやって広がる世界を、北川が「異教の世界」ととらえていること。(私は信じているといえの宗教をもたないので、「異教」については深入りしないことにする。私にとって何が「異教」であるか、それが言えないから。)さらに、先には「基底/深さ」と呼ばれていたのに、ここでは「飛び立つ」という動詞がつかわれていることである。「基底/深さ」なら「潜る」という「動詞」で動いていくと思うのだが、北川は「飛び立つ」と書いている。
「深さ」とは北川にとって、単に「現実」の「基底」の方向(地下の方向)を指すだけではなく、同時に「空」の方向も指していることがわかる。「垂直方向」が無意識に指向されている。「広さ」が「水平」なのに対し、「垂直方向」へ世界を開いていく「観念」というものが思い描かれ、その「垂直方向」の開示のあり方に感動しているということがわかる。(そして、この「深さ(下)」に対して「飛び立つ(上)」という意識に、北川の指向している「思想」あるいは「メタフィジカル(形而上学)」の「上」が重なってくると私は感じている。--これについては、あとで触れるかもしれない。)
なぜ、北川がこうした運動に感動するかというと、
ぼくらの主体が詩的表現を通じて、より広い、より深い世界のなかへ向かって確かな存在を主張しはじめるということは、たえず、ぼくらが生きている状況に拘束されながら、その状況の制約そのものから自由となっていくということなのだ。
と「自由」と結びつけて語られている。自分の監視手いる限界(枠/拘束された状況)を超えて動いていくのが「自由」。「自由」を感じるから、北川は感動し、その感動をことばにしている。なるほど、わかりやすい。
この文章でおもしろいのは、ここでは先には「無視」された「広さ」が「より広い」という形で、「より深い」と並列されていることである。無意識に「広い/深い」を並列したのか、意識的に並列したのかはわからないが、並列しながらも重点は「深さ」に置かれているのかもしれない。しかし、「広さ」が並列されるにしろ、北川の指向は「深さ」を、あるいはその垂直方向の対極の「高み(高さ/飛び立っていく領域)を指している。
天(飛び立っていく領域/空)はたいてい障害物もなく「開かれている」。だから、「開く」という運動が問題になる「垂直方向」はどうしても「底(基底)」になる。「深さ」を「大地」を掘るようにして開いていく。私たちの「現実」の「足元(土台)」を掘り返していく。
そして、その「深さ」の「開示のあり方」にかかわってくるのが「想像力」というものである。ここまでは、なんとなく「わかる」。つまり、私は「こんなふうにして誤読することができる」と書くことができるのだが……。
その「想像力」を定義している部分が、うーん、うならされる。うなってしまう。
想像力の働きとは、本来、喰うことの意味づけを否定する働きであり、あらゆる私有の様態を拒絶して、本質的な所有の意味へ突き抜けようとする働きである。( 346ページ)
北川の書いている「文脈」を無視して私の感想を書けば、私にとって想像力とは「喰うこと(生きること)」と密接なものだと思う。どうしたら、あそこにあるものを「喰う(喰って生きる)」ことができるかと関係していると思う。ところが北川は「喰うことの意味づけを否定する働き」という。うーん、「観念的」だ。非現実的だ。何のことか、さっぱりわからない。
人間の生活(状況)を「拘束する(制約する)」ものを「開示する」とき、その「現実」から「喰って生きる」ということが除外されていては、「生きていけない」。状況に拘束される(制約される)のは「喰って生きなければならない」からであり、「喰う」ことを除外しているなら「拘束(制約)」というものは起きないのではないかな?
「形而上学」もいいけれど、「形而下学」を抜きにしては、人間の存在が成り立たないと思う。
「私有/所有」ということばで書かれていることも、私には何のことかわからない。何かを自分のものにしたい、つまり「私有」の欲望と結びついて「想像力」というのは動くと思うが、北川はそうではない、と定義している。
「現実(存在/実在/視えるもの)」と「観念(非在?/視えないもの)」と「想像力」ということばの「関係」が、どうも、私にはとらえにくい。わからない。だから、私は北川の「文脈」を読み、それを理解するというよりも、わかったつもりになるところで立ち止まりながら(わからないところで立ち止まりながら)、ごちゃごちゃと自分のことばを動かしてみとるのだが……。
わからないまま、私は、北川は詩を、「現実」と「観念」と「想像力」のぶつかりあう「場」と考えているのだろうと推測する。見えてる「現実」を「想像力」で破壊し、「現実」の基底にある「観念」の変更をせまる。基底を支えている「観念」と思われているものを破壊し、新しい「観念」を提示する(開示する)のが詩であると考えているのだと想像する。このとき「新しい観念」とは「新しい思想」と呼びかえてもいいのかもしれない。
北川は、こうした文章のあとで、北村太郎の「三つの声」をとりあげて、次のように書く。
日常的な生の拒絶において生み出した直截的な隠喩が、ぼくらを事実と事実の内側にこびりついた存在から、まったく自立したメタフィジカルな世界に誘うのである。( 350ページ)。
「日常的な生の拒絶」とは「喰うことの意味づけを否定する」を言いなおしたものであろう。「直截的な隠喩」とは「想像力」のことだろう。「事実と事実の内側にこびりついた存在」とは「(ぼくらが無意識的に信じていた)存在の基底」のことだろう。「自立したメタフィジカルな世界」とは「観念(深い観念/形而上学/思想/哲学)」のことだろう。
「日常(現実)」の「基底」を「想像力(隠喩)」によって破壊し、それまでは見えなかった意識下の存在の本質を描く。「深い」ところにある「存在の本質(メタフィジカル/思想/哲学)」をあきらかにするのが詩ということになるのだろう。そして、そうやって発見(開示)された「メタフィジカルな世界」を北川は「言葉の海」( 350ページ)と呼んでいるのだが……。
わかりやすく(私の読み方が「正しい」と仮定しての「わかりやすい」なのだが……)、あ、そうなのか、と思わず引き込まれるのだが、一方で、私は「暗喩」と簡単に語られていることばにつまずく。
「暗喩」あるいは「比喩」とは何だろうか。
「比喩」が生まれてくるのは、どういう状況だろうか。「比喩」を生み出すとき(あるいは「比喩」に呼び出されてしまうとき)、私たちはどんなふうに動いているのか。
たとえば「あなた」を「バラの花」という「比喩」にするとき、「あなたは美しい」と「バラの花は美しい」が「美しい」という用言といっしょに動いている。「あなた」という「人間の現実(基底)」がいったん破壊され(人間であることを無視され)、「美しい」という用言にまで掘り下げられ(深められ)、その「深み」で「バラの花」を掴み取り、ふたたび「あなたのいる現実」へとあらわれてきて、そのときに「あなたはバラの花」という比喩になる。「あなた」を「バラの花」として「生み出す」。
こういうことはあらゆる「比喩」の基本的な運動だと思う。そのときの「用言」の働きをもっとことばにして描出しないと、「隠喩」を語ったことにならないのではないか、と疑問が残る。「現実のことばの世界」を破壊したときにあらわれる「基底」のさらに「深み」にある世界を「言葉の海」という「比喩」にしてしまっては、「現実の基底」を「破壊する」という運動の、「言葉の海」での動きがつかみとれない。そう思ってしまう。
「言葉の海」という「比喩」と「基底」を「開示する」という運動との関係も考えてみなければならない。「言葉の海」は「基底」と結びつけて考えるなら、たぶん「言葉の海底(あるいは海中)」ということになるのだと思う。海面の下の「巨大な海の内部」のことを言っているだと思う。「言葉の空(宇宙)」といわずに「言葉の海」というとき、そこには「海に潜る(下へ行く)」という運動が無意識に重ねられていると思う。そして、「海底(海中)」から何かをつかみとって「浮上」する垂直の、上方向の運動が「飛び立つ」(自由)へと結びつくのだと思うが、途中に「喰うことの意味づけを否定する働き」という文章(ことば)があるために、私は、その運動が「肉体」から離れてしまっているように感じ、それを追うことができなくなる。
北川が「状況」を語るとき、「肉体」はどこにあるのだろうか、それが、私にはわからなくなるときがある。
これは「荒地」の詩人たちが第一次大戦後のヨーロッパの思想状況を引き継いだというような「評価」についても感じることである。そのとき詩人たちの「肉体」はどこにあるのだろうか。その「肉体」と第一次世界大戦後は、どこでつながるのか。
北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界 | |
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