詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉本洋子「春になれば」

2015-04-10 10:24:22 | 現代詩講座
吉本洋子「春になれば」(現代詩講座@リードカフェ、2015年04月01日)

春になれば 吉本洋子

故あってなのれぬが
と言ってぼろんじさんが訪ねてきた
私の育った父の郷にはやたらと
ぼろんじさんが歩いていて
はいはい父からのお使いですね
と簡単に納得してしまえる
しまえる私に
なのれぬと言っておるだろう
と聞き憶えのある地声になって
帰ってしまった
と と しまった
手ぐらい握ればよかった
と思っていると
喜捨された握り飯を抱えて戻ってきた
故あってなのれぬが元気でいるように
と素っ気無く言ってまた帰ってしまった
相変わらず面倒くさい性分だわ

なんだかこの頃
やたら故あってなのれぬ
となのる輩があらわれる
故あって故あってと煩い
私だって故あってときえいりたい
とごねていると
嗅ぎ憶えの匂いにゆさぶられた
振り向くと
掛け軸の前で透けるようにうな垂れている
使い古されたシーンだけど嬉しい
恥ずかしがりは変わらないのだわ
見えているよとも言えなくて
さりげなく つつつ
と近づいて触れてみた
この辺りだと思ったのにね
は は 笑ってしまう
笑っているうちに何も無くなってしまうんだね

 受講生の感想をならべてみると……。

 「「と と しまった」がおもしろい。「やたら故あってなのれぬ/となのる輩があらわれる」の「なのれぬ/なのる」のことば遊びのような行が楽しい。夢があってメルヘンのよう」
 「ことばのテンポがおもしろい。「嗅ぎ覚えの匂いにゆさぶられた」という行が好き」
 「ぼろんじさん、というのは何かわからないけれど、そのひとが「聞き憶え、嗅ぎ憶え」というような、記憶をたどるようにして浮かび上がってくるところがおもしろい」
 (吉本から、「ぼろんじさん」というのは有髪のお坊さん、半俗のお坊さん、との説明があった。「梵論指」と漢字で書く、とか。)
 「情景が浮かぶ。こういう人がいる。頭がよすぎて精神を病む。春になるとあらわれる」
 「最後がよかった。前半、おこぼさん(弘法大師)やお遍路さんが歩いている情景を思い出した。「と と しまった」や「さりげなく つつつ」という行の、音の繰り返しの遊びが楽しい」
 「タイトルの「春になれば」の季節感がいい」
 「ぼろんじさんという音がかわいい。ぼん、ぼろ、という響きがおもしろい」

 というような感想のなかで、

 「ぼろんじさんが、父とか母ということばだったら印象が違ってくる。父、母ではなくぼろんじさんだから他人につながる」

 という声があった。これは、とてもおもしろい指摘だ。
 吉本によれば、前半は父、後半は母を描いているという。「と と(父)」「は は(母)」と種明かしをした。
 それがたとえ吉本の父、母であっても、それを超えて読んだ人の父、母になる。その変化をうながす(吉本の父母なのに自分の父母を思い出す)というきっかけに「ぼろんじさん」ということばがある。
 「ぼろんじさん」はそのとき、「名詞」ではない。私の好きな言い方をすると「ぼろんじさん」は「動詞」である。吉本は「半俗のお坊さん」と説明したが、ふつうのひとではなく、「半俗のお坊さんになった人」の「なる」という「動詞(変化)」がそこにある。
 春という季節に誘われて精神に変調を来した人という読み方をした人がいたが、そこにも人間の「変化」がある。「変わる」。同じ人なのだけれど、別な人に「なる」。
 その「なる」という変化(動詞)が、吉本父母という限定を超えて、人間に共通する「動詞(なる)」のように感じられる。「他人につながる」というのは、そういうことだと思う。
 詩に限らないが、何かを読むということは、そこに書かれている「事実」を突き破って自分と作者をつなげてしまうことだ。吉本は吉本の父母を書いた。しかし読者はそれを吉本の父母であるとわかっていても、自分の父母とつなげてしまう。自分の父も「……と言っておるだろうに」と自己主張を譲らない男だった。その一方、「元気でいるように」というような心遣いをそっとする男だった。「手ぐらい握って」親密にしようとすると、さっと身をかわす男だった……という具合に。
 「他人につながる」という指摘は、すべての人間につながる可能性ということだろう。
 この父親に対する吉本の姿勢が、また、おもしろい。「はいはい父からのお使いですね」の「はいはい」の繰り返しには「わかりました、わかっていますよ(うるさいなあ)」という気持ちがあらわれている。その口調に対して父はきっと怒っただろうけれど、その対話の呼吸が、「はいはい」にあらわれている。
 こういう「呼吸」は誰もが「肉体」でおぼえていることである。だから吉本が吉本の父を書いても、それが読んだ人の父に重なる。父との会話に重なる。
 一連目の最後の「相変わらず面倒くさい性分だわ」という口調にも、それと同じものがある。「面倒くさい」という否定的な意味合いが、逆に吉本と父との濃密な「時間」を浮かび上がらせる。こんな否定的なことばを言ってもかまわないのは、それが「肉親」だからである。「相変わらず」がそれを強調する。

 二連目は、吉本が「母」と説明するまでは、私は「父」だと思って読んでいた。一連目の繰り返しだと思っていた。大事なことは、人は何度も繰り返す。言い足りないことが浮かび上がってきて書かずにいられない、のが人間である。
 「母」と言われて、そうか、吉本には「両親」で「ひとり」なのだと感じた。
 そういうこととは別に、私は一連目よりも二連目の方がはるかに好きである。一連目は「なのれぬと言っておるだろうに」「元気でいるように/と素っ気無く言って」という行が象徴的だが「言う(ことば)」が吉本と父をつないでいる。「手ぐらい握ればよかった」は手を握らなかった、手の接触がなかった、ということを語り、吉本と父との関係が「ことば」のやりとりに終わっている。「肉体」が欠けている。実際にそうだったのかもしれない。
 ところが二連目では、そこにあらわれる人間が「肉体」をもっている。
 「嗅ぎ覚えの匂いにゆさぶられた」という行が複数の受講生のことばを揺さぶったが、私もその行が好きだ。その行から始まることばの展開がとても好きだ。
 吉本は母を匂いとしておぼえている。母の匂いをおぼえている。嗅覚は人間にとっていちばん原始的な感覚で、最後(死ぬ寸前)まで生きているらしい。その嗅覚がふと母の匂いを嗅ぎ取る。そうするとそこに母があらわれる。「掛け軸の前で透けるようにうな垂れている」。何かあると、掛け軸の前でうなだれるのが母だったのだろう。「使い古されたシーン」というのは、何度も何度もその母の姿を見てきたということだ。それが「透けるように」というのは、目にははっきり見えないからである。半分、透明である。実在の母ではなく、思い出の母だからである。
 嗅覚から始まり、視覚へと動き、そのあと吉本の感覚は触覚へと広がっていく。

さりげなく つつつ
と近づいて触れてみた
この辺りだと思ったのにね

 この3行が、とても美しい。母の座る位置はきまっている。肩の位置も当然きまっている。それに触れようとする。手は(触覚は)、それをおぼえているのに、触れてくるものがない。跳ね返してくるものがない。嗅覚(嗅ぎ覚えのあるにおい)、視覚(うなだれている母の姿)は「実在」するのに、触覚だけは「実在」を手に入れることができない。その瞬間に、悲しみが、あふれてくる。そして、その悲しみを「は は」と笑うとき、吉本は「母」そのものになって生きている。
 「何も無くなってしまう」というのは、吉本の「外」の世界。吉本の「肉体」のなかでは、何もなくならず、吉本が「母」になるということが起きている。一連目も、吉本は「父」になっている。父になっているからこそ「元気でいるように」と言いに戻ったのである。
 こういう「肉体」の変化が詩のなかに書かれていると、詩がとても強くなる。受講生のことばを借りて言いなおせば「他人につながる」ものになる。

詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房
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雨が止むと、

2015-04-10 01:05:31 | 
雨が止むと、

雨が止むと、闇が街角から這い出してきた。あるものは輪郭のあるものをつつみながら高さを目指した。街路樹の濡れた肌は、内部の色を吐き出し、根本の土を驚かせている。あるものはアスファルトと雨の残した水分のあいだに忍び込み、いくつもの鏡をつくり出した。信号が変わると、家へ帰る車のブレーキランプの色が、踏み割られたガラスのなかに赤く輝いた。ビルの窓に、その赤が映るのを見ている人がいた。

黒いまま光っているのは、ビルのあいだの川である。
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