監督 松尾スズキ 出演 松田龍平、阿部サダヲ、松たか子、二階堂ふみ、荒川良々
金アレルギーになった元銀行員が1円もつかわずに生活する。どんなふうに? それを期待して見に来た観客が多いと思う。監督松尾スズキ、出演松田龍平、阿部サダヲ、松たか子という「顔ぶれ」なのに、観客は「年金暮らし」の年代が多かった。私も半分年金暮らしなのだけれど。
で、1円もつかわずに生活する方法は、ほとんど描かれていない。スーパーでバイトは給料の変わりに「現物支給」、便利屋の仕事も「現物支給」ということなんだけれど、ぜんぜんリアリティーがない。どうやって食べ物を料理する? 井戸を掘るといっていたが水はどうした? 「暮らし」の細部が描かれていないから、すべてが「絵空事」。まるで「芝居」(悪い意味)を見ているみたい。松尾スズキが監督だから「芝居」になる、といえばそれまでだが、これでは映画ではない。映画になっていない。
その、いちばんひどいシーンは、金アレルギーの松田龍平が片桐はいりに付き添われて銀行で預金を下ろすシーン。何回か失神しながらも預金を全額下ろす。これは「芝居」なら「ことば」で語るだけ。語る役者の「肉体」と「ことば」が魅力的なら、観客はそのシーンを想像して「芝居」に引き込まれる。ところがこれを「映像」で「再現」すると、もう、でたらめ。映画のように何度も客が失神していたら、銀行側があわてふためくだろう。客が銀行で倒れたりしたら、銀行の信用問題になる。「お話(嘘)」なんだから、そんなことは気にしなくてもいいのかもしれないが、それでは「映画」にならない。「映画」は、観客が見たことがない(見逃していた)人間の姿を「現実」としてスクリーンに定着させないと「映画」ではない。
このシーンでは「2001年宇宙の旅」と同じように「青きドナウ」の音楽がつかわれているが、「2001年宇宙の旅」ではボールペンが無重力でダンスするところなど、だれも見たことがないがゆえに「映画」になった。そうか、ボールペンまで無重力の空間では踊るのか、とわくわくさせられた。客が失神しても知らん顔の銀行というもの見たことはないが、そこにはダンスするボールペンのようなリアリティーがない。だから、だめ。
これが芝居なら、松田龍平の失神シーンはないわけだから、芝居が成り立つ。芝居は、ことばを聞いて観客が、そこに繰り広げられていない姿を想像するということが「文法」として許されている。いや、ことばを聞いてすべてを観客の肉体が追体験するというのが「芝居」であり、役者の「肉体」は観客の肉体を運動の「誘い水」のようなものなのだ。「映画」は逆に俳優の「肉体」を見て観客はそこに起きていることを掴み取る。ことばは「理解」のための補助的なものにすぎない。
ことばと肉体(映像)の関係が、「映画」ではなく「芝居」のままだから、見ていてだんだんしらけてくる。ことばはときどきおもしろいが、そのおもしろさは「肉体」とは無関係である。
ことばと肉体の関係を、もうひとつ書いておく。成功例を書いておく。映画の冒頭、荒川良々が松田龍平に絡むシーン。「何見てるんだよ」「何も見てません」「心の目で見てただろう」「いえ、見てません」「おまえ、こころの目を見るおれの能力を否定するのか」というようなやりとりがある。これは「映画」よりも「芝居」の方がはるかに刺激的な対話である。なんといっても「芝居」は「見えないもの」を「ことば」をとおして見るものだから。「心の目で見る」「心の目を見る能力」なんていう表現は、「ことば」の「特権的暴力」である。感動的である。
で、このシーンを「映画」にしているのは、ひとつには荒川良々の不細工な顔(肉体)である。舞台でははっきり見えないが映画ならアップのために顔の細部が見える。さらに舞台となった「かむろば村」の風景(厳密には、かむろば村へ行くバス停の風景)、「現実」の「土地の風景」の力がこれに作用している。その「土地」に注ぐ太陽の光、空気がスクリーンにひろがり、それが絡み付いてくる。芝居では「風景」は「書き割り(舞台装置)」であるために、観客は風景さえも想像力で補いながら見るのだが、映画では想像力を捨てて映像を見る。観客の想像力を許さない。荒川良々の不細工な顔(肉体)は、彼をけっして「善良な人間」とは想像させない。背景の風景は、そこが洗練された都会とは想像させない。映画は、見ている瞬間にほかの映像を想像させないことが力なのである。
想像力を拒絶する「映像」のなかで、荒川良々の不細工な顔(肉体)が「心の目で見ていただろう」というような、非常に洗練された哲学的言語(論理的言語)を発し、世界を破壊する--そこが、とてもおもしろい。
冒頭がおもしろかったので、私はかなり期待したのだが、あとはぜんぜん駄目だったなあ。「土地」が生かされていない。「かむろば村」である必要がない。「土地の論理」が映像として映画を動かしていない。「住民」が出てくるが、お飾りだ。
松尾スズキは役者として出るなら映画もいいかもしれないが、監督(演出)は「舞台/芝居」だけでやめておいた方がいいだろう。
(2015年04月04日、KBCシネマ2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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金アレルギーになった元銀行員が1円もつかわずに生活する。どんなふうに? それを期待して見に来た観客が多いと思う。監督松尾スズキ、出演松田龍平、阿部サダヲ、松たか子という「顔ぶれ」なのに、観客は「年金暮らし」の年代が多かった。私も半分年金暮らしなのだけれど。
で、1円もつかわずに生活する方法は、ほとんど描かれていない。スーパーでバイトは給料の変わりに「現物支給」、便利屋の仕事も「現物支給」ということなんだけれど、ぜんぜんリアリティーがない。どうやって食べ物を料理する? 井戸を掘るといっていたが水はどうした? 「暮らし」の細部が描かれていないから、すべてが「絵空事」。まるで「芝居」(悪い意味)を見ているみたい。松尾スズキが監督だから「芝居」になる、といえばそれまでだが、これでは映画ではない。映画になっていない。
その、いちばんひどいシーンは、金アレルギーの松田龍平が片桐はいりに付き添われて銀行で預金を下ろすシーン。何回か失神しながらも預金を全額下ろす。これは「芝居」なら「ことば」で語るだけ。語る役者の「肉体」と「ことば」が魅力的なら、観客はそのシーンを想像して「芝居」に引き込まれる。ところがこれを「映像」で「再現」すると、もう、でたらめ。映画のように何度も客が失神していたら、銀行側があわてふためくだろう。客が銀行で倒れたりしたら、銀行の信用問題になる。「お話(嘘)」なんだから、そんなことは気にしなくてもいいのかもしれないが、それでは「映画」にならない。「映画」は、観客が見たことがない(見逃していた)人間の姿を「現実」としてスクリーンに定着させないと「映画」ではない。
このシーンでは「2001年宇宙の旅」と同じように「青きドナウ」の音楽がつかわれているが、「2001年宇宙の旅」ではボールペンが無重力でダンスするところなど、だれも見たことがないがゆえに「映画」になった。そうか、ボールペンまで無重力の空間では踊るのか、とわくわくさせられた。客が失神しても知らん顔の銀行というもの見たことはないが、そこにはダンスするボールペンのようなリアリティーがない。だから、だめ。
これが芝居なら、松田龍平の失神シーンはないわけだから、芝居が成り立つ。芝居は、ことばを聞いて観客が、そこに繰り広げられていない姿を想像するということが「文法」として許されている。いや、ことばを聞いてすべてを観客の肉体が追体験するというのが「芝居」であり、役者の「肉体」は観客の肉体を運動の「誘い水」のようなものなのだ。「映画」は逆に俳優の「肉体」を見て観客はそこに起きていることを掴み取る。ことばは「理解」のための補助的なものにすぎない。
ことばと肉体(映像)の関係が、「映画」ではなく「芝居」のままだから、見ていてだんだんしらけてくる。ことばはときどきおもしろいが、そのおもしろさは「肉体」とは無関係である。
ことばと肉体の関係を、もうひとつ書いておく。成功例を書いておく。映画の冒頭、荒川良々が松田龍平に絡むシーン。「何見てるんだよ」「何も見てません」「心の目で見てただろう」「いえ、見てません」「おまえ、こころの目を見るおれの能力を否定するのか」というようなやりとりがある。これは「映画」よりも「芝居」の方がはるかに刺激的な対話である。なんといっても「芝居」は「見えないもの」を「ことば」をとおして見るものだから。「心の目で見る」「心の目を見る能力」なんていう表現は、「ことば」の「特権的暴力」である。感動的である。
で、このシーンを「映画」にしているのは、ひとつには荒川良々の不細工な顔(肉体)である。舞台でははっきり見えないが映画ならアップのために顔の細部が見える。さらに舞台となった「かむろば村」の風景(厳密には、かむろば村へ行くバス停の風景)、「現実」の「土地の風景」の力がこれに作用している。その「土地」に注ぐ太陽の光、空気がスクリーンにひろがり、それが絡み付いてくる。芝居では「風景」は「書き割り(舞台装置)」であるために、観客は風景さえも想像力で補いながら見るのだが、映画では想像力を捨てて映像を見る。観客の想像力を許さない。荒川良々の不細工な顔(肉体)は、彼をけっして「善良な人間」とは想像させない。背景の風景は、そこが洗練された都会とは想像させない。映画は、見ている瞬間にほかの映像を想像させないことが力なのである。
想像力を拒絶する「映像」のなかで、荒川良々の不細工な顔(肉体)が「心の目で見ていただろう」というような、非常に洗練された哲学的言語(論理的言語)を発し、世界を破壊する--そこが、とてもおもしろい。
冒頭がおもしろかったので、私はかなり期待したのだが、あとはぜんぜん駄目だったなあ。「土地」が生かされていない。「かむろば村」である必要がない。「土地の論理」が映像として映画を動かしていない。「住民」が出てくるが、お飾りだ。
松尾スズキは役者として出るなら映画もいいかもしれないが、監督(演出)は「舞台/芝居」だけでやめておいた方がいいだろう。
(2015年04月04日、KBCシネマ2)
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