詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デイミアン・チャゼル監督「セッション」(★★★★)

2015-04-18 20:22:09 | 映画
監督 デイミアン・チャゼル 出演 マイルズ・テラー、J・K・シモンズ

 あ、まいってしまったなあ。予告編のときも感じていたのだが、わからない。私は音痴。リズム感もない。で、J ・K ・シモンズが「1、2、3、4」バシーン、とマイルズ・テラー平手打ち。また「1、2、3、4」バシーン。「おれのテンポ(平手打ちするタイミング)が速いか遅いか、言え」。うーん、わからない。
 一分間に八部音符が388個(?)、400個(?)。その違いは? わからない。「388」と「400」は数字(デジタル)でなら「わかる」が、音そのもの(アナログ)では区別がつかない。「わからない」。どれが「間違い」で、どれが「正しい」か、さっぱりわからない。
 「わからない」けれど、引き込まれていくなあ。J・K・シモンズの黒いTシャツ、黒いズボン。それで「1、2、3、4」バシーン。「おれのテンポが遅いか、速いか」「1、2、3、4」バシーン。気持ちいいだろうなあ。やってみたいなあ。人格を否定し、ひたすら「正確」を要求する。人間的じゃないね。その人間的じゃないところが、とても人間的。たぶん人間だけが、人間に対して残酷(冷酷)になれる。自分を絶対化して他人を排除できる、他人に暴力を振るっても平気なんだろうなあ。--という意味での「人間的」。あまりにも「人間的」。
 それにつられてマイルズ・テラーも「人間的」になっていく。旧友を平気で見下す。ガールフレンドに音楽(ジャズ)の邪魔と平気で言ってしまう。そして「人間的」になればなるほど「絶対」に近づいていく。それを「正しい」と思い込む。
 うーん。
 ここには「音を楽しむ」という意味での「音楽」はない。ただ「絶対的音楽」、いや「全体的プレーヤー(有名人)」を欲望する「人間」の強欲のようなものだけがある。これが「音楽」映画だとしたら、これは怖いぞ。
 そして、実際に怖くて、冷酷でもあるのだが……。
 最後がすごいなあ。
 大学教授を首になったJ・K・シモンズは、いっしょに演奏しようとマイルズ・テラーに誘いかける。しかし、それはほんとうの誘いではなく、マイルズ・テラーを二度と音楽ができないようにするための「わな」である。彼を首にしたのはマイルズ・テーラーの密告である。それを許せない。だから、スカウトの大勢いる大会で演奏を失敗させる。一度失敗すれば、誰もマイルズ・テラーを誘わなくなる。間接的な音楽会からの追放である。なじみの曲を演奏すると誘いかけ、実際は新曲を演奏する。当然、マイルズ・テラーはうまくプレイできない。失態を演じる。マイルズ・テラーは負けたのだ。
 しかし二曲目、マイルズ・テラーはJ・K・シモンズの曲紹介をまたずに自分がなじんでいる「キャラバン」を演奏しはじめる。他のプレイヤーを巻き込む。主導権を握る。曲がおわる、はずのところで、突然「ソロ」を始める。
 それはマイルズ・テラーの、J・K・シモンズへの反逆(挑戦)なのだが、その演奏の熱さ(そして正確さ)にJ・K・シモンズの「音楽」が反応する。「これが、おれの求めていたものだ」という喜びがわいてくる。二人の激しい憎悪が、一瞬「音楽(音の喜び)」に変わる。あ、すごいなあ。
 あ、このすごいなあ、というのは、私が「音楽(ジャズ)」がわかって言っていることではない。音楽はわからないが、「映像(映画)」なら、わかる。マイルズ・テラーのドラムに合わせてJ・K・シモンズの手が反応する。指揮するように手が動く。顔が動く。目がいきいきと輝く。その表情が、いま、絶対的な(理想の)音楽がここにある、ということを教えてくれる。
 わあ、いいなあ。「1、2、3、4」バシーンもいいが、この恍惚の表情の指揮もいいなあ。これ、やってみたい。憎しみを忘れて、「そう、それなんだ、少しずつゆっくり、ゆっくり、今度は徐々に速く、もっと速く、さらに速く……」と酔ってしまう。「これが、おれの音楽だ」と恍惚とする。
 マイルズ・テラーの「成功」よりも、このJ・K・シモンズの「敗北」の美しさ。マイルズ・テラーを音楽界会ら追放できなかった、マイルズ・テラーを音楽界に認めさせてしまった、その「敗北」のなかで「音楽」が勝利する。それは「人間的」ではない。「音楽的」だ。そして「音楽的」であることによって、「人間」そのものに到達する一瞬でもあるなあ。

 完璧な耳をもっているひとには、この映画の「アラ」が見えるかもしれない。聞こえるかもしれない。けれど、音痴の私には、その「アラ」がまったく見えないので、最後はとても興奮した。
 ★4個なのは、もし私の耳がもっと敏感なら★5個になったかもという「期待」をこめた評価。一種の保留。耳のいいひとの感想を聴きたい。最後の演奏は超一流のプレー? それとも映像の魔術? 感動しただけに、気になってしまう。音痴の私は。
 それにしてもなあ、やってみたい。ジャズドラムをではなく、J・K・シモンズを「音楽狂人」の愉悦を、どこかでまねしてみたい。そういう欲望がむらむらとわいてくる。アカデミー賞にふさわしい名演だ。
                        (天神東宝3、2015年04月18日)






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嵯峨信之を読む(43)

2015-04-18 10:35:59 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(43)

 『魂の中の死』(1966)を読む。テキストは『嵯峨信之全詩集』(思潮社、2012年4月18日発行)。

81 上総舞子の唄

 最初の章は「広大な国」。巻頭の詩は、「上総舞子の唄」。書き出しは「女はゆくところがなかつた」。しかし、すぐに「ぼく」がでてきて「女」は出て来ない。

ぼくは大声でだれかの名を呼んだ
さだかならぬその名
その余韻はまことにむなしい
それは声になるはずもなく
ただぼくに帰つてくるばかりだ

 「女」は死んでしまったのかもしれない。その女の名を呼んでも返事はかえってこない。そう書いたあとの、次の連が興味深い。

ぼくを試すものがあるなら
一個の燭台をその方へ近づけるだろう
灯りが死者の傍らでみたものを告げるように
年齢(とし)とともにぼくから遠ざかったのはどこの川だ
弱くなった手あしがそれでもぼくを隠しているあいだに
死はたびたび生れかわる
そしてぼくは灯りを消して深く瞼をとじる

 「ぼくを試す」とは「ぼく」の「何」を試すのか。女への愛を試す、ということかもしれない。二行目の「その方」とは死んだ女の方ということだろう。そこに「近づける」という動詞がある。さらにその先に「遠ざかった(遠ざかる)」という動詞がある。この「対比」(対句?)が興味深い。女の方へ近づく。(いまは死んでいるが、生きているときは、まさに「近づく」だろう。)近づけば近づくだけ、ふるさとの川は遠ざかる。女といればいるだけ、ふるさとから遠くなる。そういうことが象徴的に書かれている。
 そして、その「近づく」と「遠ざかる」の「対句」の響きを受けたまま、

死はたびたび生れかわる

 という一行がある。「死」と「生(れる)」の対比がある。女は死ぬ。しかし、その思い出は消えることがない。生きたままぼくに近づいてく。女は遠ざかったが、思い出は近づいてくる。
 「そしてぼくは灯りを消して深く瞼をとじる」という行の「深く」もとても印象が強い。「深くとじる」とはどういうことか。瞼をとじると「闇」が「深くなる」。その深い闇のなかに女はやってくる。
 途中の「弱くなった手あしがそれでもぼくを隠しているあいだに」という一行は複雑で意味が取りにくい。私は、女は死んでいるがぼくは生きている。生きているということが、ぼくを女から引き離している。「ぼくを(女から)隠している」という風に読んだ。死は女からぼくを隠す。ぼくの方は女を幾度も思い出すことができる。そのたびに女は生まれ変わって思い出のなかに生きる。

 この詩の最終連。

ぼくの散り散りになつた魂しいを
拾いあつめようと騒いでいる鴎たち
消えるぼくを最後まで見とどけようとする凍結した港
海霧(ガス)の階段をのぼつてくるのは
死よりもなお青白い太陽
そして鴎たちはその白い墓の方へ吹かれるように舞いのぼつていく

 「たましい」はふつうは「魂」と書く。詩集のタイトルも「魂」をつかっている。ところが、嵯峨はここでは「魂しい」と書いている。(晩年の詩集に出てくるのも「魂しい」である。)「漢字」だけではないもの、「表意文字」からはみだしている何かを書こう問うているのかもしれない。「魂」は結晶のような塊ではなく、しっぽのような何かがついていて、それで動いているということかもしれない。
 この連では、その「魂しい」と最後の「舞いのぼつていく」ということばが印象的だ。「上総舞子の唄」の「舞子」の「舞」が動詞となって、最後に書かれている。この「舞」は「魂しい」の「しい」にあたるものかもしれない。嵯峨からはみだしている(嵯峨の手のとどかない人間になってしまった)女の思い出。それが、嵯峨の魂をいまも動かしている。
 切ない恋の歌だ。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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破棄されたの詩のための注釈(31)

2015-04-18 01:24:07 | 
破棄されたの詩のための注釈(31)

テーブルの片隅に集められたのは「ぬれている」ということばと「水面の青」。「水面は正午の光で青くぬれている」ということばと、「ボートからはみだした影が水面で黒く輝く」ということばが、砕けながら入り乱れた。四月の正午、風は南から吹いた。

水に触れる手は、何を考えて模倣するのか。砕けるものを集める「感覚」ということばは「私は私を見て(あなたはあなたを見ないで)」という中途半端なことばを半ば所有し、半ば放棄している。想像力は、網膜のなかで完成する安直を拒否する。

そのように段落は変更された。

新しい単語はつづかず、スターバックスの外のテーブルの上に雨が降り、「ぬれている」ということばは水面から「青」をはがしていく。灰色の粗い粒子が現像しそこねた写真のように、水のなかから浮いてくる。「ボートの横」では、水に映った杭の色という問題が残される。







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