秋亜綺羅「部屋のカーテンを開けて」(「ココア共和国」17、2015年04月01日発行)
きのう広田修『ZERO』を読みながら「論理」というものについて考えたが、きょうは秋亜綺羅「部屋のカーテンを開けて」を読みながら「論理」について考える。
なかほどに、次の2連。
ここに書かれているのは「論理」? 「イエス」と「ノー」、「反論」と「正論」は「反対」の「概念」。「反対」というものがあるという考え方がことばを動かしている。考えに基づいてことばが動いているから「論理」なのか。
私は、かなり悩むなあ。
私は以前、秋亜綺羅の詩について、秋亜綺羅の詩は「逆説」でできているが、それは既存の考え方を前提にしている、既成の概念を裏返しているにすぎない、というようなことを書いたことがあるが、
うーん、
「逆説」(秋亜綺羅は「反論」と書いている)は「論理」になりうるのか。
一般には「論理」と呼ばれているかもしれないが、私は「論理」とは呼びたくない。「逆説」というのは「論理」とは無縁のものである、と私の「感覚の意見(直観)」は言っているのである。
何のことか、わからないね。私も実はわからない。ただ、秋亜綺羅の書いているのは「論理」ではない、と私は感じる。
詩を最初から読み直してみる。
書き出しの2行。その2行目の「殺人」と「自殺」。「殺人」は他人を殺すこと。「自殺」は自分を殺すこと。他人と自分は別人、ある意味で「反対」の存在。だから、これは最初に引用した「イエスとノー」「反論と正論」のようなもの。
こういう「反対のもの」を結びつけて秋亜綺羅は読者に刺戟を与える。
そのときの「反対のもの」という考え方の中に「論理」はあるのか。「考え方」をことばにすれば「論」。そのなかにある「理」が「論理」。そういうものが「殺人」「自殺」のなかにあるのか。
視点を変える。
私の考えでは「論理」というのは「動いて」はじめて「論理」になる。「論」のなかを動く「理(真実)」が「論理」。「殺人」「自殺」というふたつのことばは動いているか。「動詞」にして動かすとどうなるか。
「殺人」。他人を殺す。誰かを殺す。そのとき、たいへんな準備がいる。凶器を何にするか。どこで手に入れるか。いつ殺すか。殺したあと、死体をどうするか。どうやって逃げるか(逃げないか)。逃げるための資金は? 外国へ逃げるならパスポートは? うまくいくのか。
「イメージトレーニング」と秋亜綺羅は簡単に書いているが、考えはじめるときりがない。とても「殺人」と「自殺」を短時間に考えてみるという具合にはできそうにない。
で、気づくのである。
秋亜綺羅は「殺人」も「自殺」も「名詞」のままの状態で並列させているだけである。「反対のもの」として世間に認知されているものを並列して、これとこれは反対。その両方を知っている。そう言っているだけである。
「名詞」のことを秋亜綺羅は「イメージ」と読んでいる。「流動するイメージ(運動するイメージ)」というものもあるだろうが、秋亜綺羅が「イメージ」と呼ぶとき、それは「固定」されている。
この「固定」に、私はいちばん疑問を感じる。
「論理」というのは「固定」とは逆のものだ。「結論」とは無縁のものである。「結論」がないのが「論理」、ただ動いていくだけのことばが「論理」である。「結論」に到達したように見えても、その結論はおかしいと疑いつづけるのが「論理」である。
私が最初に「論理」というものを知ったプラトンの対話篇。だから、その対話篇を思い出しながら書いているのだが、どの「対話」も終わりはするが「結論」はない。「ソクラテスの弁明」も「クリトン」も、ほんとうにそれが正しいのかどうか、わからない。言い換えると、自分がソクラテスなら同じことができるかどうか、わからない。きっと、できない。できないのに、それを「正しい」と言っていいのかどうか。「肉体」で実践できないことを「正しい」と考えるのは、どこかが間違っている。そこに書かれている「結論」は「方便」であって、それを「生きる」とすれば、どうすればいいのか、何度も何度も「結論」を疑わなければならない。そういうものが「論理」だと私は思っている。
で、なぜ、秋亜綺羅の書いている「殺人」「自殺」は「固定」されているのか。簡単に「反対の行為」という具合に整理されて、「偽装の論理」になってしまうのか。
半分繰り返しになるが、「殺人」も「自殺」も「動詞」として「論」を動かしていないからである。秋亜綺羅がここで書いている「殺人」「自殺」は「動詞」とは無縁のものである。
この一行の中にある「動詞」は「イメージ」である。「トレーニング」よりも「イメージ」の方が秋亜綺羅の肉体にとっては「動詞」である。「イメージする」(想像する)という動詞が「殺人」と「自殺」を「反対のもの」として結びつける。(トレーニングは付録だ。)
秋亜綺羅にとって「イメージする(想像する)」という「動詞」以外の「動詞」はないのである。
「そしてそして無限から開きなさい」は「性器を開きなさい」なのだが、実際に「肉体」の「性器」を開くのではない。それを「想像する」のだ。「肉体」は動かさない。あくまで想像する。「想像力」ということばを秋亜綺羅はつかっているが、秋亜綺羅にとって「力」とは「想像する」という運動と一体のものである。力(エネルギー)は動詞をとおって(運動をとおして)何事かを生み出す(形にする)のだが、想像力は私の考えでは何も生み出さない。想像力はすでにあるものを「組み合わせる」だけである。その組み合わせ方が、秋亜綺羅の場合、新鮮である。(想像力は「組み合わせ」を生み出す、「仕掛け」を生み出す、「新鮮」を生み出すと秋亜綺羅は言うかもしれないが……。)
こういう「組み合わせ」を想像することを、私には「論理の運動」とは考えられないのでである。「肉体」を置き去りにして「想像する」ということも、「想像する」ということばにふさわしいことかどうか、私には疑問が残る。
「宇宙を見なさい」は「肉眼で」見なさい、という具合に読むこともできるが、きっと「宇宙」は肉眼では見えない。空や雲や星がようやく見えるだけで、あとは「想像力」で見ないといけない。「宇宙から見なさい」は宇宙飛行士にでもならないと「肉眼で」見ることができないし、宇宙飛行士が見るのもせいぜい地球くらいである。宇宙を見るには、宇宙へ行っても想像力で見るしかない。いつでも、どこでも、想像力だけが秋亜綺羅の「肉体」なのである。
この「想像力」は「動詞」を必要としない。「想像する」という「動詞」以外は、「名詞」があればいい。無数の「名詞」、しかも「反対」の「名詞」を要求しつづける。
このしゃれたことばも「想像力」のために存在するものであって、「肉体」には無縁のものである。「肉体」には無縁だから、そこには「論理」というものがない。プラトンの書いているソクラテスを「肉体」で実践しようとすると、私の肉体は困ってしまうが、秋亜綺羅の書いていることばは「肉体」の実践を要求してこないので、ぜんぜん、困らない。肉体を困らせないものは「論理」ではない、と私は考える。
こうしたセックスについての2行さえ、私には「肉体」を書いているとは思えない。実際にきみの舌のうえで人差し指が転がっているとき、「時刻」なんて、存在しない。転がって、湿るという「運動」があるだけだ。そういう運動を「時刻」という「名詞」のなかに秋亜綺羅は閉じ込めてしまう。
もしそれでも秋亜綺羅に「論理」というものがあるのだとしたら、すべての存在を「名詞」として「固定」し、その「固定」されたものを想像力のなかで、他人とは違った形で併存させるという運動である。秋亜綺羅は「肉体」を動かさず、「想像力」を動かすのである。想像力を動かす装置として詩を組み立てるのである。
きのう広田修『ZERO』を読みながら「論理」というものについて考えたが、きょうは秋亜綺羅「部屋のカーテンを開けて」を読みながら「論理」について考える。
なかほどに、次の2連。
時間は時計に話してる
イエスはノーに対する反論でしょ?
時計だって負けてはいない
反論なんて
正論を認めてしまったことばじゃないか
ここに書かれているのは「論理」? 「イエス」と「ノー」、「反論」と「正論」は「反対」の「概念」。「反対」というものがあるという考え方がことばを動かしている。考えに基づいてことばが動いているから「論理」なのか。
私は、かなり悩むなあ。
私は以前、秋亜綺羅の詩について、秋亜綺羅の詩は「逆説」でできているが、それは既存の考え方を前提にしている、既成の概念を裏返しているにすぎない、というようなことを書いたことがあるが、
うーん、
「逆説」(秋亜綺羅は「反論」と書いている)は「論理」になりうるのか。
一般には「論理」と呼ばれているかもしれないが、私は「論理」とは呼びたくない。「逆説」というのは「論理」とは無縁のものである、と私の「感覚の意見(直観)」は言っているのである。
何のことか、わからないね。私も実はわからない。ただ、秋亜綺羅の書いているのは「論理」ではない、と私は感じる。
詩を最初から読み直してみる。
部屋のカーテンを開けて
殺人と自殺のイメージトレーニングは朝の日課
書き出しの2行。その2行目の「殺人」と「自殺」。「殺人」は他人を殺すこと。「自殺」は自分を殺すこと。他人と自分は別人、ある意味で「反対」の存在。だから、これは最初に引用した「イエスとノー」「反論と正論」のようなもの。
こういう「反対のもの」を結びつけて秋亜綺羅は読者に刺戟を与える。
そのときの「反対のもの」という考え方の中に「論理」はあるのか。「考え方」をことばにすれば「論」。そのなかにある「理」が「論理」。そういうものが「殺人」「自殺」のなかにあるのか。
視点を変える。
私の考えでは「論理」というのは「動いて」はじめて「論理」になる。「論」のなかを動く「理(真実)」が「論理」。「殺人」「自殺」というふたつのことばは動いているか。「動詞」にして動かすとどうなるか。
「殺人」。他人を殺す。誰かを殺す。そのとき、たいへんな準備がいる。凶器を何にするか。どこで手に入れるか。いつ殺すか。殺したあと、死体をどうするか。どうやって逃げるか(逃げないか)。逃げるための資金は? 外国へ逃げるならパスポートは? うまくいくのか。
「イメージトレーニング」と秋亜綺羅は簡単に書いているが、考えはじめるときりがない。とても「殺人」と「自殺」を短時間に考えてみるという具合にはできそうにない。
で、気づくのである。
秋亜綺羅は「殺人」も「自殺」も「名詞」のままの状態で並列させているだけである。「反対のもの」として世間に認知されているものを並列して、これとこれは反対。その両方を知っている。そう言っているだけである。
「名詞」のことを秋亜綺羅は「イメージ」と読んでいる。「流動するイメージ(運動するイメージ)」というものもあるだろうが、秋亜綺羅が「イメージ」と呼ぶとき、それは「固定」されている。
この「固定」に、私はいちばん疑問を感じる。
「論理」というのは「固定」とは逆のものだ。「結論」とは無縁のものである。「結論」がないのが「論理」、ただ動いていくだけのことばが「論理」である。「結論」に到達したように見えても、その結論はおかしいと疑いつづけるのが「論理」である。
私が最初に「論理」というものを知ったプラトンの対話篇。だから、その対話篇を思い出しながら書いているのだが、どの「対話」も終わりはするが「結論」はない。「ソクラテスの弁明」も「クリトン」も、ほんとうにそれが正しいのかどうか、わからない。言い換えると、自分がソクラテスなら同じことができるかどうか、わからない。きっと、できない。できないのに、それを「正しい」と言っていいのかどうか。「肉体」で実践できないことを「正しい」と考えるのは、どこかが間違っている。そこに書かれている「結論」は「方便」であって、それを「生きる」とすれば、どうすればいいのか、何度も何度も「結論」を疑わなければならない。そういうものが「論理」だと私は思っている。
で、なぜ、秋亜綺羅の書いている「殺人」「自殺」は「固定」されているのか。簡単に「反対の行為」という具合に整理されて、「偽装の論理」になってしまうのか。
半分繰り返しになるが、「殺人」も「自殺」も「動詞」として「論」を動かしていないからである。秋亜綺羅がここで書いている「殺人」「自殺」は「動詞」とは無縁のものである。
殺人と自殺のイメージトレーニングは朝の日課
この一行の中にある「動詞」は「イメージ」である。「トレーニング」よりも「イメージ」の方が秋亜綺羅の肉体にとっては「動詞」である。「イメージする」(想像する)という動詞が「殺人」と「自殺」を「反対のもの」として結びつける。(トレーニングは付録だ。)
秋亜綺羅にとって「イメージする(想像する)」という「動詞」以外の「動詞」はないのである。
想像力があれば
いまきみの性器はきっと
ちょっと開いている
宇宙を見なさい
そして宇宙から見なさい
無限を考えなさい
そして無限から開きなさい
「そしてそして無限から開きなさい」は「性器を開きなさい」なのだが、実際に「肉体」の「性器」を開くのではない。それを「想像する」のだ。「肉体」は動かさない。あくまで想像する。「想像力」ということばを秋亜綺羅はつかっているが、秋亜綺羅にとって「力」とは「想像する」という運動と一体のものである。力(エネルギー)は動詞をとおって(運動をとおして)何事かを生み出す(形にする)のだが、想像力は私の考えでは何も生み出さない。想像力はすでにあるものを「組み合わせる」だけである。その組み合わせ方が、秋亜綺羅の場合、新鮮である。(想像力は「組み合わせ」を生み出す、「仕掛け」を生み出す、「新鮮」を生み出すと秋亜綺羅は言うかもしれないが……。)
こういう「組み合わせ」を想像することを、私には「論理の運動」とは考えられないのでである。「肉体」を置き去りにして「想像する」ということも、「想像する」ということばにふさわしいことかどうか、私には疑問が残る。
宇宙を見なさい
そして宇宙から見なさい
「宇宙を見なさい」は「肉眼で」見なさい、という具合に読むこともできるが、きっと「宇宙」は肉眼では見えない。空や雲や星がようやく見えるだけで、あとは「想像力」で見ないといけない。「宇宙から見なさい」は宇宙飛行士にでもならないと「肉眼で」見ることができないし、宇宙飛行士が見るのもせいぜい地球くらいである。宇宙を見るには、宇宙へ行っても想像力で見るしかない。いつでも、どこでも、想像力だけが秋亜綺羅の「肉体」なのである。
この「想像力」は「動詞」を必要としない。「想像する」という「動詞」以外は、「名詞」があればいい。無数の「名詞」、しかも「反対」の「名詞」を要求しつづける。
止まった時計だけが
きざむことのできる時刻があるから
このしゃれたことばも「想像力」のために存在するものであって、「肉体」には無縁のものである。「肉体」には無縁だから、そこには「論理」というものがない。プラトンの書いているソクラテスを「肉体」で実践しようとすると、私の肉体は困ってしまうが、秋亜綺羅の書いていることばは「肉体」の実践を要求してこないので、ぜんぜん、困らない。肉体を困らせないものは「論理」ではない、と私は考える。
きみの舌のうえで転がる
ぼくの人差し指の湿った時刻
こうしたセックスについての2行さえ、私には「肉体」を書いているとは思えない。実際にきみの舌のうえで人差し指が転がっているとき、「時刻」なんて、存在しない。転がって、湿るという「運動」があるだけだ。そういう運動を「時刻」という「名詞」のなかに秋亜綺羅は閉じ込めてしまう。
もしそれでも秋亜綺羅に「論理」というものがあるのだとしたら、すべての存在を「名詞」として「固定」し、その「固定」されたものを想像力のなかで、他人とは違った形で併存させるという運動である。秋亜綺羅は「肉体」を動かさず、「想像力」を動かすのである。想像力を動かす装置として詩を組み立てるのである。
季刊 ココア共和国vol.17 | |
秋 亜綺羅,清水 哲男,金澤 一志,黒崎 立体,嶋田 さくらこ,井伏 銀太郎,小原 範雄 | |
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