詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子「カスピ海の風」

2015-04-08 11:15:04 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「カスピ海の風」(「幻竜」21、2015年03月20日発行)

 白井知子「カスピ海の風」は恋愛そのものを描いた作品ではないのだが、私は、書き出しに出てくる恋愛の部分がとても好きだ。

エスミーラ きみの髪は長いから すこし いらいらしてしまう
ならば 切ってしまって ダビド
いいや やっぱり ぼくは この時間が気に入っている
髪の一筋ずつに油を塗り込む
あせらないようにしよう
首から肩 硬さののこる胸から腰へ 油を エスミーラ
きみの心拍を聴きとっているのだよ
ぼくのこの指と耳とがさ
今夜の風は泣いているみたい
あなたが好き ダビド

 男が女の髪の手入れをしてやっている。長くてめんどうなので、少しいらいらする。そんなことを言えるのは、ふたりが親密で自分の思っていることをそのまま言っても大丈夫だとわかっているからなのだが、そのあと「切ってしまって」「いいや」というやりとりがとてもいい。特に「ぼくは この時間が気に入っている」がいい。
 「この時間」とは「どの時間」のことか、どういう時間のことか。
 単純に考えると、女の髪の手入れをしている時間、女に触っている時間ということになる。女に触っているという感じは、そのあと「首から肩 硬さののこる胸から腰へ」という描写でいっそう強まるのだが、私は、ちょっと違うことを思った。
 「すこし いらいらしてしまう」という、その「いらいら時間」。それが気に入っている。「いらいら」というのは快感とは違う感覚なのだけれど、自分の中にある「いらいら(自分を傷つけてくる感覚?)」を抑えながら、女に触っているという一種の「矛盾」。その「矛盾」が気に入っている、と私は読んでしまう。「矛盾」を端的に表わしているのが「いいや」ということば。それは女に対する返答であると同時に、自分自身の「いらいら」に対する返答でもある。
 なぜ「いらいら」が気に入るのか。自分の「いらいら」が気に入るのか。それはきっと「自分のもの」でしかないからだ。快感と同じように一種の不快(いらいら)も自分のものでしかない。自分だけのものという気持ちは、その「いらいら」からあふれて、女につながっていく。その向こう側に、塞き止められている快感。それを思いながら、女の髪の一筋ずつに油を塗り込んでゆく。そうすると、「いらいら(快感以前)」と「快感」はどこかでまじりあう。「快感」になるまえの「未生の快感」をとおして、女と一体になっている感じだ。まるで、その髪の一筋ずつが「自分のもの」になるみたい。この「感じ」もまた男だけのも、自分だけのもの。
 同じように、「首から肩 硬さののこる胸から腰へ 油を」塗り込んでゆくとき、その「肉体」のすべてが「自分のもの」になる。そしてこの「自分のもの」というのは「所有物」ということではない。「自分そのもの」のことである。

きみの心拍を聴きとっているのだよ
ぼくのこの指と耳とがさ

 「指と耳」と「心拍」が「ひとつ」になっている。「指」が感じ取るのは心拍のリズム。触覚が振動を受け止める。そのとき「指」が「耳」になっている。「耳」を胸に押しつけて心拍を聴きとるように「指」そのものが「音」を聴いている。感覚が融合し、ふたたび「肉体」の「部位(指/耳)」に分かれていく。そのときの男の「肉体」の変化と同じことが、男と女のあいだに起きている。
 男が女に触る。触りながら男は、指が耳になってしまったように、女になってしまう。女になったあと、また男に戻ってきて、女の声を聞く。そういう「往復」の、何か分離できない感じ、融合してしまっている感じが「いらいら(快感以前/未生の快感)」のなかにもある。「快感以前/未生の快感」の「以前」あるいは「未生」、まだ形が定まっていない感覚(感覚が個別の名前で呼ばれる前の感覚)がすべてを融合させ、またその融合からすべてのものを生み出していく。(感覚以前/未生の感覚をとおって、「快感」とか「不快」とかが生まれてゆく。)
 「定まった感覚以前/名前のない感覚」のなかには、女の髪に触りたい、触る喜びと、ていねいに取り扱わないといけないという苦しみ(めんどうくささ?)が溶け合っている。分離できない状態にある。この分離できない感じが、すべての「動き」のいちばん底にある。「分離できない時間(場)」をとおって、すべての存在が「いま/ここ」にあらわれてきている。その「あらわれ」は自然発生的な「あらわれ」ではなく、男が女に触るという「肉体」が「生み出した」もの、いや、生み出した「こと」なのだと思う。

 男の「耳」ということばに誘われて、女は

今夜の風は泣いているみたい

 と言うのだが、そのとき「風」は家の外を吹いている風のことだろうか。それとも男の「いらいら」した感情、「いらいら」しながら「この時間が気に入っている」というときの矛盾した気持ちだろうか。
 泣いているのは、「いらいら/この時間が気に入っている」という分離できない気持ちを抱えている男の「肉体/定まった感覚以前の感覚を抱え込んでいる肉体」かもしれない。「定まっていない」から何でにもなれる。「泣いている」でも「笑っている」にでもなることができる。しかし女は「肉体が泣いている」と聞きとったのだ。(「泣いている」を生み出したのだ、と書きたいのだが、ちょっとややこしくなるので、とりあえず「聞きとった」と書いておく。)
 耳で?
 違うだろうなあ。肌で、いや「心拍」で聞きとったのだ。こんなに心臓が激しく鼓動を打つのは、泣いている男の「肉体」と自分(女)の「肉体」が、もうひとつになってしまっているからだ。男と女に分離する以前の肉体(いのち)として「一つ」になっている。
 女は男に髪や肌の手入れをしてもらう時間が気に入っている。気に入っているのだが、それだけで終わってしまうと思うと「いらいら」する。この「いらいら」をいっしょに乗り越えるために、お何は「あなたが好き」と言う。誘いかける。「ひとつ」になって、
「いのち」になる「場」をとおることによって、ふたたび男と女に生まれ変わろうと誘いかける。

 この恋愛からはじめて、白井は、アゼルバイジャンが「世界最大の石油産出国だった」こと、その資源が略奪された歴史を語るのだが、恋愛の「肉体」がくっきりと描かれているので、そのあとに書かれる世界史が人間の行為そのものとして見えてくる。「抽象的な事実/事件」ではなく、人間の動き、暴力として見えてくる。それが、とてもおもしろい。
地に宿る
白井 知子
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破棄された詩のための注釈(27)

2015-04-08 01:11:33 | 
破棄された詩のための注釈(27)

「川」があった。捨てた物語のなかで、男が窓を開けたときだった。夜が入ってきた。雨上がりの新しいにおいと、沈黙をこえてやってくる音が。男はこころのなかで「川」を見ていた。満潮でこえふとってくる河口の、塩であまくなり、つやめいてくる水。

「川」があった。捨てた物語が、チーズを切る女のこころのなかに入ってきた。ニンニクを塗ったパンと赤ワイン。きまりきった日常の断片の中に、そのまま紛れ込むみたいに、男が「遠くから川のにおいがする」と言った。

知らない川の上を、やすらぎという時間が流れている。



*

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