嵯峨信之を読む(54)
96 土冠
二行目の「散り散りの島になつた」という表現はわからない。しかし、三、四行目が「散り散り」のものを「ひとすじ」にまとめていくということろがおもしろい。島は海に水平に広がっている(散らばっている)。その「散り散り」の何もないところ(島ではないところ、島と島のあいだ)から「声にならぬ」ものが立ちのぼって「ひとすじ」になる、という感じが切ない。
「島」は「魂」なのだ。「魂」が「散り散り」になって、それが「島」のようになっている。その「散り散り」になった「魂」のあいだから(「島」と「島」とを隔てる海、というよりも「魂」と「魂」のあいだの空虚から)、何かが「ひとすじ」のもののようにして立ちのぼっていく。
「立ち昇りゆく」ものは「星」になる。そして、真夜中に今度は「立ち昇」ったところから下りてくる。ひかりになって。そして、それが島々の木の葉に降りそそぐ。島々は(魂は)「散り散り」になっているが、その島にある木々が星のひかりで「ひとつ」(おなじ)になる。
そのとき「木の繁みをくぐつて」誰かが立ち去る、その「誰か」が誰なのかわからないけれど、魂のあいだから立ちのぼっていったものが、夜には姿をかえて降りそそぎ、離れた存在を「同じもの(ひとつ)」にするという運動はとても美しい。
「宇宙」の不思議な運動がある。
そういうものを見たあとで、
これは、夏の恋を失って、魂が「散り散り」になった自画像、いきいきとした「魂」を失って、「一個の彫像」のようになった「自画像」を書いたものか。
立ち去っていった誰かは、恋をしていた自分。恋をしていた自分が立ち去るとは、恋を失うこと。
恋を失った自分は砕けてしまえ。そして、魂のあいだから立ちのぼり、魂のなかにある「木」(何の象徴か、いのちのかけら、生き残った力か)へ降りそそいでくるひかりに身をまかせる、ということだろうか。
しかし。
詩はここで終わっているわけではなく、次の三行がある。
真夜中の美しい祈りのようなことばと、それとは反対の、自分を厳しくみつめることば。厳しくといっても「土冠で飾る」という「ナルシズム」もある。「ナルシズム」といっても「土冠」で否定しながらのものだけれど。
何か激しい運動がある。「声にはならぬ」運動がある。「矛盾」がある、と言ってもいい。恋を失った悲しみと、そこから生きていく(生きなおす)ためのナルシズムという矛盾がある。
矛盾があっても、というべきなのか、矛盾があるからこそ、というべきなのか。どちらでもいいと思うが、だからこそ、詩はおもしろい。それを読んだときの「気持ち」で「矛盾」の「矛」か「盾」かのどちらかを選んで、それを好きになればいいのだ。
魂のあいだから立ち上り、下りてくるという何か(悲しみ?)の一種の往復運動を美しいと思ったり、否定を含むナルシズムを気障でいいなあと思ったり。その日、その日で揺れながら、何度もことばに出会ってみる、出会いなおしてみる--そういう愉しみが詩にあると思う。
だいたい詩のことばは「論理」を目指していないから、気まぐれである。脈絡が前後で入れ代わる。突然比喩があらわれて、それをあとで事実(わかりやすいことば?)で言い直し、説明し直したりする(「散り散りの島」と「魂」の例)。一篇の詩のなかでも、読者は行きつ戻りつしなければ、何が書いてあるのかつかみとれない。一篇の詩を読む短いあいだの時間でさえそうなのだから、永い人生のあいだでは、それが繰り返されて当然なのだ。あ、あれは、こういうことだったのか。いや、やっぱり違った。何度も思いなおしながら読み返す。それがおもしろい。
97 レダ
ギリシャ神話を題材にして書いている。書き直し、批評している。その批評の部分が最後にある。
「レダは生まれ変る」。すべては「生まれ変る」。いや、何かを変えながら産み直すことができる。死んだものに自分のいのちを吹き込み、甦らせる。単に甦らせるだけではなく、新しく「産む」のだ。
そのために、ことばがある。
嵯峨は、この詩では、そういうことを言おうとしているように思える。
そして「生まれ変る」ために詩がある。詩を書く。そう書いているように思える。
96 土冠
夏が終わつたので
ぼくは散り散りの島になつた
魂のあいだから立ち昇るものは声にはならぬ
ただひとすじに昇りゆくのみ
二行目の「散り散りの島になつた」という表現はわからない。しかし、三、四行目が「散り散り」のものを「ひとすじ」にまとめていくということろがおもしろい。島は海に水平に広がっている(散らばっている)。その「散り散り」の何もないところ(島ではないところ、島と島のあいだ)から「声にならぬ」ものが立ちのぼって「ひとすじ」になる、という感じが切ない。
「島」は「魂」なのだ。「魂」が「散り散り」になって、それが「島」のようになっている。その「散り散り」になった「魂」のあいだから(「島」と「島」とを隔てる海、というよりも「魂」と「魂」のあいだの空虚から)、何かが「ひとすじ」のもののようにして立ちのぼっていく。
真夜中
星のひかりが木の葉を島々にぬいつけるとき
木の繁みをくぐつて誰かが立ち去る音
「立ち昇りゆく」ものは「星」になる。そして、真夜中に今度は「立ち昇」ったところから下りてくる。ひかりになって。そして、それが島々の木の葉に降りそそぐ。島々は(魂は)「散り散り」になっているが、その島にある木々が星のひかりで「ひとつ」(おなじ)になる。
そのとき「木の繁みをくぐつて」誰かが立ち去る、その「誰か」が誰なのかわからないけれど、魂のあいだから立ちのぼっていったものが、夜には姿をかえて降りそそぎ、離れた存在を「同じもの(ひとつ)」にするという運動はとても美しい。
「宇宙」の不思議な運動がある。
そういうものを見たあとで、
もはや渇望のためにぼくが一個の彫像にほかならぬなら
その場で微塵に砕けるがいい
これは、夏の恋を失って、魂が「散り散り」になった自画像、いきいきとした「魂」を失って、「一個の彫像」のようになった「自画像」を書いたものか。
立ち去っていった誰かは、恋をしていた自分。恋をしていた自分が立ち去るとは、恋を失うこと。
恋を失った自分は砕けてしまえ。そして、魂のあいだから立ちのぼり、魂のなかにある「木」(何の象徴か、いのちのかけら、生き残った力か)へ降りそそいでくるひかりに身をまかせる、ということだろうか。
しかし。
詩はここで終わっているわけではなく、次の三行がある。
真昼の太陽をとらえた泥沼は
その輝くしろい土冠をぼくの頭上に置く
ぼくはぼくの悲しみをせめてその白く輝いている土冠で飾るだろう
真夜中の美しい祈りのようなことばと、それとは反対の、自分を厳しくみつめることば。厳しくといっても「土冠で飾る」という「ナルシズム」もある。「ナルシズム」といっても「土冠」で否定しながらのものだけれど。
何か激しい運動がある。「声にはならぬ」運動がある。「矛盾」がある、と言ってもいい。恋を失った悲しみと、そこから生きていく(生きなおす)ためのナルシズムという矛盾がある。
矛盾があっても、というべきなのか、矛盾があるからこそ、というべきなのか。どちらでもいいと思うが、だからこそ、詩はおもしろい。それを読んだときの「気持ち」で「矛盾」の「矛」か「盾」かのどちらかを選んで、それを好きになればいいのだ。
魂のあいだから立ち上り、下りてくるという何か(悲しみ?)の一種の往復運動を美しいと思ったり、否定を含むナルシズムを気障でいいなあと思ったり。その日、その日で揺れながら、何度もことばに出会ってみる、出会いなおしてみる--そういう愉しみが詩にあると思う。
だいたい詩のことばは「論理」を目指していないから、気まぐれである。脈絡が前後で入れ代わる。突然比喩があらわれて、それをあとで事実(わかりやすいことば?)で言い直し、説明し直したりする(「散り散りの島」と「魂」の例)。一篇の詩のなかでも、読者は行きつ戻りつしなければ、何が書いてあるのかつかみとれない。一篇の詩を読む短いあいだの時間でさえそうなのだから、永い人生のあいだでは、それが繰り返されて当然なのだ。あ、あれは、こういうことだったのか。いや、やっぱり違った。何度も思いなおしながら読み返す。それがおもしろい。
97 レダ
ギリシャ神話を題材にして書いている。書き直し、批評している。その批評の部分が最後にある。
一切は終つたのだ レダは亡びた 神話はふたたび葉に帰る 太陽の蝕の中へ繋駕は進む 無人の繋駕は粛々と遠ざかる すべての子午線は書き替えられた だかその間にもレダは生まれ変る 死灰の中から 肋骨の七絃琴の中から
「レダは生まれ変る」。すべては「生まれ変る」。いや、何かを変えながら産み直すことができる。死んだものに自分のいのちを吹き込み、甦らせる。単に甦らせるだけではなく、新しく「産む」のだ。
そのために、ことばがある。
嵯峨は、この詩では、そういうことを言おうとしているように思える。
そして「生まれ変る」ために詩がある。詩を書く。そう書いているように思える。
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