杉木一平『灰と家』(いぬのせなか叢書1)(いぬのせなか座、2016年11月23日発行)
杉木一平『灰と家』は縦組みと横組み、あるいは俳句(?)と散文が組み合わさったりしている。対になっているというよりも「呼応」という感じがする。「和音」をつくっている。
たとえば10ページ(縦組み)と11ページ(横組み)の作品。
「鹿」は「友だち」と入れ替わることで、互いの「旋律」が浮き立つ。実際には入れ替わらないのだが、「鹿」は10ページに固定されない。「友だち」は11ページに固定されない。
この「入れ替わる」という「可能性」が、それぞれのページのなかのことばでも起きる。
「水際」は「みずうみ」の「一滴」の「(水)球」であり、その「一滴」のなかに「月」があるとき、「月」そのものが「水際」「みずうみ」「一滴」「球」を生み出している。「鹿」は「あじさいの花」を「着る」のか、「あじさいの花」が「鹿」を「着る」のか。「動詞」も固定化できない。
学校文法では「あじさいの花を着る鹿」というとき「鹿」が「主語」だが、倒置法で書かれることで「主語」は微妙になる。ことばを「頭」で整理する前は、ことばの順序に従い、「着る」が「主語」であり「述語」が「鹿」なのだ。「着る」という「動詞」が主体になって動いていく。そのとき「あじさいの花」が「鹿」を「着る」ということが起きてもかまわない。
「油粘土に木べらで彫られた読めない字」にはふたつの「動詞」がある。「彫られた/彫る」「読めない/読む」。「字」が「読めない」ならば「字」ではない。「彫られた」ものは「字」ではない。しかし、「彫る」「読む」という「動詞」が「字」を生み出してしまう。「字」は「名詞」としてあらかじめ存在しているのではなく、「生まれてくる」存在である。
ほんとうは「生まれてくる」という動きだけがある。
油粘土に木べらが何かを「彫る」と、「彫られた」ものが「字」になって生まれてくる。しかし、「字」としては「読めない」ので「字」そのものではなく、「生まれる」ということだけが「存在する」。そこから逆に「字」を生み出す「粘土」「木べら」という存在が生み出される。「字」の不在によって。
「粘土」「木べら」「字」は互いの中へ帰りながら、生まれ続けるしかない。
何かが生まれてくる「場」、生まれてきた「存在」は、入れ替わる。「存在」が何かを生み出す「場」になり、存在になる前の「場」が存在していることを主張する。
「存在(名詞)」は固定化した形で最初から存在するのではない。つねに生み出される。既存のものとみえるものも、固定化される存在ではなく、新しい何かを生み出すものにかわる。同じ「部屋」ということばで呼ばれたとしても、最初に存在した「部屋」と生み出された「部屋」は違った存在である。
違ったものが「同じことば(名詞)」で呼ばれるならば、違った名前(名詞)で呼ばれるものが「同じ」であってもかまわない。このとき「同じ」は固定化された「もの」ではなく、「生み出す」という動詞が生きる「場」そのものである。
形を持たない「場」が「形(存在/名詞)」を生み出すという運動があり、その運動を「詩」と呼べばいいのかもしれない。
あるいは、この果てしない運動を「断念」と呼ぶこともできるかもしれない。「固定化の断念」である。あるがままを受け入れる。自分の都合(頭)にあわせて、固定化しない。
「あきらめる」という「動詞」がある。海(海岸線)とは何か、どこにあるか。山(森)とは何か、どこにあるか。その「境」は何か、どこにあるか。どこにもない。断定するのをあきらめ、海を見るとき海が生まれ、山を見るとき山が生まれる。「形」は流動する。確かなのは「生まれる」という運動だけである。
生み出すものと、生み出されたもの、生み出されたものが生み出すものにかわり、何かを生み出す。その運動の「呼応」が「和音」のように聞こえる。
これらの行や俳句(?)も刺激的で、ここからまた別のことばも動かせるかもしれないと感じた。本文の文字が目の悪い私には苦痛で、書き切れなかった。
杉木一平『灰と家』は縦組みと横組み、あるいは俳句(?)と散文が組み合わさったりしている。対になっているというよりも「呼応」という感じがする。「和音」をつくっている。
たとえば10ページ(縦組み)と11ページ(横組み)の作品。
水際をつなぐ、球のみずうみ
あじさいの花を着る鹿は、一滴の
輪になって、首すじに浮かぶ月の光を考える (10ページ)
油粘土に木べらで彫られた読めない字、ある日、友だちがそれを残していなくなる。粘土は手に持っただけで指紋がつくほどやわらかく、なんて書かれてあるのか会って聞ける日はもうぜったいに来ない気がした。 (11ページ)
「鹿」は「友だち」と入れ替わることで、互いの「旋律」が浮き立つ。実際には入れ替わらないのだが、「鹿」は10ページに固定されない。「友だち」は11ページに固定されない。
この「入れ替わる」という「可能性」が、それぞれのページのなかのことばでも起きる。
「水際」は「みずうみ」の「一滴」の「(水)球」であり、その「一滴」のなかに「月」があるとき、「月」そのものが「水際」「みずうみ」「一滴」「球」を生み出している。「鹿」は「あじさいの花」を「着る」のか、「あじさいの花」が「鹿」を「着る」のか。「動詞」も固定化できない。
学校文法では「あじさいの花を着る鹿」というとき「鹿」が「主語」だが、倒置法で書かれることで「主語」は微妙になる。ことばを「頭」で整理する前は、ことばの順序に従い、「着る」が「主語」であり「述語」が「鹿」なのだ。「着る」という「動詞」が主体になって動いていく。そのとき「あじさいの花」が「鹿」を「着る」ということが起きてもかまわない。
「油粘土に木べらで彫られた読めない字」にはふたつの「動詞」がある。「彫られた/彫る」「読めない/読む」。「字」が「読めない」ならば「字」ではない。「彫られた」ものは「字」ではない。しかし、「彫る」「読む」という「動詞」が「字」を生み出してしまう。「字」は「名詞」としてあらかじめ存在しているのではなく、「生まれてくる」存在である。
ほんとうは「生まれてくる」という動きだけがある。
油粘土に木べらが何かを「彫る」と、「彫られた」ものが「字」になって生まれてくる。しかし、「字」としては「読めない」ので「字」そのものではなく、「生まれる」ということだけが「存在する」。そこから逆に「字」を生み出す「粘土」「木べら」という存在が生み出される。「字」の不在によって。
「粘土」「木べら」「字」は互いの中へ帰りながら、生まれ続けるしかない。
何かが生まれてくる「場」、生まれてきた「存在」は、入れ替わる。「存在」が何かを生み出す「場」になり、存在になる前の「場」が存在していることを主張する。
部屋が、わたしの住んでいた部屋から、わたしが住んでいたことを思いだす部屋になろうとしていた。 (11ページ)
「存在(名詞)」は固定化した形で最初から存在するのではない。つねに生み出される。既存のものとみえるものも、固定化される存在ではなく、新しい何かを生み出すものにかわる。同じ「部屋」ということばで呼ばれたとしても、最初に存在した「部屋」と生み出された「部屋」は違った存在である。
違ったものが「同じことば(名詞)」で呼ばれるならば、違った名前(名詞)で呼ばれるものが「同じ」であってもかまわない。このとき「同じ」は固定化された「もの」ではなく、「生み出す」という動詞が生きる「場」そのものである。
形を持たない「場」が「形(存在/名詞)」を生み出すという運動があり、その運動を「詩」と呼べばいいのかもしれない。
あるいは、この果てしない運動を「断念」と呼ぶこともできるかもしれない。「固定化の断念」である。あるがままを受け入れる。自分の都合(頭)にあわせて、固定化しない。
立って見てもしゃがんで見ても、海岸線は線のまま
うしろの山から見ると
波打つ山の線、含まれる森の境がふるえて
鳴き声が
今度は目があきらめて、気配だけで海が
山は山、森は森のかたちを踏み越えて
たった今
わたしの住んでいた家を横切っていく ( 108ページ)
「あきらめる」という「動詞」がある。海(海岸線)とは何か、どこにあるか。山(森)とは何か、どこにあるか。その「境」は何か、どこにあるか。どこにもない。断定するのをあきらめ、海を見るとき海が生まれ、山を見るとき山が生まれる。「形」は流動する。確かなのは「生まれる」という運動だけである。
生み出すものと、生み出されたもの、生み出されたものが生み出すものにかわり、何かを生み出す。その運動の「呼応」が「和音」のように聞こえる。
小屋のなかで湯気を立てているアイロンと 茶色いしみのいっぱいついたアイロン台
(ページ番号なし)
歩きつかれた景色のとなりで、呼ばれたように頭をあげた
雨粒がその黒目に映る、たくさんの目を映したあとで
消える
そのときは、じぶんの弾ける音で目をさます (94ページ)
水のかよっていた頃を、いまも練習する木々は ( 112ページ)
輪郭がこわれないように、たてかけた雨が清書する ( 113ページ)
餅突きや雪の積もらぬ木のまわり (餅搗きか?)(48ページ)
山本や鮭とばを急に食べる人だね (49ページ)
海一滴を浮かべて牛の眠りかな (51ページ)
とおくの椅子のごと軋まんや春楡は (56ページ)
これらの行や俳句(?)も刺激的で、ここからまた別のことばも動かせるかもしれないと感じた。本文の文字が目の悪い私には苦痛で、書き切れなかった。