ロバート・バドロー監督「ブルーに生まれついて」(★★)
監督 ロバート・バドロー 出演 イーサン・ホーク、カルメン・イジョゴ
私は「悲哀」とか「哀愁」というものが苦手である。
チェット・ベイカーがドラッグがらみ(?)で売人に殴られる。歯と顎が壊される。トランペット吹きには致命的だ。そこから立ち直り、またドラッグにおぼれていくまでを描いているのだが。
立ち直りの途中。演奏を聞いたプロデューサー(?)が「技術的には前より劣っているが、かえって味が出てきた」というようなことを言う。この「味」が「悲哀」「哀愁」に通じると思う。
うーん。
このシーン、とても大事だと思うのだが、ことばが邪魔しているね。
がらんとした(これがふつう?)の録音スタジオ。モノトーンの色彩。トランペットを吹くイーサン・ホークの肉体の形。「静物」のよう。全体が「静物画」のようだ。その「視覚」の雰囲気と音の触れ合い。それで充分なのに、せりふの「ひとこと」が多くて、「悲哀/哀愁」を押しつけられたような気分になる。
私は音楽的な人間ではない。だから、「味が出てきた」と言われないと「違い」をことばにしてつかみとれないけれど、こういうことは「味がある」というような「流通言語」で語られると、「わかりすぎて」わからなくなる。感じていないのに、わかった気持ちにさせられる。
「悲哀」「哀愁」ということばもそうだなあ。「わからない」。ひとくくりにできない。その瞬間に動いている「独特」の感じ。「辞書」にあることばでは言い表せない何か。それを、そのままにしておきたい。あのスタジオの、チャット・ベイカーなんか知らないという「空気」そのものを、そのままにしておきたい。「それ」とか「あれ」という感じのままに。
で、好きなシーンはと言えば、あの録音シーンから「ことば」を除外したシーン(頭の中で思い描いてみる)と、故郷のシーン。故郷にも何もない。広い空間があるだけ。どう向き合っていいかわからない。そのとき、彼には父親がくれたトランペットがあった。トランペットを吹くと音が出る。その音と向き合っている。音との向き合い方の中で、風景そのものが少しずつ違っていく。チェット・ペイカー自身もかわっていったんだろうなあ。
帰って来た息子を見て、喜びが自然にこぼれる母親。「お前は何をしに帰って来たんだ」と突き放すような父親の態度の違い。受け入れるものと、拒絶するもの。しかし、その拒絶するもののなかにも受け入れる何かがある。受け入れられた記憶がある。ゆさぶられながら、チェット・ベイカーは「ひとり」になる。そばにひとがいるけれど、「ひとり」。これが、なぜか「スタジオ」に似ている。
音楽は「和音」。一緒に演奏している人との関係で音が変わっていく。変わっていくのだけれど、変わりながら変わらないものがある。彼自身の中で動き始める「和音」にならない「音」があり、それが「和音」を独特にする。「個(孤?)」の不思議なあり方。
父が録音したたった一枚のレコード。それを真ん中にして向き合うとき、ふたりの「音」は一瞬結びつく。けれど、離れていくしかない。離れていくとき、「結びつき」を感じると言い換えた方がいいかもしれないけれど。
嫌いなシーン。クライマックスの、最後の演奏。オーディションがあるからニューヨークに行けない、と言っていた恋人がヴィレッジバンガード(だったかな?)に演奏を聞きに来る。聞きながら涙を流す。チェット・ベイカーが再びドラッグに手を出したことを音からわかってしまう。そして、去っていく。このときの「涙」が録音スタジオの「味が出てきた」という台詞と同じように、「意味」の押しつけ。窮屈な感じがする。「ひと」ではなく「場」の陰影だけで「音」の違いが出てくると傑作になるのになあ、と感じた。
チェット・ベイカーの「音」に詳しい人にはおもしろい映画かもしれないが、音痴の私には「押しつけ」が多い映画に感じられた。
(KBCシネマ2、2016年11月30日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ロバート・バドロー 出演 イーサン・ホーク、カルメン・イジョゴ
私は「悲哀」とか「哀愁」というものが苦手である。
チェット・ベイカーがドラッグがらみ(?)で売人に殴られる。歯と顎が壊される。トランペット吹きには致命的だ。そこから立ち直り、またドラッグにおぼれていくまでを描いているのだが。
立ち直りの途中。演奏を聞いたプロデューサー(?)が「技術的には前より劣っているが、かえって味が出てきた」というようなことを言う。この「味」が「悲哀」「哀愁」に通じると思う。
うーん。
このシーン、とても大事だと思うのだが、ことばが邪魔しているね。
がらんとした(これがふつう?)の録音スタジオ。モノトーンの色彩。トランペットを吹くイーサン・ホークの肉体の形。「静物」のよう。全体が「静物画」のようだ。その「視覚」の雰囲気と音の触れ合い。それで充分なのに、せりふの「ひとこと」が多くて、「悲哀/哀愁」を押しつけられたような気分になる。
私は音楽的な人間ではない。だから、「味が出てきた」と言われないと「違い」をことばにしてつかみとれないけれど、こういうことは「味がある」というような「流通言語」で語られると、「わかりすぎて」わからなくなる。感じていないのに、わかった気持ちにさせられる。
「悲哀」「哀愁」ということばもそうだなあ。「わからない」。ひとくくりにできない。その瞬間に動いている「独特」の感じ。「辞書」にあることばでは言い表せない何か。それを、そのままにしておきたい。あのスタジオの、チャット・ベイカーなんか知らないという「空気」そのものを、そのままにしておきたい。「それ」とか「あれ」という感じのままに。
で、好きなシーンはと言えば、あの録音シーンから「ことば」を除外したシーン(頭の中で思い描いてみる)と、故郷のシーン。故郷にも何もない。広い空間があるだけ。どう向き合っていいかわからない。そのとき、彼には父親がくれたトランペットがあった。トランペットを吹くと音が出る。その音と向き合っている。音との向き合い方の中で、風景そのものが少しずつ違っていく。チェット・ペイカー自身もかわっていったんだろうなあ。
帰って来た息子を見て、喜びが自然にこぼれる母親。「お前は何をしに帰って来たんだ」と突き放すような父親の態度の違い。受け入れるものと、拒絶するもの。しかし、その拒絶するもののなかにも受け入れる何かがある。受け入れられた記憶がある。ゆさぶられながら、チェット・ベイカーは「ひとり」になる。そばにひとがいるけれど、「ひとり」。これが、なぜか「スタジオ」に似ている。
音楽は「和音」。一緒に演奏している人との関係で音が変わっていく。変わっていくのだけれど、変わりながら変わらないものがある。彼自身の中で動き始める「和音」にならない「音」があり、それが「和音」を独特にする。「個(孤?)」の不思議なあり方。
父が録音したたった一枚のレコード。それを真ん中にして向き合うとき、ふたりの「音」は一瞬結びつく。けれど、離れていくしかない。離れていくとき、「結びつき」を感じると言い換えた方がいいかもしれないけれど。
嫌いなシーン。クライマックスの、最後の演奏。オーディションがあるからニューヨークに行けない、と言っていた恋人がヴィレッジバンガード(だったかな?)に演奏を聞きに来る。聞きながら涙を流す。チェット・ベイカーが再びドラッグに手を出したことを音からわかってしまう。そして、去っていく。このときの「涙」が録音スタジオの「味が出てきた」という台詞と同じように、「意味」の押しつけ。窮屈な感じがする。「ひと」ではなく「場」の陰影だけで「音」の違いが出てくると傑作になるのになあ、と感じた。
チェット・ベイカーの「音」に詳しい人にはおもしろい映画かもしれないが、音痴の私には「押しつけ」が多い映画に感じられた。
(KBCシネマ2、2016年11月30日)
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