監督 スティーブン・フリアーズ 出演 メリル・ストリープ、ヒュー・グラント、サイモン・ヘルバーク
メリル・ストリープ、ヒュー・グラント、サイモン・ヘルバークの三人が、それぞれ巧みな演技をしている。サイモン・ヘルバークがいちばん「もうけもの」かもしれない。「事実」を知っている。そのうえ、「ピアニスト」という夢を追いかけている。「嘘」に加担すればピアニストのキャリアに傷がつく。だから「振幅」がいちばん大きい。メリル・ストリープ、ヒュー・グラントの影に隠れているけれど。
この映画で疑問に残るのは、マダム・フローレンス(メリル・ストリープ)が自分は音痴であるとほんとうに知らなかったのかということ。知っていたのではないだろうか。歌っているだけでは音痴に気づかないということはあるけれど、自分のレコードを聞いて、それでも自分の歌がすばらしいと思うかどうか。レコードを聞いても音がずれているとわからないのだとしたら、彼女自身が聞いていた「音楽」は何だったのか。だれそれの歌はすばらしいと言うとき、判断の基準が何だったのかわからなくなる。
私はマダム・フローレンスはすべてを知っていたと思う。知っていながら、あえて「音痴」なのに歌を歌った。それは、すべての人の愛を確かめるための、さびしい方法(手段)だったのである。
だれもが彼女の資産を狙っていることに気づいている。だれに資産を譲るべきか、相手を探していた。「おべんちゃら」を聞きながら、「おべんちゃら」の奥にある「ほんとう」を探していたのだと思う。
こういうとき、相手役がイギリス人(ヒュー・グラント)というのはなかなかおもしろい。イギリス人はどんなことであれ、本人が「告白」しないかぎり「嘘」を追及しない。本人が自分のことばで語ることが「ほんとう」。語らない限り「秘密」もない。この映画で言えば、ヒュー・グラントがメリル・ストリープは音痴だと言わない限り、ヒュー・グラントは嘘をついていることにはならない。浮気していても言わない限りしていることにはならない。
さすがイギリス人だけあって、この「ことばにしていないことは事実ではない」「ことばにしていることだけが事実である」という雰囲気をヒュー・グラントが前面に押し出し、他人を説得していくシーンは迫力がある。
語らないことばのなかにある「真実」という点から思い返すと、マダム・フローレンスが追い求めたものはそれだったかもしれない、とも思う。悪評を新聞で読み、マダム・フローレンスが倒れる。自宅で眠る。そのあと、家政婦(?)に「奥様は眠りました」と促され、ヒュー・グラントが「日常」の浮気に出かけようとする。メリル・ストリープが起きてきて「そばにいて」と頼む。ヒュー・グラントが毎晩出かけることを知っていて、眠ったふりをしていたのかもしれない。ヒュー・グラントが言わないのなら、そこには「秘密」はないのだ、というイギリス風の「個人主義」をメリル・ストリープは受け入れて生きてきたことになる。
で、最後に「知っているのよ」と態度で語りかける。アメリカ人は「ことば」よりも「態度(肉体)」で真実を語る。この「肉体」と「ことば」の交錯するシーンが、この映画のほんとうのクライマックス。ヒュー・グラントは、ここで初めて「真実」を知る。いままで自分が「わかっていた」ものはイギリス(ヒュー・グラント)から見た「真実」であって、アメリカ(メリル・ストリープ)から見た「真実」ではない、と知る。「真実」は彼が考えているところ以外にあったのだ。
「ことばはすべて真実である」と考えるイギリス人は、ここではしかし、それを「ことば」にしない。アメリカ人になって、メリル・ストリープによりそう。このあたりの「呼吸」が、とても上手い。ヒュー・グラントの、ちょっとわざとらしい顔が、アメリカ人になろうとしていて、とてもいい。
私はこういう「愛の物語」は面倒くさい感じがして好きではないのだが、ヒュー・グラントの「味」に、ときどき映画であることを忘れた。
メリル・ストリープの「音痴」は怪演。最後にきちんとした歌声も聞ける。正確に歌えるひとが、わざとらしさを感じさせずに「音痴」を演じるというのは大変なことだと思う。泳げるひとが入水自殺するとき、体が自然に浮いてしまうのでむずかしいというが、歌の上手いひとは自然に音程が合ってしまうだろう。それを外すのは至難の技だと思う。自然な表情で演じるのだから、すごい。あるいは、自然に歌ったあと、アフレコで音を重ねているのだろうか。製作現場の秘密を知りたい気持ちがする。
サイモン・ヘルバークは、二人に比べて誇張が多いのだが、その結果、この映画がコメディーであることがよくわかって、これはこれでいいなあ、と思った。サイモン・ヘルバークがいなければ、きっとシリアスになっていた。先に私が書いたことにつながるが、とても面倒な恋愛映画になっていたと思う。深刻にならなかったのは、サイモン・ヘルバークのにやけた顔の手柄である。
(天神東宝スクリーン4、2016年12月14日)
*
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メリル・ストリープ、ヒュー・グラント、サイモン・ヘルバークの三人が、それぞれ巧みな演技をしている。サイモン・ヘルバークがいちばん「もうけもの」かもしれない。「事実」を知っている。そのうえ、「ピアニスト」という夢を追いかけている。「嘘」に加担すればピアニストのキャリアに傷がつく。だから「振幅」がいちばん大きい。メリル・ストリープ、ヒュー・グラントの影に隠れているけれど。
この映画で疑問に残るのは、マダム・フローレンス(メリル・ストリープ)が自分は音痴であるとほんとうに知らなかったのかということ。知っていたのではないだろうか。歌っているだけでは音痴に気づかないということはあるけれど、自分のレコードを聞いて、それでも自分の歌がすばらしいと思うかどうか。レコードを聞いても音がずれているとわからないのだとしたら、彼女自身が聞いていた「音楽」は何だったのか。だれそれの歌はすばらしいと言うとき、判断の基準が何だったのかわからなくなる。
私はマダム・フローレンスはすべてを知っていたと思う。知っていながら、あえて「音痴」なのに歌を歌った。それは、すべての人の愛を確かめるための、さびしい方法(手段)だったのである。
だれもが彼女の資産を狙っていることに気づいている。だれに資産を譲るべきか、相手を探していた。「おべんちゃら」を聞きながら、「おべんちゃら」の奥にある「ほんとう」を探していたのだと思う。
こういうとき、相手役がイギリス人(ヒュー・グラント)というのはなかなかおもしろい。イギリス人はどんなことであれ、本人が「告白」しないかぎり「嘘」を追及しない。本人が自分のことばで語ることが「ほんとう」。語らない限り「秘密」もない。この映画で言えば、ヒュー・グラントがメリル・ストリープは音痴だと言わない限り、ヒュー・グラントは嘘をついていることにはならない。浮気していても言わない限りしていることにはならない。
さすがイギリス人だけあって、この「ことばにしていないことは事実ではない」「ことばにしていることだけが事実である」という雰囲気をヒュー・グラントが前面に押し出し、他人を説得していくシーンは迫力がある。
語らないことばのなかにある「真実」という点から思い返すと、マダム・フローレンスが追い求めたものはそれだったかもしれない、とも思う。悪評を新聞で読み、マダム・フローレンスが倒れる。自宅で眠る。そのあと、家政婦(?)に「奥様は眠りました」と促され、ヒュー・グラントが「日常」の浮気に出かけようとする。メリル・ストリープが起きてきて「そばにいて」と頼む。ヒュー・グラントが毎晩出かけることを知っていて、眠ったふりをしていたのかもしれない。ヒュー・グラントが言わないのなら、そこには「秘密」はないのだ、というイギリス風の「個人主義」をメリル・ストリープは受け入れて生きてきたことになる。
で、最後に「知っているのよ」と態度で語りかける。アメリカ人は「ことば」よりも「態度(肉体)」で真実を語る。この「肉体」と「ことば」の交錯するシーンが、この映画のほんとうのクライマックス。ヒュー・グラントは、ここで初めて「真実」を知る。いままで自分が「わかっていた」ものはイギリス(ヒュー・グラント)から見た「真実」であって、アメリカ(メリル・ストリープ)から見た「真実」ではない、と知る。「真実」は彼が考えているところ以外にあったのだ。
「ことばはすべて真実である」と考えるイギリス人は、ここではしかし、それを「ことば」にしない。アメリカ人になって、メリル・ストリープによりそう。このあたりの「呼吸」が、とても上手い。ヒュー・グラントの、ちょっとわざとらしい顔が、アメリカ人になろうとしていて、とてもいい。
私はこういう「愛の物語」は面倒くさい感じがして好きではないのだが、ヒュー・グラントの「味」に、ときどき映画であることを忘れた。
メリル・ストリープの「音痴」は怪演。最後にきちんとした歌声も聞ける。正確に歌えるひとが、わざとらしさを感じさせずに「音痴」を演じるというのは大変なことだと思う。泳げるひとが入水自殺するとき、体が自然に浮いてしまうのでむずかしいというが、歌の上手いひとは自然に音程が合ってしまうだろう。それを外すのは至難の技だと思う。自然な表情で演じるのだから、すごい。あるいは、自然に歌ったあと、アフレコで音を重ねているのだろうか。製作現場の秘密を知りたい気持ちがする。
サイモン・ヘルバークは、二人に比べて誇張が多いのだが、その結果、この映画がコメディーであることがよくわかって、これはこれでいいなあ、と思った。サイモン・ヘルバークがいなければ、きっとシリアスになっていた。先に私が書いたことにつながるが、とても面倒な恋愛映画になっていたと思う。深刻にならなかったのは、サイモン・ヘルバークのにやけた顔の手柄である。
(天神東宝スクリーン4、2016年12月14日)
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