詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェフリー・アングルス「まだ、まだ」

2016-12-13 10:49:05 | 詩(雑誌・同人誌)
ジェフリー・アングルス「まだ、まだ」(ミて」136 、2016年09月30日発行)

 ジェフリー・アングルス「まだ、まだ」はアメリカの詩。

我が家 また空っぽ
あの時いなくなった母は
今日もまたいない
今朝までここにいたのに
この街はずいぶん気に入った
と昨日の集まりで母が言った

 ここに書かれている「話者」は名乗らないのは日本語の文学の伝統を踏まえているが、日本文学の伝統とは違う「肉体」を感じる。

この街はずいぶん気に入った

 この一行の「他人」の登場の仕方。「他人」が「履歴」をもって突然あらわれる。芝居で、存在感のある役者が突然舞台にあらわれる瞬間に似ている。いま描かれている「ストーリー」とは違う「ストーリー」を独自にもっているという感じ。「ストーリー」の「道具」にならない。
 「気」ということばがさりげないのだが、この「気」は「空気」というよりは「石」である。硬い。他人と混じり合わない。この「他人と混じり合わない」何かが「履歴」である。そのひと個人のもの。「肉体」。
 ジェフリー・アングルスは、「肉体(断絶)」を、こう言い換える。

その朝 前庭に飛び込んだ子鹿の
斑点のように 晩夏のまだらな光は
客人の上はばら撒かれていた
一緒にいた雌鹿は母だっただろう

 「子鹿」「雌鹿」という人間ではない存在。それが「母」ということばでつながる。このとき「雌鹿」は「母」の比喩になる。子鹿の「母鹿」なのだが、子鹿の「母」であることをやめて、「関係」を浮かび上がらせることばになる。
 ここからが、さらにアメリカ文学っぽい。

動物図鑑によると 母は秋に
サバイバル戦略を教えるが
雌の子鹿は最初の冬
母鹿とともに残る
雄は離れることが多く
他の若詩歌と生活し始め
男性だけの社会を組む

 「文体」に余分なことばがない。「他人(鹿)」が動く。「比喩」だから、それは「人間」の行動と重なる。ジェフリー・アングルスは、重ねてみていることになるのだが……。
 私がいま書いた、

それは「人間」の行動と重なる

 の「それ」というようなことばがジェフリー・アングルスにはない。「それ」というのは「自分」の立場にこだわって何かを指し示す。「私」と「対象」の関係があることを明るみに出す。
 ジェフリー・アングルスは、こういうことをしない。
 「子鹿」は「その母親の子鹿」。「その母親の子鹿」の「その」を含んだものが省略される。「その」がなくてもわかるからだが、「その」を省略することで、描かれるものが「動物」そのものになる。「人間(話者/ジェフリー・アングルス)」とは別次元の「ストーリー」になる。
 「他者の履歴」そのものが、個別に語られる。「他者」が語るにまかせられている。
 その結果、「気」がべたつかない。「気」が「雰囲気」というようなあいまいなものではなく、固体の中にしっかり閉じ込められて結晶している。他者とは不干渉のまま「もの」として動いていく。
 この関係が、「人間」に再び返ってきて、「現実」をハードボイルドにする。

ジョンは畑からまた収穫物を取る
リサの離婚はまだ決着していない
そして 相変わらずハンサムな
サムは新しい家を建てると言う
冬までに出来るといいねと思った

 「ジョン」「リサ」「サム」の関係(つながり)が説明されない。「その」を省略して「個人」が動いている。「個」が動いて「社会」になっている。つながりは「その」という「意識」ではなく、「そこにいるか、いないか」である。
 いっしょにいても「個人(個)」なのだから、一緒にいなければさらに「個人(個)」である。それをしっかりみつめている。


わたしの日付変更線
ジェフリー・アングルス
思潮社
コメント
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