詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

糸井茂莉「モランディ、モルテ」、鈴木東海子「月夜の戸口」

2016-12-24 08:42:40 | 詩(雑誌・同人誌)
糸井茂莉「モランディ、モルテ」、鈴木東海子「月夜の戸口」(「櫻尺」41、2016年10月20日発行)

 糸井茂莉「モランディ、モルテ」はモランディ展を見て動いたことば。

滅びはじめの人の放つなまの臭いの垣根を
頭ひとつぶん浮かせてかきわけてゆく

その名に死をふくんだ

瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、

MORANDI MORTE

絵をみないで 気配が切りとった枠のなかに
魅入っている
というより 踊っている
人の動線は絵よりもみだらで みだれて

 「瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、」という行の「空白」が気になった。瓶はモランディの描いている瓶のことだろう。缶も描かれた缶のことだろう。
 では、空白は?
 私はモランディはどこで見たか、記憶にない。見ていないかもしれない。フェリーニの「甘い生活」でモランディを知ったことだけは覚えている。
 実物は記憶にないが画集で見たことはある。
 「記憶」からいうと、私は瓶と瓶との「間」に「空白」があるとは感じたことがない。瓶が、あるいは描かれている対象がつかみとった「空間」そのものが描かれているような気がした。瓶(あるいは、他の対象/静物)が「支配できる」だけの空間が描かれている。余分なものが描かれていないというか、「支配」が及ばないものは絵のなかに入ってきていない、という印象。瓶なら瓶の「存在」が絵のなかで完結していると言えばいいのだろうか。「空白」というよりも完結した「充実」が、そこにある。(これは画集の記憶であって、ほんとうにそうであるかどうか、わからない。そして、たぶんこういう印象には映画の印象も反映している。)
 あえて言えば、

気配が切りとった枠のなかに

 糸井が書いているこの感じが、私のモランディの印象に近い。「気配」を「瓶(対象/静物)」読み替えると、私の記憶のモランディが蘇る。
 瓶が切り取った「空間」の充実。静物が切り取った「空気」。それが「絵」が絵になっている。
 そう思った瞬間、

瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、

 「一字アキ(空白)」は、一枚の絵の中の「空白」ではなく、「絵」と「絵」のあいだの「空白/空間」かもしれない。絵の一枚一枚が「切り取った空間/気配」の周辺に、絵になれなかった「空白/空間」が存在する。その「絵になれなかった空間」をひとは動いていく。
 みだらに、みだれて。
 私はモランディの絵を「みだら」と感じたことはないので、

人の動線は絵よりもみだらで みだれて

 ということばには違和感があるのだが、「気配が切りとった枠のなかに」が、何か強く響いてきて、「私の読み方は違っているぞ」と警告する。

 私は「正しい読み方」よりも「誤読」が好きなので、この「警告」は無視してもいいのだが。
 非常に気になる。
 ふいに「瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、」は「瓶、 瓶、 瓶、 缶、 そしてまた 瓶、 」と、行末にもうひとつ見えない「空白(一字アキ)」を隠しており、その見えない「空白」で糸井は「みだら」に「みだれて」いる。それが詩を生み出しているのかもしれないと感じた。
 「死」は「いのちの空白」である。

 「滅びはじめの人の放つなまの臭い」「その名に死をふくんだ」という最初に書かれていることばから、「空間/空白」を問い直さなければならないのかもしれない。
 「滅び(る)」のなかには「死」がある。まだ死んでいないから「なま」の臭いが、「滅びる」のなかにある。「生」「滅び始める」「死」という動きは、どこで連続し、どこで切断しているか。その「区別」のつかない領域(糸井は書いているが、行末の一字アキのように読者には文字として見えない。その見えないところ)が、糸井の見ている「死=空白/空間」かもしれない。
 私はモランディの絵から「死」を感じたことはないが、あまりに完璧な「空間」のとらえ方、「空間」を完結させるやり方は「生」というよりも「死」と呼ぶ方がふさわしいのかもしれない。「生」は未完成ゆえの「なまなましさ」がある。「死」はそれが「目的」を達成していないものであっても、「完結」しているという清潔さがある。「死」は「なまなましくない」。
 「なまなましさ」の拒否、完結した清潔さは、私の印象ではモランディにつながる。
 糸井は、完結した清潔さに死を感じ、そこからモランディを見つめなおしているのかもしれない。
 


 鈴木東海子「月夜の戸口」。

閉めたカーテンの揺れる序曲の会話が耳元に
漂う月夜である。眠りのうす眠りの窓からう
すい光がもれているのを眠るまで見ている習
いが見る動作をゆすっている。

 色の塗り重ねのように、同じことば(眠り/眠る、うすい、揺れる/ゆする、見る)が重ねられている。重ねることで、前のことばを「死」として取り扱っているのか、それとも「滅び始めた/まだ生き残っているいのち」を引き継ぐために、重なっているのか。
 むずかしい。
 かさなりは「空白」を消すのか。重なるときの微妙な差異(ずれ)が識別できない「空白」を生み出すのか。
 むずかしい。
 たぶん、「結論」は出してはいけないのだろう。わからないまま、そこに書かれていることを相対化/固定化するのではなく、揺れることに身をまかせてることが必要なのだろう。
 ここから糸井の作品、さらにモランディへと引き換えてみる、ということもしてみるとおもしろいかもしれない。
 でも、私はモランディを見たとは言えないからなあ……。

夢の水槽―詩集 (1985年)
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