酒見直子「夕日かけごはん」、坂多瑩子「声をかけると」(「詩素」1、2016年11月20日発行)
酒見直子「夕日かけごはん」は「卵かけごはん」を連想させる。実際にそういう詩である。「卵かけごはん」は朝食べる。「夕日かけごはん」は夜(夕方)食べる。
会社から帰ってきてひとり
アパートの三階のベランダに
よっこいしょと腰をおろし
空を見上げながら
ごはんを食べている
(今日)は
いっせいちだいのフィナーレに向けて
盛大な夕焼けを披露している
おかずはないので
茶碗に山盛りの白いごはんを
黙々と食べていたら
新鮮で弾力のある
だいだい色の
夕日が
ごはんに落ちてきた
夕日は地平線に落ちる
のではなく
へその緒をなくした寂しい心に
落ちるから
きっと
ごはんは
寂しかったのだ
夕日のかかった
ごはんを
両口箸でぐるぐる混ぜて
茶碗に口をつけ
かきこんで かきこんで食べている
「かきこんで かきこんで食べている」という行を読むと、真似をしたくなる。「夕日かけごはん」を食べてみたくなる。食べている酒見ではなく、食べている私を想像してしまう。「肉体」がかってに私をはなれ、酒見の肉体になっている。
ことばには、こういう「力」がある。
体験をしたことがないのに、書かれていることを自分が体験していることのように感じてしまう。もう一度同じ体験をしたいという気持ちにかられる。そ
実際に私が体験していることではないのに、どうして、こんなに強く「肉体」に働きかけてくるのか。
新鮮で弾力のある
だいだい色の
夕日が
ごはんに落ちてきた
一連目の、この四行が強いのだ。「夕日」を「卵」にかえると、そのまま「卵かけごはん」になる。「卵かけごはん」を食べたときの肉体、気持ちが揺さぶられる。卵かけごはんには新鮮な卵が大事。「弾力がある」「だいだい色」というのは「新鮮」を言い換えたことばとわかる。この「わかる」が酒見の体験と私の体験の「区別」を消してしまう。「新鮮な卵」が「弾力がある」「だいだい色」と言いなおされるとき、卵かけごはんの卵をどんなものかなあと見ていた私の体験が蘇り、「肉体」が覚えている「新鮮な卵」が「肉体」のなかから生まれてくる。
「新鮮な卵」にであったときの「過去」がいっせいに「いま」に噴出してくる。その「混乱」のなかで、酒見と私がいっしょになり、「卵」と「夕日」といっしょになる。「ひとつ」に融合する。
違うものが「ひとつ」になる。
この「ひとつ」になる感覚が、二連目は少し変化する。
「夕日」ということばには「寂しい」ということばが似合う。そういうイメージが「流通」している。それが突然二連目で出てくる。
「夕日」が「へその緒をなくした寂しい心に/落ちる」というとき、酒見は「へその緒をなくした寂しい心」になっている。寂しいから夕日を見ている。寂しくなかったら夕日など見ないで、どこかで遊んでいるだろう。この「寂しい」を酒見は、自分の肉体ではなく「ごはん」の方に引き渡してしまう。「私は寂しかった」とは言わずに「ごはんは/寂しかったのだ」と言う。
「私は寂しい」と言えないくらいに「寂しい」のである。酒見は深く深く酒見自身へ帰っていく。
そのあとで、再び「夕日かけごはん」にもどる。「肉体」の動き、外からわかる動きにもどる。「寂しい」を「新鮮(弾力/だいだい色)」のエネルギーでかきまぜて、何かに変わろうとしている。「寂しい」と「元気」をかきまぜて、消化して、生きている。矛盾が、いきいきと動いて、「いま/ここ」が描かれているのに、そこに「未来」が書かれているような感じ。その「希望」のようなものに突き動かされる。
一連目を「盛大な夕焼けを披露している」という行のあとで、ふたつにわける。二連目は三連目、三連目は四連目になる。そして「起承転結」という詩の形式が浮かび上がってくる。
一連目、二連目は「現実の風景」。一連目(起)で「全体の大きな情景」を把握し、二連目(承)で情景を「手元」に引き寄せる。
三連目(転)で、それを一気に心象風景(こころの動き)に言いなおす。「寂しい(こころ)」「へその緒(肉体)」と「肉体の内部/心の内部」へ引き返し、同時にそれを「肉体の外/心の外」へと噴出させる。
四連目で、すべてを統合する。
ことば全体の動きにゆるぎがない。「かきこんで かきこんで食べている」という行へ「真っ直ぐ」に進んでいる。この「真っ直ぐ」がいいんだなあ、と思う。
余分なことを書きすぎたかもしれない。私のベランダには夕日が射してこないので「夕日かけごはん」を食べることができない。想像でしか食べることができないので、ついつい余分なことばを書いてしまった。「夕日かけごはんが食べなくなった」とだけ書いておしまいにした方がよかった。
この感想も、読まなかったことにしてください。
*
坂多瑩子「声をかけると」の感想も書きにくい。
何かの拍子に
(ひさしぶり
声をかけると
待ってましたとばかり
あたしの好きだった家が
カラスと夕焼けをつれて
時にはさかさまのままつれて
やってくる
おおきな図体して
いつもどこにかくれているか知らないが
あたしの真ん前に玄関があるので
はいろうとすると
なんだか変で
家のまわりをぐるっとまわってみても
なんだか変で
「変」といってしまえば、それでたぶんおしまいなのだが。「変」が「結論」のようなものなのだが。
私は、この詩の「キーワード」は「変」というよりも「なんだか変」の「なんだか」だと感じた。「なんだか」は「何だか」。その「何」は詩の始まりの「何かの拍子」の「何」に通じる。この「何」を「場所」と結びつけると、三連目の「どこに」にもなる。
「何」とか「どこ」とか、あいまいに指し示すしかできないこと。ことばで特定できないけれど、「肉体」でなんとなく指し示すことのできるもの。「肉体」がかってにつかみとってしまっているが、「ことば」が追いついていないといえばいいのだろうか。
この感じを別なことばで言えば、二連目の「好き」。
「好き」というのは最初に「好きになる」というかってな「肉体(感情、と呼ぶかも知れないけれど)」な動きがあって、あとから「理由」が「ことば」としてやってくる。「理由」はたいてい付け足し。
「ナスターシャ・キンスキーが好き」。なぜ? 「美人だから」。どこが? 「目がいい」。造作が全体的に大きすぎないか? 「でも、バランスがいい。形もいいがバランスがいい」。なんて、やっていたら「ああ、うるさい、やかましい」という感じ。「好き」で、すべては言い尽くされている。
「何」はことばにしなくてもいいのだ。
そのことばにしなくてもいいもの、ことばにすることがないものが、ふっと動く。理由はわからないけれど、動いた瞬間、つられて他のことばにする必要のなかったものが「待ってました」という感じでざわめく。
「家」と「あたし」では「家」の方が大きい。でも、その「家」はいつも「あたし」の内部(どこか)に隠れている。それが、ふっと「肉体」のなかから蘇ってくる。「大」と「小」が逆転しながら動いている。
これを「意識」とか「記憶」とかということばで説明すると、「心理学」になるかも。でも、私はそんなことはしない。
坂多は「何(なん)」ということばをつかっているので、対抗するように(?)、「それ」ということばをつかおう。「あ、それわかる」。「これ」でもいい。「あ、これ、わかる。この詩の書いていること説明できないけれど、わかる」。
「頭」ではつかみとれないけれど、「肉体」がかってに「好き」と決めてしまう。
酒見の詩のときもそうだった。あれこれうるさく書いてしまったけれど、「肉体」がかってに「これが好き」とつかみとる。そのあとで「これ」は何だったのかとことばにしてみる。ことばにすればするほど、「これ」から遠くなる。
「肉体」が「これ」が好きと言ったときの「これ」という「身振り」の「指示」が一番適切(正しい)というときがある。
私は、「肉体」が「これが好き」と言ったときの「これ」を「肉体」に引き戻しながら、「肉体」の奥を目覚めさせながら言いなおしたいと思っているのだけれど、とてもむずかしい。いつも余分なことしか書けない。