大山元「坂の上の家族」(「アンダンテ・パルランド」創刊号、2017年01月01日発行)
大山元「坂の上の家族」は連作詩。その最初の「ネコ」という作品。
何が書いてあるのかわからない。わからないけれど、気になる。
何がわからないかというと「主語」がわからない。「誰が」向きをかえたままでいると、「誰の」視線が「誰の」体にふれてゆくのか、わからない。それなのに気になるのは「向きをかえたままでいる」という「肉体」の動きがわかる。「視線が体にふれてゆく」もわかる。ただしこれは非常に微妙だ。「視線」そのものは「手触り」がない。「つかめない」。それなのに「視線」を私たちは感じる。「肉体」で受け止めてしまう。「肉体」というのは、「つかみどころのないもの」でさえもはっきりと受け止める。「視線」は「名詞」ではなく「目の動き」「見つめる」という「動詞」のことかもしれない。見えないけれど「動いている」、その「動き」を「肉体」はつかみ取る。「わからない」ものをはっきりと感じる力を持っている。だから、わからないのに、何かを感じ、気になる。
次の「姉をよぶなき声が聞こえる」も「誰の」鳴き声なのかわからない。けれど「姉を呼」んでいるということが、わかる。
「わかる」もの(肉体で直に反応してしまうもの)が、頭で「わかる」もの(主語/名詞)を通り越して動いている。この感覚がおもしろい。
「とぎすまされた空気を/声でおさえてさがしている」という「動詞」の動きは、「わかる」かといえば「わからない」としかいえないけれど、それまでに読んできたことばの力の影響を受け、「ぐい」とひきずられる。大山が書いていること(書こうとしていること)の「急所(詩)」のようなものがここにある、と感じる。
詩は、きっと「わからない」もの/こと。「わからない」けれど「わかりたい」もの/こと、なのだ。
私はこの2行を読みながら、あ、ここがいい。ここをもっと読みたいと感じた。
「枯れ草を嗅ぐ仕種」の鼻の位置の低さ、「姉の素足に体をこすりつけている」から、「主語」が「ネコ」であることが推測できる。「こっそり」というのも「ネコ」を連想させるかもしれない。一番重要なのは「枯れ草を嗅ぐ仕種」。これは「ネコ」の姿であると同時に、書いた大山が「ネコ」になって鼻を枯れ草(地面)に近づけている。「肉体」で「ネコ」をつかみ取っている。
「空はながれず/姉は目を流してふりかえり」は一連目の最後の2行と同じようにおもしろい。「空はながれず」というのは、空が流れるものではないだけに「無意味」な一行に見えるが、「姉は目を流して」の「流す」と交錯し、世界を活性化する。「空(自然?宇宙?)」は変化しないが(動かないが)、人間は「動く」。
一連目の「空気」と二連目の「空」は呼応しているのだろう。ことばに、何か不思議な力が動いている。不思議な力がことばを統一しているというか、制御している。その力が強すぎて、大山を突き破って動いている。「詩」を生み出している。
このあと、詩は、一、二連目の「なぞとき」のように動いていく。
ネコを探しているという「物語」に落ち着く。そう動くしかなかったのかもしれないけれど、「物語」になってしまうのは残念。姉が「頭を振って」振り返ったとき、黒髪がパラッと解けたというのでは、シャンプーのコマーシャルみたいな「なぞとき」である。「詩」が消えてしまう。
「家族」の一連目も非常におもしろい。
「声の内側をすりぬけ」は、「声」を追い越して「肉体」が動いていくようで、とてもいい。父を見つけた姉が、声よりも早く父に近づく。そこに「感情」がある。「肉体」が「感情」となって動いている。「感情」が「肉体」になって動いている、かもしれない。
大山元「坂の上の家族」は連作詩。その最初の「ネコ」という作品。
向きをかえたままでいると
視線が体にふれてゆく
姉をよぶなき声が聞こえる
とぎすまされた空気を
声でおさえてさがしている
何が書いてあるのかわからない。わからないけれど、気になる。
何がわからないかというと「主語」がわからない。「誰が」向きをかえたままでいると、「誰の」視線が「誰の」体にふれてゆくのか、わからない。それなのに気になるのは「向きをかえたままでいる」という「肉体」の動きがわかる。「視線が体にふれてゆく」もわかる。ただしこれは非常に微妙だ。「視線」そのものは「手触り」がない。「つかめない」。それなのに「視線」を私たちは感じる。「肉体」で受け止めてしまう。「肉体」というのは、「つかみどころのないもの」でさえもはっきりと受け止める。「視線」は「名詞」ではなく「目の動き」「見つめる」という「動詞」のことかもしれない。見えないけれど「動いている」、その「動き」を「肉体」はつかみ取る。「わからない」ものをはっきりと感じる力を持っている。だから、わからないのに、何かを感じ、気になる。
次の「姉をよぶなき声が聞こえる」も「誰の」鳴き声なのかわからない。けれど「姉を呼」んでいるということが、わかる。
「わかる」もの(肉体で直に反応してしまうもの)が、頭で「わかる」もの(主語/名詞)を通り越して動いている。この感覚がおもしろい。
「とぎすまされた空気を/声でおさえてさがしている」という「動詞」の動きは、「わかる」かといえば「わからない」としかいえないけれど、それまでに読んできたことばの力の影響を受け、「ぐい」とひきずられる。大山が書いていること(書こうとしていること)の「急所(詩)」のようなものがここにある、と感じる。
詩は、きっと「わからない」もの/こと。「わからない」けれど「わかりたい」もの/こと、なのだ。
私はこの2行を読みながら、あ、ここがいい。ここをもっと読みたいと感じた。
その場にこっそり近より
枯れ草を嗅ぐ仕種でうかがう
姉の素足に体をこすりつけている
くらい空はながれず
姉は目を流してふりかえり
「枯れ草を嗅ぐ仕種」の鼻の位置の低さ、「姉の素足に体をこすりつけている」から、「主語」が「ネコ」であることが推測できる。「こっそり」というのも「ネコ」を連想させるかもしれない。一番重要なのは「枯れ草を嗅ぐ仕種」。これは「ネコ」の姿であると同時に、書いた大山が「ネコ」になって鼻を枯れ草(地面)に近づけている。「肉体」で「ネコ」をつかみ取っている。
「空はながれず/姉は目を流してふりかえり」は一連目の最後の2行と同じようにおもしろい。「空はながれず」というのは、空が流れるものではないだけに「無意味」な一行に見えるが、「姉は目を流して」の「流す」と交錯し、世界を活性化する。「空(自然?宇宙?)」は変化しないが(動かないが)、人間は「動く」。
一連目の「空気」と二連目の「空」は呼応しているのだろう。ことばに、何か不思議な力が動いている。不思議な力がことばを統一しているというか、制御している。その力が強すぎて、大山を突き破って動いている。「詩」を生み出している。
このあと、詩は、一、二連目の「なぞとき」のように動いていく。
つめたい風に頭を振って
束ねたながい黒髪をパラッと解いた
きゅうに空がながれだし
身震いして毛についた滴をとばす
おだやかな肌寒い午後だ
「ネコが死にそう」
叫ぶ声がする
はげしく駆けつける
ネコを探しているという「物語」に落ち着く。そう動くしかなかったのかもしれないけれど、「物語」になってしまうのは残念。姉が「頭を振って」振り返ったとき、黒髪がパラッと解けたというのでは、シャンプーのコマーシャルみたいな「なぞとき」である。「詩」が消えてしまう。
「家族」の一連目も非常におもしろい。
私たちが坂をくだろうとしたとき
姉は後ろから呼ぶ声の内側をすりぬけ
体の中を夕映えに向かってたどってゆくと
忘れ去られた父がおのずからひょっこり
定年退職の花束にかくれて坂をあるいていた
「おわったね」などと声の中から顔を出し
あとは未完の死を完成させるだけなので
誰はばかることなくありふれてきた
「声の内側をすりぬけ」は、「声」を追い越して「肉体」が動いていくようで、とてもいい。父を見つけた姉が、声よりも早く父に近づく。そこに「感情」がある。「肉体」が「感情」となって動いている。「感情」が「肉体」になって動いている、かもしれない。
記憶の埋葬 | |
大山元 | |
土曜美術社出版販売 |