監督 黒沢清 出演 タハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー、オリビエ・グルメ
私は「幻想ミステリー」味の映画が苦手。現実と幻想の「境目」の部分が、見た瞬間にわかってしまう。評判の高い「シックスセンス」のような映画でも、ブルース・ウィリスが事故のあとの大学の建物(外観)の映像が映った瞬間、建物というより背後の空の「色合い」に違和感を感じ、あ、ここから映画は「性質」が違うのだとわかり、真剣に見ることができなくなる。
黒沢清は前作「クリーピー 偽りの隣人」では、被害少女への聴取(?)のシーンで「舞台仕掛け」の「照明」と「演技」で「二つ目の解釈」を忍び込ませた。
今回は、写真のモデルの少女(写真家の娘)が登場するシーンが「境目」。
主人公が「ダゲレオタイプ」の写真を見る。生きているみたいだと感じる。写真を撮るための「固定金具」を見る。違和感を感じる。そのあと映像が横にスライドして行って少女がポーズを取っている。この「映像のつながり方」(つなげ方)が「作為」に満ちていて、ここから映画が違ってくるぞ、とわかってしまう。
主人公の青年が「現実」と「幻想」を行き来するということがわかる。言い換えると、これからあとは青年の現実であると同時に青年の幻想なのだとわかる。「現実」と「幻想」だから、どうしたって「幻想」が最後には消える。つまりストーリーのオチがこの瞬間にわかる。
映画はもちろん「ストーリー」ではないからストーリーがいくらわかっていても、おもいしろいものはおもしろいのだが、この映画には魅力に欠ける。
出だしの写真家の住んでいる家のシーンから「伏線」が見えすぎる。主人公が訪ねていくと「入り口」の門の向こうに、もうひとつ「扉(入り口)」が見える。入れ子細工になっている。
家の中では、扉が「意味ありげ」に半開きになり、「扉」のむこうにもう一つの世界があることを暗示する。「境目」は開いたり閉じたりして、「往復可能」な状態にある。
さらに「鏡」が多用される。「現実と鏡」は、「現実と幻想」の関係に似ている。人は「鏡」を見て「現実の自分」を確かめる。同じように、人は「幻想」をみて「現実の自分の姿」を知る。「幻想」は「怪奇現象」ではなく、あくまでも「幻想を見るひとの現実/事実」である。
見え透いた「構造」を隠そうとして、音楽が多用される。ありきたりの「ミステリータッチ」の音である。興ざめしてしまう。
むりやりおもしろい部分を探せば、「ダゲレオタイプ」という古い写真撮影方法を映画の主題に取り込みながら、他方でパリの再開発という「現代」とビジネスを組み合わせていることだろうか。しかし、これは「古さ」を際立たせるための「背景」にしかなっていない。「現在」が「過去」に侵入してきて、「境目」がいっそうわからなくなる、という具合に展開していかない。黒沢の狙いは、たぶん「過去」のミステリアスな写真撮影手法(対象を固定化する)ということと再開発の「解体/対象の流動化」という関係で「境界」を活性化するということなのだろうけれど、こんなふうに「ことば」にできるというとは、それが映画になっていないということ。「説明」になってしまうものなど、おもしろくはない。
写真と死者、現実と幻想という映画には、マノエル・デ・オリベイラ監督「アンジェリカの微笑み」がある。死人、あるいは写真の中の「生きているような女」に恋するという映画からあまり時間が経っていないことが、私の感想に影響しているかもしれない。
予告編をネットで見たときは、これまでの黒沢の映画とは色調が違うように感じた。フランス(パリ)の色に期待した。しかし、映画館の上映システムが影響しているかもしれないが、湿気の多い「日本の空気」を感じてしまった。「幽霊」の周辺が、妙にモンスーンの雰囲気。家の中も、植物ハウスの緑も。冒頭の電車とビルをつくるときのクレーンの組み合わせの「距離感」も。日本人の見たパリであるにしても、こんなに日本的であるならフランスで撮る必要があったのか。フランス資本で日本で撮ればいいのに。
(KBCシネマ1、2016年12月03日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
私は「幻想ミステリー」味の映画が苦手。現実と幻想の「境目」の部分が、見た瞬間にわかってしまう。評判の高い「シックスセンス」のような映画でも、ブルース・ウィリスが事故のあとの大学の建物(外観)の映像が映った瞬間、建物というより背後の空の「色合い」に違和感を感じ、あ、ここから映画は「性質」が違うのだとわかり、真剣に見ることができなくなる。
黒沢清は前作「クリーピー 偽りの隣人」では、被害少女への聴取(?)のシーンで「舞台仕掛け」の「照明」と「演技」で「二つ目の解釈」を忍び込ませた。
今回は、写真のモデルの少女(写真家の娘)が登場するシーンが「境目」。
主人公が「ダゲレオタイプ」の写真を見る。生きているみたいだと感じる。写真を撮るための「固定金具」を見る。違和感を感じる。そのあと映像が横にスライドして行って少女がポーズを取っている。この「映像のつながり方」(つなげ方)が「作為」に満ちていて、ここから映画が違ってくるぞ、とわかってしまう。
主人公の青年が「現実」と「幻想」を行き来するということがわかる。言い換えると、これからあとは青年の現実であると同時に青年の幻想なのだとわかる。「現実」と「幻想」だから、どうしたって「幻想」が最後には消える。つまりストーリーのオチがこの瞬間にわかる。
映画はもちろん「ストーリー」ではないからストーリーがいくらわかっていても、おもいしろいものはおもしろいのだが、この映画には魅力に欠ける。
出だしの写真家の住んでいる家のシーンから「伏線」が見えすぎる。主人公が訪ねていくと「入り口」の門の向こうに、もうひとつ「扉(入り口)」が見える。入れ子細工になっている。
家の中では、扉が「意味ありげ」に半開きになり、「扉」のむこうにもう一つの世界があることを暗示する。「境目」は開いたり閉じたりして、「往復可能」な状態にある。
さらに「鏡」が多用される。「現実と鏡」は、「現実と幻想」の関係に似ている。人は「鏡」を見て「現実の自分」を確かめる。同じように、人は「幻想」をみて「現実の自分の姿」を知る。「幻想」は「怪奇現象」ではなく、あくまでも「幻想を見るひとの現実/事実」である。
見え透いた「構造」を隠そうとして、音楽が多用される。ありきたりの「ミステリータッチ」の音である。興ざめしてしまう。
むりやりおもしろい部分を探せば、「ダゲレオタイプ」という古い写真撮影方法を映画の主題に取り込みながら、他方でパリの再開発という「現代」とビジネスを組み合わせていることだろうか。しかし、これは「古さ」を際立たせるための「背景」にしかなっていない。「現在」が「過去」に侵入してきて、「境目」がいっそうわからなくなる、という具合に展開していかない。黒沢の狙いは、たぶん「過去」のミステリアスな写真撮影手法(対象を固定化する)ということと再開発の「解体/対象の流動化」という関係で「境界」を活性化するということなのだろうけれど、こんなふうに「ことば」にできるというとは、それが映画になっていないということ。「説明」になってしまうものなど、おもしろくはない。
写真と死者、現実と幻想という映画には、マノエル・デ・オリベイラ監督「アンジェリカの微笑み」がある。死人、あるいは写真の中の「生きているような女」に恋するという映画からあまり時間が経っていないことが、私の感想に影響しているかもしれない。
予告編をネットで見たときは、これまでの黒沢の映画とは色調が違うように感じた。フランス(パリ)の色に期待した。しかし、映画館の上映システムが影響しているかもしれないが、湿気の多い「日本の空気」を感じてしまった。「幽霊」の周辺が、妙にモンスーンの雰囲気。家の中も、植物ハウスの緑も。冒頭の電車とビルをつくるときのクレーンの組み合わせの「距離感」も。日本人の見たパリであるにしても、こんなに日本的であるならフランスで撮る必要があったのか。フランス資本で日本で撮ればいいのに。
(KBCシネマ1、2016年12月03日)
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