詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒沢清監督「ダゲレオタイプの女」(★)

2016-12-03 15:57:01 | 映画
監督 黒沢清 出演 タハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー、オリビエ・グルメ

 私は「幻想ミステリー」味の映画が苦手。現実と幻想の「境目」の部分が、見た瞬間にわかってしまう。評判の高い「シックスセンス」のような映画でも、ブルース・ウィリスが事故のあとの大学の建物(外観)の映像が映った瞬間、建物というより背後の空の「色合い」に違和感を感じ、あ、ここから映画は「性質」が違うのだとわかり、真剣に見ることができなくなる。
 黒沢清は前作「クリーピー 偽りの隣人」では、被害少女への聴取(?)のシーンで「舞台仕掛け」の「照明」と「演技」で「二つ目の解釈」を忍び込ませた。
 今回は、写真のモデルの少女(写真家の娘)が登場するシーンが「境目」。
 主人公が「ダゲレオタイプ」の写真を見る。生きているみたいだと感じる。写真を撮るための「固定金具」を見る。違和感を感じる。そのあと映像が横にスライドして行って少女がポーズを取っている。この「映像のつながり方」(つなげ方)が「作為」に満ちていて、ここから映画が違ってくるぞ、とわかってしまう。
 主人公の青年が「現実」と「幻想」を行き来するということがわかる。言い換えると、これからあとは青年の現実であると同時に青年の幻想なのだとわかる。「現実」と「幻想」だから、どうしたって「幻想」が最後には消える。つまりストーリーのオチがこの瞬間にわかる。
 映画はもちろん「ストーリー」ではないからストーリーがいくらわかっていても、おもいしろいものはおもしろいのだが、この映画には魅力に欠ける。
 出だしの写真家の住んでいる家のシーンから「伏線」が見えすぎる。主人公が訪ねていくと「入り口」の門の向こうに、もうひとつ「扉(入り口)」が見える。入れ子細工になっている。
 家の中では、扉が「意味ありげ」に半開きになり、「扉」のむこうにもう一つの世界があることを暗示する。「境目」は開いたり閉じたりして、「往復可能」な状態にある。
 さらに「鏡」が多用される。「現実と鏡」は、「現実と幻想」の関係に似ている。人は「鏡」を見て「現実の自分」を確かめる。同じように、人は「幻想」をみて「現実の自分の姿」を知る。「幻想」は「怪奇現象」ではなく、あくまでも「幻想を見るひとの現実/事実」である。
 見え透いた「構造」を隠そうとして、音楽が多用される。ありきたりの「ミステリータッチ」の音である。興ざめしてしまう。
 むりやりおもしろい部分を探せば、「ダゲレオタイプ」という古い写真撮影方法を映画の主題に取り込みながら、他方でパリの再開発という「現代」とビジネスを組み合わせていることだろうか。しかし、これは「古さ」を際立たせるための「背景」にしかなっていない。「現在」が「過去」に侵入してきて、「境目」がいっそうわからなくなる、という具合に展開していかない。黒沢の狙いは、たぶん「過去」のミステリアスな写真撮影手法(対象を固定化する)ということと再開発の「解体/対象の流動化」という関係で「境界」を活性化するということなのだろうけれど、こんなふうに「ことば」にできるというとは、それが映画になっていないということ。「説明」になってしまうものなど、おもしろくはない。
 写真と死者、現実と幻想という映画には、マノエル・デ・オリベイラ監督「アンジェリカの微笑み」がある。死人、あるいは写真の中の「生きているような女」に恋するという映画からあまり時間が経っていないことが、私の感想に影響しているかもしれない。
 予告編をネットで見たときは、これまでの黒沢の映画とは色調が違うように感じた。フランス(パリ)の色に期待した。しかし、映画館の上映システムが影響しているかもしれないが、湿気の多い「日本の空気」を感じてしまった。「幽霊」の周辺が、妙にモンスーンの雰囲気。家の中も、植物ハウスの緑も。冒頭の電車とビルをつくるときのクレーンの組み合わせの「距離感」も。日本人の見たパリであるにしても、こんなに日本的であるならフランスで撮る必要があったのか。フランス資本で日本で撮ればいいのに。
                      (KBCシネマ1、2016年12月03日)


 *

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カジノ法案衆院委員可決の背景

2016-12-03 08:52:16 | 自民党憲法改正草案を読む
カジノ法案衆院委員可決の背景
               自民党憲法改正草案を読む/番外45(情報の読み方)

 カジノ法案が2016年12月02日案衆院委で可決された。ギャンブル依存症、マネーロンダリング、暴力団の関与などの問題が指摘されている中、たった六時間の審議しかしていない。
 なぜ、こんなに急いだのか。
 読売新聞(西部版・14版)の三面に分析が載っている。11月初旬段階では法案成立はむりという見方が強かったのだが……。

 状況が一変したのは11月下旬。会期延長が避けられない情勢となり、カジノ解禁法案を審議する時間的な余裕が生まれた。同21日には、次期米大統領のトランプ氏がTPPからの離脱意思を表明。安倍内閣の「成長戦略の柱」に不透明感が漂う中、IRへの期待感が膨らんだことも、政府・自民党の背中を押したようだ。

 「時間的余裕」がたった「 6時間」というのは笑い話にもならないが。
 私が注目するのは「21日」という日付。「トランプ」という人物。「成長戦略」ということば。
 安倍は「国の姿」を「経済成長(金儲け)」としか考えていない。これは自民党憲法改正草案の「前文」にはっきり書かれている。

 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」とは「金儲け」のことである。カジノも「金儲け」の方法である。だれが「金儲け」をするか。カジノの主催者。ギャンブルが成り立つのは、客が支払う金が支払われる金よりも少ないからである。胴元が差額を儲ける。「外国人」が日本でギャンブルをしてくれることを期待しているようだが、浅ましい。
 直前に「TPP」のことが書かれているが、活発な貿易を「経済活動」と呼ぶならまだ納得できるが、ギャンブルを「経済活動」に含めてしまうのは、いかがわしい。胴元が金を儲け、胴元からの「トリクルダウン」を安倍が受け取る、ということしか考えていない。
 でも、この「経済戦略」は「方便」。一種の「詐欺」の口実だと思う。
 ほんとうに注目したのは「21日」と「トランプ」。
 というか、そこに「プーチン」の名前がない。
 国会のあとに控えている重要日程に「日露首脳会談」がある。主役はプーチン。ロシアの大統領。その名前がない。トランプが大統領に就任するのは一月。その前に、プーチンとの問題がある。プーチンを気にかける方が重要なはずである。
 日露会談は、北方領土問題の解決(前進/進展?)と経済協力がテーマ。安倍は四島ではなく二島の返還と引き換えに経済協力をする(ロシア側に投資する)という「取引」を考えていたようだ。しかし、どうもロシアは二島さえも返還しないという見方が強くなっている。報道され始めている。つまり、日露会談は「失敗」に終わるだろうという予測が聞かれるようになった。
 これでは一月にもくろんでいる衆院選で国民に訴える「目玉」がない。
 「TPP反対」と言っていたはずが、参院選後は「一度もTPP反対といったことがない」と嘘をつき、いまトランプが「TPP反対」と言っている。「TPP」は衆院選の「目玉」にはできない。
 なんとか、国民にわかりやすい「成長戦略」を見つけ出す必要があるのだ。
 カジノで外国人が日本にやってくる。観光客が増え、地方経済も潤う。しかし、カジノの候補地は、北海道、東京、横浜、大阪、長崎。どこもカジノがなくても観光客がやってくるところではないのか。
 ばかばかしい。 
 カジノ誘致で日露会談の「予測間違い」を隠蔽しようとするのは、「目くらまし作戦」としては幼稚すぎる。あまりにも国民をばかにしている。

 日露首脳会談は12月15日。山口県長門市で開かれる。そこで、どんな「共同宣言」が出されるか。どんな「条約」が結ばれるか。「成果」を安倍はどんなことばで語るか。カジノ法案成立でごまかせるか。あるいは、日露会談でカジノ法案を隠してしまうのが狙いなのか。北方四島よりも、カジノの胴元から安倍に入ってくる献金を大切にしたいのか。
 カジノ法案と日露会談の「関係」にこそ、目を向けたい。書かれていないことの方が重要なこともある。
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